10月14日にこの世を去ったディアンジェロ。友人でありコラボレーターであるクエストラヴが、彼に捧げる追悼文をRolling Stone誌に特別寄稿。
「僕にとってディアンジェロは、ブラック・ミュージックにおける最後の”純粋なアーティスト”のひとりだった」

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10月14日、火曜日の朝、電話の音で目が覚めた。その時間にかかってくる電話で、良い知らせだったためしはない。僕は覚悟していた。わかっていた……けれど、本当にはわかっていなかった。

はあ……でも、わかっていた。

僕は片足をディアンジェロの闘いのそばに踏みとどまらせながら、もう片方の足は「アミール、もう彼を”家”に帰してやる頃かもしれない」と囁く靴の中にあった。スローン・ケタリング病院での最後の会話で、Dがこう言った。「頑張ってるよ、ブラザー……でも今日は本当にしんどかったんだ……わかるだろ?」

ああ、わかるよ……痛いほど。

正直なところ、その一撃を受ける覚悟はできていなかった。でも、もう25年くらいその衝撃に備えていたんだ──2000年の『Voodoo』という激流の頃からずっと。Dに関しては常に、「いつか”あの電話”がかかってくるんじゃないか」という予感があった。太陽のすぐそばまで飛んでしまうような孤高の天才たちは、その旅の終わりまで見届けることができない。
そして今、午前5時半。僕らはその現実の中にいる。

数秒のうちに決断しなければならなかった。この新しい現実をどう受け止める? 火曜の朝を”mourning(喪に服す)”ことで始めたくはなかった。

涙腺が熱くなりながら、サンフランシスコの坂道をグランドピアノが転げ落ちるようなこの胃の重さを少しでも和らげてくれる”幸せな気の逸らし方”を探した。明るい記憶をひとつだけ。ひとつでいい。その瞬間、ふとあの日のことが脳裏に浮かんだ。

1997年5月のことだ。

『Voodoo』制作のために、僕らは「エレクトリック・レディ・ソウル刑務所」での”服役”8カ月目に突入していた(それが4年にも及ぶとは、そのときはまだ知らなかった)。その日の夜、夕食休憩を取っていたときに、マイケル・ジャクソンが新作『Blood on the Dance Floor』をリリースしたというニュースが入った。必ずしも「体験すべき一大イベント」という感じではなかったが、マイケルには少なくとも2分くらいは鑑賞に値する楽曲が常にある……そう思ったんだ。


そして「Morphine」が始まった。いや、正確には──「Morphine」のブリッジ部分に対する、僕ら全員の衝撃が始まった。その直前までナイン・インチ・ネイルズばりのカオスが炸裂していたかと思うと、突然コーダ(終結部)が落ちてきて──まあ、2分37秒あたりを再生してみてよ。あの瞬間、スタジオで初めてそれを聴いた僕らの気持ちを想像してほしい。

よくあるミームで、兄弟たちが屋外のテーブルで笑いすぎて抱き合い、ついには床に倒れ込むシーンがあるだろう? まさにあれだった。あの過剰なまでの歌いっぷりに、僕らは笑い転げて、スタジオ・アシスタントに「アドビル(頭痛薬)を持ってきてくれ」と頼んだくらいだ。誤解しないでほしい──僕は死ぬまで”MJ命”だ。けれど、あのジェームス・ブラウン直系の”ブリッジの王者”が、あんなブリッジを披露するとは夢にも思わなかったんだ。

僕らはその曲を6回もリピートした。スタジオの周りにいた連中は、きっと頭がおかしくなりそうだったと思う。でも、愛情を込めて茶化し続けた結果、皮肉なことに、あの曲は僕にとってマイケルの作品で”本気で好きになった”最後の瞬間になった。

笑いすぎてケガをする、という話で思い出した──ソウルクエリアンズの仲間であるジェイムス・ポイザーが昔こう言っていたんだ。
「バスタ・ライムスを除けば、あの”ダブルスナップ・サルート”(両手でパチンと指を鳴らす挨拶)で骨を砕くほどの勢いを出すのはDくらいだった」と。僕なんて、彼に挨拶するのを避けたことさえある。ドラムの手を守るためにね。”Pain is love”なんて言うけど、さすがにあれは勘弁だった。

僕にとってディアンジェロは、ブラック・ミュージックにおける最後の「純粋なアーティスト」のひとりだった。僕らは”謎めいたシリアスさ”をうまく演じていたけれど、実際のところ──中身はただのお調子者な連中だったんだ。

二人の出会い

正直に言えば、もしあの件がなければ、あと数年は友情が続いたかもしれない……よし、話そう。ことの発端は、1993年のクリスマスから3日後。ザ・ルーツがメジャー・デビュー作のミックス作業をしていたとき、エンジニアのボブ・パワーがずっと騒いでいたんだ。「”マイク”ってやつがいてさ、マーヴィン・ゲイ、アル・グリーン、フランキー・ビヴァリーの再来だ!」って。「はいはい、そういうのはもう何度も聞いたよ」って感じだった。僕の中では、10年前に”俺たちの心を支配した”プリンスを超えられる存在なんていない──そして、これからも現れない。
だから、最初からその話にはあまり乗り気じゃなかった。

そして”マイク”が部屋に入ってきた。その瞬間、ゲームオーバーだった。彼のティンバーランドのチャッカブーツは、「Smooth Criminal」のMVのように斜めに傾いていた。あんな埃まみれのティンバーを履く男が”音楽の未来”だなんて、ありえないと思った。握手を交わしたあと、僕はすぐに休憩室へ退散し、無料の長距離電話を利用して時間を潰した(補足:1年後、僕はJ・ディラのことも最初は同じように軽視していた。ラッキーとしか言いようがない)。

シーンは2年後──1995年のソース・アワードへと切り替わる。ヒップホップにとっての転換点。僕は何度も言っているが、あの日はヒップホップの葬式だった。大げさに聞こえるかもしれないが、あの日以降、誰も同じではいられなかった。”東海岸vs西海岸”はもはや神話ではなくなっていた。
拝金主義ラップvsコンシャス・ラップ。プロデューサー・オブ・ザ・イヤーを受賞したのはドレー。ニューヨークの観客はブーイング。スヌープがブチギレる。「お前ら、俺たちのこと愛してねえのか?!?!?!」。火薬庫のような空気を感じた僕は、『宇宙戦争』のトム・クルーズのようにその場から逃げ出した。

マディソン・スクエア・ガーデンの外で、ストリートのプロモーターたちに出くわした。ひとりの少年が僕を見上げて言った。「これ、絶対気に入ると思うよ」。そう言ってサンプラー・カセットを手渡してきた。礼儀としてポケットに入れたが、普段ならああいう「聴いて感想教えてよ」系のテープなんて絶対に聴かない。だがその夜、ホテルであの混沌を整理しているとき、ナイトスタンドの上にある名前に目がとまった──ボブ・パワー。
待てよ、DAngeloって何者だ? Brown Sugar? ウォークマンに入れて再生してみた。12秒経ったところで、もう完全に引き込まれていた。音楽には確固たる自信とコントロールがあり、まるで過去30年のソウルと、これからの30年をひと息で飲み込んでいるようだった……。

……そして気づいたんだ、あの日の情景がスローモーションのように浮かんだ。『クリスマス・ストーリー』のラルフィーの台詞みたいに――「おおおおおおおおぃぃぃぃぃぃ……これ、あのマイクじゃないか!! あのティンバーランドを履いてた男だ!」

ドーーーーーーン!!!!!

【追悼ディアンジェロ】クエストラヴ特別寄稿──ブラック・ジーニアスに捧ぐ(a.k.a. D’Angelo Lives!)

Photograph by DANNY CLINCH

Dの最もイカしてる瞬間

1984年4月1日に遡る──マーヴィン・ゲイが、父親に撃たれて亡くなった日だ。Dにとっても僕にとっても、その日は”敬意”と”闇”がないまぜになった特別な日だった。僕らには共通点があった──複雑な父親、愛に満ちていながらも、愛の裏側を併せ持つ存在。あの悲劇を、僕らはそれぞれの”父との関係の悪夢”として抱えることになった。僕の父はマーヴィンの死を”さりげない説教”として使った。「敬意というのは現実に存在する。無礼には……代償がある」と。僕はそのエネルギーの下で生きていた。

Dもそうだった。

そして1996年4月1日。僕らが初めて本格的に話をした日であり、あらゆる意味でマーヴィンに彩られた日だった。ザ・ルーツは当時フージーズやグッディ・モブと一緒にツアー中で、ソウルトレイン・アワードの週末に、ロサンゼルスのハウス・オブ・ブルースでDと会った。Dが最初に話してくれたことのひとつが、「Your Precious Love」の新録を終えたばかりだということだった。共演したのは、ちょうどその週末に出会ったばかりのシンガー、エリカ・バドゥ(同じ軍に属する将軍が三人、同じタイミングで出会う……まあ、よくあることさ)。その後、Dは打ち明けてくれた。「I Heard It Through the Grapevine」のイントロが頭から離れない、あれが本気で怖いんだ、と。僕にとってそういう”恐怖のバージョン”は、カーティス・メイフィールドの「Freddies Dead」にあるモジュレーションしたコーダだ。子どもの頃、ケガをしたときに初めてそれを聴いたのを今でも覚えている。

もちろん、僕は彼を試さずにはいられなかった。ある日、CDを再生して音量を上げ、何が起きるか見てみたんだ。

Dは嘘をついていなかった。本当に固まった。動けなくなったんだ。イタズラとして続けようかとも思ったが、2回目の試行で悟った──3回目をやったら殴り合いになる。

それ以来、僕らは「Grapevine」について二度と話さなかった。

決して。

その1年後、1997年4月1日。マネージャーとのゴタゴタのあとで、Dのキャリアは揺れていた。元マネージャーの手元には「Bitch」という曲のデモがあった。まだ完成には程遠かったが、後に『Voodoo』へとつながる”美しく、えげつない”方向性を示す作品だった。ところが、その元マネージャーが契約していた別のアーティスト(仮に”Redacted”と呼ぼう)がその「Bitch」のテープを聴きつけて……後に”少し似た”曲をリリースした。

それがDの神経を逆撫でした! 僕に言わせれば? プッ……これぞまた絶好のイタズラチャンスだ(まったく懲りてない)。

ザ・ルーツは当時、ミッドタウン・マンハッタンのバッテリー・スタジオでボブ・パワーとともに『Illadelph Halflife』のミックス作業をしていた。一方で、ソウルクエリアンズ──コモン、エリカ、Dたちは、街の反対側にあるヴィレッジのエレクトリック・レディ・スタジオでそれぞれのプロジェクトに取り組んでいた。

そこで僕はヒューマン・ビートボクサーのラーゼルに電話して、こう頼んだ。「”Redacted”のフリをして、Dに電話で”お前、俺のスタイル真似したな!!!!!”って怒鳴ってくれ」。僕はDのそばにいて、その様子を聞くことにした。

普通なら、そんなこと言われたら即ケンカだろう!!!! 実際、Dも怒った──が、その怒り方がまた、ディアンジェロらしくて最高にオタクだった。

「お前、マジでフェイクだな! コード進行、最悪だよ! ボーカルの重ね方も知らねえくせに!!!!! ビブラートもクソだし、歌詞もダサい! かかってこいよ! どんなステージでも、いつでも勝負してやる、n***a!!」

……え、ちょっと待て?

そんなリアクション、想像もしてなかった。ディアンジェロは……音楽理論で反撃してきたんだ。そのとき気づいた。僕は”アーティスト”という存在と本格的に関わる羽目になったんだって。いつだって音楽のことしか考えずにいられない人間、ビーフの最中でさえ、コード構成を批評するようなタイプ。結局、僕が一番バカを見たわけだ。

あれは、Dの最もイカしてる瞬間だった。

命を懸けた完璧主義

『Voodoo』セッションのさなか、午前4時にDから電話がかかってきた。「おい、ちょっと話そう」ケンカでも始まるのか? 何が彼をそんなに眠れなくさせたんだ? どうやら、当時並行して関わっていたコモンのアルバム『Like Water for Chocolate』に、自分の『Voodoo』よりもファンキーな曲があるというのが気になっていたようだった。

「それは俺のファンクだ!!!!!!!!!! あいつにはあのファンクは扱えねえ!!!!」

僕はコモンに電話して、曲の交換を提案した。彼は落ち着いたもので即快諾。こうして「Chicken Grease」は『Voodoo』へ、「Geto Heaven Pt. 2」(もともとはDとローリン・ヒルの共作)はコモンの作品へと渡った。

そして『Voodoo』が生まれた。すべてが変わった。あのアルバムはブラック・ミュージックを塗り替えた。『Voodoo』”以前””以後”というふうに──そのツアーは、プリンスの黄金期以来の最高のソウル・レビューだった。4年間、僕らはプリンスを研究し尽くした。その結果、あれは僕らなりのラブレターになった。

けれど、Dの根っこは何も変わらなかった。ツアー中のある日、特に特徴もない街、ミルウォーキーのような場所でのサウンドチェック中のことだ。たまたまハル・ベリーがステージ袖にいた。僕の位置からはシンバルの影で見えなかったが、Dの視界には入っていた。すると突然、サウンドチェックが”本番モード”に突入。何の前触れもなく、全身全霊で18分間の「Devils Pie」をフルパフォーマンスした──おい、なんで本番前に全力出してんだよ!? マイクさばき、ターン、スプリット、スライド、すべて全開。途中のスライドで釘に引っかかり、フェイクレザーのパンツが太ももから足首まで裂けた。パンツはスカートに。そしてもちろん──下には何も履いていなかった。

Dはそういうヤツだった、サウンドチェックだろうと。

スタジオでも、彼はまったく同じだった。『Voodoo』と『Black Messiah』のあいだには14年という──ほとんど人生にも等しい年月があった。僕が後者の制作に参加したとき、驚いたことに『Voodoo』期の機材がすべてそのまま残されていた。まるで時間が止まっていたかのように。「おい」僕は言った。「なんで97年のVHSやフロッピー、CDをまだ使ってるんだ? 世界はとっくに進化してるぞ」

だが、彼の頭の中ではそうではなかった。

「俺たちは”完全ヴィンテージ”でいくんだ」と彼は言った。

僕には理解できなかった。でも──誰かにとっての”冗談”は、別の誰かにとって命を懸けた完璧主義なんだ。

最後の数週間

彼は今年の夏、Roots Picnic(ザ・ルーツ主催のフェス)のヘッドライナーを務める予定だった。僕らは本番の2週間前からリハーサルを始めた。Dは有名な秘密主義者だったが、そのときはどこか様子が違っていた。

最初の違和感はリハの開始時間──彼の世界で”遅刻”は日常茶飯事だが、今回は度が過ぎていた。開始予定は夜10時だが、最初の音が鳴ったのは午前3時だった。そして朝7時、僕は空港へ向かわなければならなかった。すると彼は傷ついたような顔をして言った。

「どこ行くんだ? まだ数時間しかやってないじゃないか」

今にして思えば、あの頃すでに、彼の”時計”は身体の調子に合わせて狂い始めていたんだ。ギターを持つのもきつそうで、代わりに鍵盤の前に座ることを選んでいた。僕はそれを、単なる美意識の選択、95年の雰囲気に戻りたいだけだと思っていた。まさか、その裏で現実的な医療的事情が進行していたなんて気づかなかった。

尋ねると、彼はこう言った。「ちょっと大変なことがあったけど、もう回復してるよ」

それでも、あの最後のリハーサルには……どこか”終わり”の気配があった。ふと自分の中で思ったんだ。「なんでだろう……彼とこの曲を演奏する最後になる気がする」その感覚を振り払おうとした、まさにそのとき。言葉にしづらいけど、いま振り返ると、あれは確かに異変だった。彼が、いつもなら絶対に譲らなかった”あること”に、何も反論しなかったのだ。

Dにとって、ライブでアルバムのバージョンをそのまま演奏することは”最もラディカルな行為”だった。彼にとってそれは怠慢に等しかった。25年間で、”普通のバージョン”をやったのはたった一度きり。僕はRoots Picnicのために提案した。「今回は、”Brown Sugar”の曲をそのままやろう。シンプルに、堅苦しくなく、余計な演出なしで」。あまりにもイージーな提案で、自分で言っておきながら反対したくなるほどだった。

彼は即座に同意した。

あまりにも、あっさりと。

言っておかなきゃならない。あの最後の数週間は──僕らの友情にとって、間違いなく最高の時間だった。僕らのコミュニケーションにおける共通言語は、いつだって音楽だった。けれど、病院ではそうはいかない。防音ブースも、ドラムも、鍵盤も、楽器も、ミュージシャンもいない。そこにあるのは、ただ僕と彼、ふたりきりでの会話だけ。この5年ほどで、それぞれの人生がどこへ向かっていたのかを、静かに話した。でも、正直に言えば──その”終わりが見えているような空気”が、少し居心地悪かった。これが最後の見舞いになるのか? これが一緒に観る最後のコンサートになるのか? これが俺たちが最後にぶっ飛ぶJ・ディラのビートになるのか?……そんなことを考えてしまっていた。思えば、あの日──1996年に初めて出会って、互いの故郷や高校、教会、そこからどう逃げ出したかを語り合ったとき以来、僕らはあんなに深い話をしたことがなかった。

いや、誤解しないでほしい。この30年間、僕らはずっと”別のかたち”で会話を続けてきたんだ。ただそれは、世界中の人々を巻き込んだ”会話”──新しい言語、新しいサウンド、新しいヴァイブレーションだった。

僕は、彼に30年ぶりの”近況報告”をするのが怖かった。出会った頃からずっと、そんな個人的な話をしたことがなかったから。しかも今回は、逃げ道がない。「この1978年のライブ映像、やばくない!?」みたいな、いつもの音楽ネタで話題をそらすこともできなかった。

彼は僕のことをどう見ていたのだろう? ”プロフェッショナル”の道に進んだ男──あちこちでプロジェクトを抱え、イベントを渡り歩き、雑多なビジネスに追われるようになった結果、”ホーム”に顔を出す余裕すら失った人間。もしかして、彼は僕のことを、結局は”向こう側”にたどり着けなかった悲劇の登場人物として片付けたんじゃないか──そんな不安もあった。

でも、僕らは警戒を解き、内なる声を静めて、ただ語り合った。

それは、まったく予期していなかった癒しの時間だった。僕らはふたりとも、いつの間にか新しい精神的な旅路──形而上学への関心──へと潜っていた。アストラル・トラベル(幽体離脱)の話をしたり、僕がコシチャイムやバイノーラル・トーンを彼のサウンドシステムで延々と流したり。あの病室は、史上もっとも禅的な空間だった。クリスタル、キャンドル、ハーブ、香、オイル、スパイス、ティー……僕らは互いにジョー・ディスペンザ博士やSpirit ScienceのYouTube動画を見せ合いながら、”平穏と成長”の境地にたどり着いたのだ!

ちょうどそのタイミングで、病院の機器が──ピッ、ブッ、ビーと鳴り始めた。まるでマイケル・ジャクソンが「Morphine」でサンプリングした音のように。僕らはゆっくりと顔を見合わせた。「まさか……またあのクソ長いブリッジを歌うつもりじゃないよな?」。僕らはまだ、あの頃と同じようにブラザーのままだった。まるで、一度も離れ離れになったことがなかったかのように!

(ああ……やっぱりそうだったんだ。わかってたよ……わかってたんだ)

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