音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POPLEGENDFORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POPLEGENDCAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。
2023年8月の特集は「最新音楽本特集」。PART1は、今年4月に発売された小説『モンパルナス1934』を著者の村井邦彦を迎え掘り下げていく。

田家秀樹:こんばんは。FMCOCOLO「J-POPLEGENDCAFE」マスター田家秀樹です。今流れているのは村井邦彦さんの書き下ろしの新曲「Montparnasse1934」のテーマ、ピアノも村井さんですね、作曲ももちろん。今週の前テーマはこの曲です。
2023年8月の特集は「最新音楽本特集」。「J-POPLEGENDFORUM」時代からの定期的な企画ですね。音楽について書いた本をご紹介する特集です。夏休みですからね、暑いしあまり外に出たくないし、家で本を読みながら音楽を聴く。そんな過ごし方はどうでしょうということでの1カ月です。今週はその1週目、小説をご紹介しようと思います。
blueprintという出版社から出た「モンパルナス1934」、著者が村井邦彦さん。村井さんの特集は何度か組んでおります。アルファ・ミュージックの設立者、作曲家。荒井由実さん、吉田美奈子さん、YMOとかいろいろな新しい人たちを世に送り出した会社であり、人ですね。2021年4月にアルファ・ミュージックの特集を1カ月間組んだのですが、その時に村井さんとリモートでお話をした時にリアルサウンドというウェブサイトで小説を書き出したんだよねという話がありました。その小説は六本木のキャンティの川添浩史さん。
当時は紫郎さんという名前だったのですが、紫郎さんを中心とした膨大な壮大な物語です。あれから2年、単行本として発売されました。今週は村井さんに小説のことをじっくりとお訊きしてみようと思います。

村井邦彦:こんばんは。どうぞよろしくお願いします。

田家:発売になった心境を伺えますか?

村井:コロナの時期を挟んで、2年間家に閉じこもっていましたから、その間に書いた本が出版されて感無量ですね。


田家:全384ページ、大作。

村井:コロナ禍で家に閉じ込められていて、あまり表に出られない状況の中で共同著作者の吉田俊宏さんと毎日のように長文のメールのやり取りをしながら書いてきたんです。コロナ禍のおかげで集中して書くことができました。

田家:始められた時に脱稿の時期とかストーリー展開はどのへんまで思い描きながら、書き始められたんですか?

村井:最初リアルサウンドで連載して、後でそれを編集して一冊の本にしたんです。*連載中はあてどのない旅でした。友人の父親で僕が若い頃色々お世話になった川添浩史さんの戦前1930年代から亡くなった1970年代までの話を書こうと思っていました。
川添さんは21歳の時にフランスに行って多くの芸術家と親交を結びます。その中の一人が写真家のロバート・キャパでした。戦前から映画の輸出入だとか国際的な文化交流をやってきた方で、僕は川添さんに大きな影響を受けました。YMOを世界に売り出そうと思ったのも川添さんの国際文化交流の仕事を若い頃から見てきたからです。

田家:WEBに書いた文字数はもっとたくさんあったんですね。

村井:だいぶ削りました。
削っても約380ページほどになりました。

田家:読ませていただいて、これ映画になるといいなと思ったりしたんですよ。

村井:ありがとう。最初から映画にしたいと思っていたのです。ですからものすごく視覚的に描いていったんです。時代考証のために文献資料の読み込みもたくさんやりました。田家:いやもう、それに驚かされました。村井:川添さんがフランスに行ったのは1934年でした。その頃、ドイツではヒトラー、ソ連ではスターリンが独裁を始めて世界中を引っ掻き回していました。二人の独裁者から逃れてパリにやってきた芸術家はとても多かったのです。そういう政治や歴史に関する文献もたくさん読みましたが、文献の他に昔の映画や音楽を改めて見たり、聞いたりしました。例えば、紫郎(川添浩史さんの若い頃の名前)が1934年にモナコに行ってモンテカルロの歌劇場でイーゴリ・ストラヴィンスキー作曲のバレイ「春の祭典」を観るシーンがあるんですけど、このシーンは1948年に作られた「赤い靴」という映画を参考にして書きました。2009年にマーティン・スコセッシ監督がオリジナル・ネガを修復してカンヌ映画祭で映写して話題になった作品です。ロケは戦後間もない時期にモンテカルロで行われているので、ものすごく参考になりました。例えば今はもう無くなっているモンテカルロの古い駅がカジノの下に繋がっているとか、バレエ団の人たちの会話とかものすごく役に立ちました。繰り返し5回ぐらい見ました(笑)。

田家:そういう話をいろいろ伺っていこうと思うのですが、流れている「Montparnasse1934」のテーマ、これは書き下ろしの新曲ということですね。

村井:そうです。本が完成したら頭の中で自然に音楽が鳴り出してしまったのです(笑)。映画の撮影前にテーマ音楽が先にできてしまったのです。戦前のいい時代のノスタルジーを感じられるような曲を書きたいと思っていたました。ある日家でブラームスのピアノ曲、インターメッツォを弾いていたんです。そしたらこの映画にピッタリのメロディが出てきて、原曲は4分の3拍子なんですけど、それを4分の7拍子に書き換えたり、全く新しい部分を付け加えて交響曲としてやりたいと思ったんです。この15年ほど、僕はロサンゼルス在住のクリスチャン・ジャコブというフランス人のジャズ・ピアニストで作編曲家と組んで仕事をしているんですけれど、彼と2人で作業を始めました。クリスチャンはクリント・イーストウッド監督の「ハドソン川の奇跡」(2016年)の音楽を担当した人です。交響楽団をロサンゼルスで録音すると、ものすごくお金がかかるんです。予算がないのでハンガリーのブダペストで録音しました。ブタペスト・スコアリング・オーケストラというのがあって、1時間単位で録音ができて、しかも僕たちはロサンゼルスにいてZOOMで繋げて録音するのでブダペストまで行く必要がない。すごく経済効率がいいんです。しかも出来上がった作品の完成度は高いです。さすがブダペストはウイーンと並んで音楽の伝統がある街だと思いました。

田家:そうやってレコーディングされた「Montparnasse1934」のテーマをBGMに今日はいろいろお話を伺っていこうと思うのですが、曲は村井さんに関係している曲を選んでみました。1曲目は荒井由実さんの「私のフランソワーズ」。

田家:荒井由実さんの1974年のアルバム『MISSLIM』から「私のフランソワーズ」を選んでみました。ユーミンには当時の日本女性ミュージシャン、アーティストの中では珍しくヨーロッパ嗜好を感じていたんです。この曲があったので、そうか、フランソワーズ・アルディかと思ったんです。

村井:ユーミンの『MISSLIM』のジャケットの写真は川添浩史さんの妻、梶子さんのアパートで撮影されました。ユーミンの着てる服は梶子さんが選んだイヴ=サン=ローランのデザインのものです。

田家:ピアノも梶子さんのものなんですか?

村井:ピアノは梶子さんの友人の花田さんのものです。花田さんの麹町の家にあった古い自動ピアノなんですけど、花田さんが引っ越してピアノの置き場所がないので梶子さんのアパートに置いてあったんですよ。

田家:川添梶子さんと花田美奈子さんは本のエピソード1で登場します。本はエピソード1から14までありまして、エピソード1がカンヌ、1971年1月。ここに村井さんがなぜ紫郎さんのことを書こうと思ったのかということが書かれていましたね。

村井:実は梶子さんはジャケット撮影の4カ月後1974年の5月に亡くなってしまうのです。1970年にご主人の川添浩史さんが亡くなって以来すごく落胆していて元気がなかった。なんとか気晴らしをして欲しいと思って梶子さんに「カンヌでミデムという音楽見本市があるのだけれど一緒に行きませんか」と誘いました。梶子さんにとってカンヌは川添さんとの思い出が沢山あるところなのです。「行こうかしら」と梶子さんは言いました。花田美奈子さんも「私も心配だからついていく」って3人でカンヌに行くことになりました。ミデムの後カンヌから車でパリまで僕が運転して、パリに着いた時に僕は梶子さんから「あなた紫郎のことを本に書いてよ」って頼まれるのです。

田家:本を書き始めるに当たって、この1971年1月に梶子さんからそういうふうに言われたところから始めなければいけない必然性があった。村井さんはアルファ・ミュージックを始められる時に川添浩史さんがいなかったら始められなかったと言っていいくらいに近いご関係なわけでしょ?

村井:そうですね。川添浩史さんは、フランスのバークレー・レコードの創業者であるエディー・バークレーと親しかった。タイガーズが解散して加橋かつみがソロになる時にエディー・バークレーが日本のアーティストと契約したいと言うので川添浩史さんは加橋かつみをバークレーに紹介した。そして息子の川添象郎をプロデューサーとして送りこんだわけです。象郎から僕に電話がかかってきて「パリで録音しているんだけど来ないか」って言われて行ったんです。2カ月ぐらい滞在しました。その滞在中、僕はバークレー・レコードの音楽出版部門と仕事することになって、それをきっかけにアルファ・ミュージックを作ったんです。バークレー・レコードの出版部門が持っていた曲で、後にポール・アンカが英語の詞をつけた「マイ・ウェイ」という曲の出版権を獲得したんです。

田家:その頃に紫郎さんとはどのくらいの頻度でお会いになったり、どんな話をされてたりしたんですか?

村井:川添浩史さんと梶子さんがキャンティを始めたのは1960年で僕は15歳でした。息子の川添象郎、光郎兄弟と親しかったのでキャンティには年中行っていました。キャンティはお二人の自宅の延長のような感じでした。世界中の友人たち、日本の友人たちがお二人に会いにくるのです。友人の多くは音楽家、絵書き、建築家、舞踊家、デザイナー、作家などの芸術家でした。川添さんは「キャンティは子供の心を持った大人と、大人の心を持った子供のために作られた場所です」といつも言っていました。子供と大人を分けないで同じ席に座らせるのです。おかげで僕は作曲家の黛敏郎さんや画家の今井俊満さんのような先輩たちの会話を聞きながら育ちました。大学に行くようになって川添浩史さんのやっていた「アスカ・プロダクション」で手伝いをしました。川添象郎が作った「エル・フラメンコ舞踊団」の全国公演の制作助手のようなことをやって、川添浩史さんにくっついて法務省に行ったり、プログラムの原稿を集めをしたりしていました。だから川添浩史や梶子さんと一緒にいた時間は長かったです。

田家:浩史さんと梶子さんのストーリー、いろいろな要素がある小説だなと思ったのですがラブストーリーでもありますもんね。歴史を題材にしながら、こういうとっても身近なラブストーリーになっていることも、本の1つの特徴に思えたので次はこの曲をお聴きいただこうと思います。リュシェンヌ・ボワイエで「聞かせてよ愛の言葉を」。

聞かせてよ愛の言葉を / リュシェンヌ・ボワイエ

村井:この曲は小説の最初の部分と中間と最後の部分に出てくる重要な曲です。この曲を提案したのは共著者の吉田俊宏さんでした。この曲は川添紫郎がマルセイユに到着する1934年にヒットした曲なんです。吉田さんはちゃんと調べて裏を取っているのです。小説の中に出てくる音楽、例えば紫郎がカールトンホテルのダンスパーティーで日本の武道のような踊りを踊る時の音楽は曲名は書いてはいないんだけど、キャブ・キャロウェイの曲です。キャブ・キャロウェイは1934年にはヨーロッパツアーをしているわけ。キャブ・キャロウェイのバンドがカールトンホテルで演奏していて、そこで紫郎が踊るという想定です。いちいち全部裏をとっているのは新聞記者である吉田俊宏さんの手法に習いました(笑)。

田家:最後に村井さんがYMOの成功を社長室でお聞きになって、涙を流される。その時に出てくるのもこの曲「聞かせてよ愛の言葉を」ですよね。

村井:そうです。「モンパルナス1934」には音楽だけでなく文学からの引用も沢山あります。一番重要な引用はポール・ヴァレリーの講演録「地中海の感興」からとったものです。この講演で、ヴァレリーは少年の頃生まれ故郷の南仏セットの海で泳いでいた時に見た光景を語っています。その頃、セットではマグロ漁業がすごく盛んでした。ヴァレリー少年は真っ青な海の中に真っ赤な血だとか、ピンク色や紫色の異様なものが大量に漂っているのを見ます。それは肉だけを取りさられた大量のマグロの残骸でした。ヴァレリー少年はこの光景を嫌悪するのですが、好奇心にかられて目を離すことができません。ヴァレリーはギリシャ悲劇の残酷なシーンを見ているような気持ちになり、それが美しいとも思い始めるのです。地中海ではギリシャ・ローマの頃から今に至るまで数々の戦争がありました。地中海の水を全部汲み取ることができたなら、海底からギリシャ・ローマ時代の船や馬や兵士の死骸とか財宝だとか、悲劇的な戦争の跡が大量に出てくるでしょう。ヴァレリー少年が見たこの光景は紫郎の脳裏を離れることなく何度も思い出されるのです。このヴァレリーの文章を音楽で言う通奏低音みたいにして、小説の始まりから終わりまでずっと流していこうとを考えたのです。

田家:それは小説ならではですね。事実がリアルにドラマチックに織り込まれておりまして、紫郎さんがどういう人だったか、これも僕は初めて知ったのですが後藤象二郎さん、明治維新の立役者の。お孫さんだったというのは聞いていましたけど、彼がなぜフランス、モンパルナスに行くようになったか経緯とか、向こうに行って彼がどういう立場で動いていたかみたいなことを初めて知りましたね。左翼運動をやってらしたというようなこととか。

村井:1930年代の始め日本の多くの若者がマルキシズムに傾倒しました。それに対して特高警察が取締を強化して、1932年には600名とか大変な数の旧制高校の生徒を逮捕するんです。川添さんも逮捕された学生のうちの一人でしたが、フランスに行ってしばらく日本に帰ってこないことを条件に釈放されました。後藤象二郎の孫だったから特別扱いだったのかもしれませんが、パリで出会い紫郎の終生の友となった井上清一さんも同じように熊本の旧制五校生の時に逮捕された人でしたから国外追放の例は他にも沢山あったのかもしれません。

田家:船の中にまで特高が尾行しているという話で、それがエピソード2ですもんね(笑)。今日の3曲目はお話の中でも重要な場面で出てくる人たちです。YMOで「東風」。

田家:1978年に発売になったアルバム『YellowMagicOrchestra』から「東風」。小説から話がそれるんですけど、これは坂本龍一さんの作曲で龍一さんのことであらためて思われることは?

村井:もっと仕事をして、いい曲を書いて演奏もしてもらいたかったですよね。幸宏も連続ですからね。細野くんと先週会ったんだけど、やっぱりまだガックリしていました。当分立ち直れないんじゃないのかと心配です。

田家:ですよね。「モンパルナス1934」は坂本さんにも読んでほしかったでしょうし。

村井:そうなんですよ!

田家:いろいろ響くこともあるんじゃないかと思っております。この「モンパルナス1934」は1から14までエピソードがあって、2から10がヨーロッパ時代、10が1940年1月。紫郎さんは上海経由で神戸に帰ってくる。ヨーロッパの当時の時代背景、ディテール。特にパリのディテールがおもしろかったですねー。

村井:ヒトラーもスターリンも抽象芸術が嫌いなんですよ。抽象芸術家に対する弾圧がすごくあって、ドイツ、ソ連、ポーランド、ハンガリーなどから芸術家がどっとパリに逃げてくるという社会状況だった。ユダヤ人への弾圧もひどくなってきたからユダヤ系の人々もパリに逃げてきた。モンパルナスは今でこそ繁華街ですけど、昔はちょっと場末感のあるところで家賃も右岸や左岸のサンジェルマンに比べるとずいぶん安かったようです。ですから母国を離れてパリに逃げてきた芸術家たちの多くはモンパルナスに住んだようです。元々、第一次世界大戦の前からモンパルナスは生活費が安いので芸術家の集まる土地柄だったんです。藤田嗣治、モジリアニなどなど数え切れないほどの多くの画家が住んでいました。

田家:喫茶店、というよりお酒も飲める食事もできる、パリならではのカフェの名前も出てきましたね、特にラ・クボール。

村井:はい。ラ・クーポールは1927年に創業した店です。できた時から地元に住む画家や芸術家の溜まり場になりました。大きくて立派なカフェですが、マキシムズみたいな格式のある高級レストランではなくて、みんなが普段の生活で朝起きたらコーヒー飲みに行くとか、夜になると酒を飲んだりご飯を食べたりするところです。出される料理は家庭料理みたいなものばかりですが値段は普通のカフェよりはだいぶ高いです。その分味もサーヴィスもいいです。そういうのを真似して、川添さんはキャンティを作ったんだと思います。

田家:ラ・クボールって今でもあるんですか?

村井:もちろんあります! 僕は1970年代ぐらいから通い詰めた。パリに行くと、必ず行きます。すごく大きいんですよ。大学の学食の巨大版みたいな感じです。ガラス戸で仕切られた別室のバーや道路に張り出したテントの下の席があって、食事をする部屋は天井も高くて気分がよくなるところです。冬になると牡蠣だとか、エビだとかはまぐりを載せる台が外に置かれてその横で牡蠣を剥く人がものすごいスピードで牡蠣を剥いている。

田家:そういうカフェの名前とか通りの名前、ジョルダン通りとかシテ・ユニヴエルシテール駅とか、本当に具体的ですもんね。バーで頼むお酒の名前とかカーチェイスがあったり映像が浮かんできて、その時に運転手さんがどういう人だったかというストーリーまでもちゃんとお書きになっている。

村井:小説を書いていて楽しいのはそういうディテールを考えることなんです。「メーキング・オブ・モンパルナス1934」の一部を披露しますね。田家さんがおっしゃるカーチェイスのシーンはパリのリヨン駅から始まってモンマルトルのサクレクールのあたりで決着がつきます。逃げるのはボロボロのルノーの白タクに乗った紫郎、追うのは特高警察の回し者と思われる男で運転手付きの最新型の大型ベンツに乗っています。Googleマップで地図を見て線を弾きながらどういうルートにしたらいいか考えました。

田家:自分が運転しているような気分で(笑)。

村井:僕はパリでは自分で運転していましたから道には詳しいんです。一方通行とか結構頭に入っている。リヨン駅からセーヌ川左岸に出るルートは自分で作りました。右岸に出てからはクロード・ルルーシュ監督が1976年に作った9分の短編映画「ランデヴー」のルートを参考にしました。早朝のパリでフェラーリが暴走する実写の短編映画です。ボロボロのルノーと最新型のベンツとの戦いですから広い道ではルノーには勝ち目がありません。「ランデヴー」のラストシーンに出てくるモンマルトルの丘の上の、車が一台しか通れないような細い迷路のような道に勝負を持ち込み逃走に成功するのです。「ランデヴー」を吉田さんに見てもらって文章化してもらいました。名文になりものすごく迫力が出ました。

田家:白タクの運転手さんがベルリンでマルキシズムとファシズムの研究をしたユダヤ系フランス人で、ベルリンからパリに逃げてきた人だったという。

村井:紫郎と運転手にマルキシズムとファシズムの話をさせようと考えました。吉田さんにこれは普通の運転手ではなくて、インテリが失業して運転手をしてる想定にしようと提案しました。カーチェイスしながらファシズムとは何かとか、自由とは何かという会話をさせたかったのです。紫郎は21歳だから、運転手はもうちょっと年上のインテリがいいと考えました。高等師範学校というエリートが行く文化系の学校の卒業生リストを調べました。紫郎より何歳か上の社会学者レーモン・アロンが適役だと思いました。ジャン・ポール・サルトルと同級生です(笑)。吉田さんにレーモン・アロンを白タクの運転手にしましょうと言ったら、「それではあまりあからさまなので、名前をモーリス・アロンに変えましょう」と言うのでこの運転手の名前はモーリス・アロンになりました。

田家:そういう会話をしたら連日長文のやり取りになりますね。そうやって生まれた小説です。歴史フィクションという言葉を今回使われておりまして、ディテール、人物、実際のことが小説になっている中にさっき少しおっしゃった時代背景。スターリンとナチスがせめぎ合ってみたいな時代で、日本のその時代のこともたくさん書かれていて。満州に進出して国際連盟を脱退して、日独協定を結んでファシズムの一族を担う形で戦争に入っていく。それをヨーロッパからお書きになっているのがものすごく自然だったんです。

村井:日本人が世界の歴史を考えるとどうしても日本を中心に考えてしまう。吉田さんと話したのは、俯瞰して地球の歴史を見られるようにしようということでした。スペイン市民戦争(1936年)と日中戦争(1937年)はほぼ同じ時期に起こっています。紫郎の親友で報道写真家のロバート・キャパはスペイン市民戦争の写真で有名になり、1938年にはタイム誌の依頼で中国に行って日中戦争の現場や蒋介石や周恩来の写真を撮っています。キャパは民衆からの目線で写真を撮っている。紫郎は日本人ですから日本のことを弁護したいのですが世界は自由主義の人たちの陣営に傾いていくわけです。紫郎とキャパは距離が遠くなってしまったと感じたかもしれません。

田家:第二次世界大戦後、キャパがインドシナに行く前に東京でお会いになっている話もありましたもんね。アヅマカブキの最中に日本に帰ってきて。ロバート・キャパは紫郎さんが無名時代に出会っていて、ユダヤ人でカメラを買うお金がなくて、毎日新聞からライカを借りて写真を獲って、そこから戦争の写真を撮るようになった話もありました。

村井:それは事実なんですよ。キャパはモンパルナスの紫郎の家の居候だったこともありました。本当に仲の良い仲間だったのです。戦争が終わって紫郎とキャパは日本で再会します。戦争を挟んで十数年間会っていませんでした。でも若い頃の親友たちですから固く抱擁し合って再会を喜びました。二人とも感無量だったでしょう。一月ほど日本で毎日一緒に過ごした後、キャパはインドシナ戦争の取材に出かけて地雷を踏んで即死しました。キャパの死後、川添さんはパリ時代の仲間の井上清一さんと一緒にキャパの書いた「ちょっとピンぼけ」を翻訳して出版するのですが、そのあとがきにキャパとの出会いと別れを切々と書いています。

田家:そういう中で自由が生まれていく。今の世界と同じだなと思って読んでました。

村井:結局人間って自由を求めて生きていくんです。川添さんの遺言の中にそういうことが書いてあったそうです。僕はその遺言は読んでいませんけど、次男の川添光郎が川添さんが「人間は自由でなければいけな」と書いていたことを教えてくれました。それもこの本のテーマの1つなんです。

田家:1945年8月15日に疎開先の山中湖で4歳の象郎さんにこれからは自由の時代だというふうに言い聞かせるところで、話が終わっています。それは本のメインテーマがこれなんだなと思ったりしました。

村井:その通りですね。僕たちが川添さんから受け継いだ精神の中の最も重要なところですね。あともう1つ、川添さんは「美は力」だと言っていました。「美しい」ということがお金や権力に対抗できる力なんだよということを教えてくれました。それも僕の人生を決定した言葉の1つです。

田家:YMOをもう1曲お聴きいただこうと思います。1979年のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』から「BehindTheMask」。

田家:この本の後半の1つのテーマがアヅマカブキとYMOのワールドツアーだとも思ったんですけども、日本文化を海外に広める。これはやっぱり紫郎さんから村井さんが受け継がれたことであると。

村井:川添さんは戦前から映画の輸出入をやっていたんです。日本から石川啄木の映画を持っていって戦争が始まる寸前のヴェニスの映画祭で上映しています。「大いなる幻影」(1937年)というジャン・ルノワールの映画を日本で公開しようとするんですけど、ドイツ大使館から圧力があってこの映画は日本では上映できなくなってしまうこともありました。内容にドイツの軍人を馬鹿にしたようなところがあってナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッベルスが日本での上映を止めろとドイツ大使館に指令を出したのだと思います。日独伊の三国同盟の締結のためにドイツの悪いイメージになるような映画の日本での上映を阻止したかったのでしょう。この顛末もこの本に書いてあります。世界の文化を日本に、日本の文化を世界に持っていくということが川添さんの一番やりたかったことなんです。その中でいくつかの成功があります。例えば「ウエスト・サイド・ストーリー」のオリジナル・キャストを日生劇場でやったのも川添さんです。本格的なブロードウェイのミュージカルを日本で見られるようにした初の試みでした。天才的な舞踊家、吾妻徳穂さんの「アズマ・カブキ」をワールドツアーに出して欧州とアメリカで大成功しました。ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスとかニューヨークのブロードウェイだとか一流の劇場で公演しています。その成功を僕は子どもの頃に聞いていて、「いやー素晴らしい仕事だな」って思いました。僕も大人になったら日本のいいものを外国に持っていって見せたいなと、ずっと思っていたわけなんですね。

田家:後半のエピソード10以降は日本の話が多くなっていて、1970年の万博のこととか、1968年に村井さんがアルファを作られた時のこともお書きになっていて、前半で出てきている方たち、パリで会ったような建築家の方とか、そういう人たちが1970年の万博の主要スタッフにもなっていたというのも、ちゃんと繋がっていましたね。

村井:1937年のパリ万博では、紫郎の仲間の建築家、坂倉準三が日本館の設計をしてグランプリを取るのです。小説の中に紫郎、坂倉、岡本太郎、井上清一がパリ万博の会場を歩くシーンを作りました。

田家:オンド・マルトノがそこで初めて使われた。

村井:四人が会場を歩いていると、セーヌ川沿いのところでオリヴィエ・メシアンが作曲したオンド・マルトノという電子楽器のための曲のコンサートをやっていた。オンド・マルトノはシンセサイザーの元祖のような電子楽器です。紫郎はこのコンサートを聞いてこの楽器のために日本人が作曲したらいいものができるのではないかと考えます。伝統的な西洋の楽器と違って何か新しい表現ができるのではないかと思うのです。この部分は僕と吉田さんの創作ですが、40年先のYMOの出現を予測するいいシーンだと思います。細野晴臣にこのシーンのこととオンド・マルトノのことを話したら、もちろんこの楽器のことを知っていて大変興味を持っていました。1937年に発表されたメシアンの電子音楽はネットで聞くことができますのでぜひ聞いてください。美しいですよ。1937年のパリ万博の会場を歩いた仲間達は、1970年の大阪万博で大活躍をします。川添さんは富士銀行グループのパビリオンの総合プロデューサーを務める。坂倉準三は電気館を設計する。岡本太郎は有名な太陽の塔を作ります。残念ながら完成を前に坂倉さんは1969年に亡くなり、川添さんは1970年に亡くなります。戦前のパリで出会った若者たちが敗戦から立ち上がって復興した日本の象徴的な出来事であった大阪万博で活躍をするのもこの本のメインの部分なんです。

田家:戦前の1930年代に青春を過ごした人たちの夢とか、志とか願いとか希望がずっと繋がってきて、1970年代の日本、そしてYMOのワールドツアーというところで完結していくストーリーですもんね。YMOの成功を社長室で聞かれた村井さんが涙を流された時に「聞かせてよ愛の言葉を」が流れていた。こういう終わり方でした。最後の曲は新曲をもう1曲お聴きいただこうと思います。「1月のカンヌ」。

1月のカンヌ / 村井邦彦

田家:これはさっきの「Montparnasse1934」と同じように小説のためにお書きになった?

村井:はい。オーケストラの方がメインテーマで、こちらは愛のテーマですね。カンヌで出会った男と女の。

田家:エピソード1の。

村井:そうですね。これねまだピアノだけですけども、今度ロスに帰ったらフランス人の男と女の歌手でフランス語の歌詞をつけて録音することになっています。

田家:歌詞もじゃあ?

村井:彼らが今書いてます。日本語の詞は長年の相棒、山上路夫さんが今作詞中です。

田家:映画化というのはもう頭の中におありになって、段取りが始まっているんですか?

村井:まだです。僕は音楽の専門家ですから、音楽はできるけど映画にするには映画の専門家にやってもらわないとできないので。

田家:でもロスにはそういうご関係の方がたくさんいらっしゃるでしょ?

村井:そうですね。まず、息子が映画監督をやっていますから彼にも相談してみようと思っているんですけど。彼は9歳でアメリカへ渡っちゃったから、これだけ厚い日本語の本を読むのは大変なんです(笑)。

田家:英訳するの大変ですもんね(笑)。

村井:とりあえず映画の台本を作るためのシナップスの英語版を作ろうと思っています。

田家:音楽はこの場面ではこういう音楽みたいなことも、頭の中におありにある?

村井:そうですね。音楽は本業ですからね。

田家:いつ頃みたいなことは言えそうですか?

村井:いやー、こればっかりは分からない(笑)。でも、こういうのって決まると早いですからね。

田家:小説の2年間ほどはかからないでしょうね。この番組がLEGENDCAFEなのでさっきもカフェの話が出ましたけども、村井さんにとってのLEGENDCAFE、思い出のカフェを1つ挙げていただくとしたらどこになりますか?

村井:さっきお話をしたラ・クポールという店です。一番よく行ったカフェで、大きさとか来てる人の多様性、世界中の人たちが来ているところが面白いです。大きいレストランの運営って大変だと思うのですがサーヴィスも大変良くて素晴らしいです。大勢で食べるとなんか元気が出てくるんですよ。

田家:当然映画の中でも出てくるわけですね。

村井:当然出てきます(笑)。

田家:分かりました、映画を楽しみにしています! ありがとうございました。

村井:こちらこそありがとうございました。

村井邦彦が語る、「キャンティ」創業者・川添浩史を描いた著書『モンパルナス1934』


流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

2年前にリアルサウンドで小説の連載が始まった時に、この話はどういうところに進んでいくんだろう、どんなところに着地するんだろうと思ったのですが無事完結しましたね。予想を超えるボリュームと内容でありました。1930年代ヨーロッパ、パリという街がこんなにいきいきと描かれた日本の小説があったかなと思いました。主人公の川添紫郎さんだけじゃないですね。いろいろな人たちがとにかく登場してきます。アンドレ・マルローとかジャン・コクトーとか、ポール・ヴァレリーとか名前は知っているけどなっていうような歴史上の人たちとか、彼らがまだ若くて海のものとも山のものともしれない時に自分の夢とか未来を語っているんですね。青春小説でありながら、歴史や文化の勉強になります。

第二次世界大戦前の世界がどう動いていた。ヨーロッパがどんなふうにせめぎ合っていて、日本がどこにどう関わって、ヨーロッパから日本はどう見られていたのかということも主人公の口を通して語られているので、どんな歴史の教科書よりもリアルでドラマチックでヒューマンな物語になっているんじゃないでしょうか。で、同時に今のウクライナとロシアが戦っている世界、そして中国がああいう形で全体主義に向かっているという今の時代とすっぽり重なり合う、リアルでしたね。ファシズムも共産主義も同じなんだ、ヒトラーを信じるか、スターリンを信じるかだけでそこに自由はないんだという話を紫郎さんと周辺のまだ無名の人たちが語り合っている。そこに警察に追われたり、スパイがいたり、恋人がいたり別れたりというお話も加わる。本当におもしろい小説でした。それを受け継いだのがキャンティだったという、画期的な音楽本だと思いました。あえて音楽本と言ってしまいますが、音楽のことだけではないです。音楽を書くということは、こんなにいろいろなことが書けるんだという見本のような小説です。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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