メジャー・デビュー当初からトラブル続きだった

──結成35周年のメモリアルイヤーに様々な企画を打ち立てようと昨年から準備していたものの、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により予定していたライブやレコーディングが相次いで頓挫する状況が続いてしまいましたね。

JOE:そうだね。まあでも、よくあることなんだよ。

G.D.が何かをやろうとするとアクシデントがつきまとうっていう。たとえば俺たちは1989年4月21日にビクターからデビューしたんだけど、全く同じ日にX JAPANがCBS・ソニーからデビューするとか(笑)。それはメーカーのリサーチも悪かったのかもしれないけど、本当に偶然でさ。キャンペーンを回ると、うちのポップはデビューアルバムのジャケットを薄い発泡スチロールで装飾した簡易的なものだったんだけど、Xはパンッと手を叩くと動く人形が5体置いてあったりして、最初からだいぶ金のかけ方が違ったんだよ。それとデビューした4月21日は仙台で大規模なキャンペーンがあって、全国のレコード屋の卸やイベンターを集めて「これからG.D.FLICKERSを一緒に盛り上げていきましょう!」とお願いする大パーティーも行なう予定だったんだけど、その日に同じレコード会社だった××××の××××が不祥事を起こして捕まっちゃってさ。まるで蜘蛛の子を散らすようにスタッフが帰っていったよ(笑)。
パーティーは中止になって普通の居酒屋に連れていかれたからね。

──メジャー・デビュー当初からだいぶ持っていたんですね(笑)。

JOE:その後も1990年の『東北ロックサーキット』で××××とトラブルが起きて2年くらいテレビを干されたり、6枚目のアルバム『SHAKE!』(1991年6月発表)の発売日の前日に当時の専属マネージャーが問題を起こしたりね。発売日当日のパワステでのレコ発ライブは何とかやれたけど、裏ではいろいろと大変だった。

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──10月11日(日)に高円寺のLOFT Xで開催するライブは、2月に吉祥寺のROCK JOINT GBでライブをやって以来、実に8カ月ぶりとなりますね。

JOE:フルメンバーとしてはね。

2月のGBの後に俺と原(敬二)と(佐藤)博英の3人で写真展でライブをやったり、5月の終わりに俺がケガで入院してしまったので6月の配信ライブ(『MINAMINO ROCK FESTIVAL』)は4人でやってもらったけど、やっと5人揃って生のライブをやれる。去年から新宿ロフトを始めいろんな人たちに協力してもらって1年がかりで35周年を盛り上げていこうと考えていたのに、結局は何もできないままだったね。まあ、他のバンドと揉めたりマネージャーが問題を起こしたりするよりはマシだけど(笑)。

──自粛期間中はどう過ごされていたんですか。リハーサルもままならない状況だったと思いますが。

JOE:うちは普段からあまりリハをやらないんだよ。

ライブの前とか新曲を作るとか目的がないとスタジオには入らないから。それは亜無亜危異の藤沼伸一先輩からの教えで、昔よくリハをしていたら「お前ら練習しすぎだ」と言われてね。確かにそれも一理あってさ。若い頃は必死になって練習していたんだけど、曲はみんなそれぞれ覚えているんだからちょっとおさらいする程度でいいんだよ。たとえば本番のライブでみんながドラムに合わせようとか、そういうときにグルーヴが生まれるんだよと藤沼先輩に教わったわけ。あまり練習しすぎると型にはまるようになるから良くないぞ、って。
練習量が少なくてもステージ上でまとまることができるのは、みんなに合わせようとする意識があるからなんだよね。

──これだけ長きにわたってライブをやれないと、欠乏症みたいになりませんでしたか。

JOE:自分たちだけじゃなく世界中のバンドがそうだし、こんな時代だから仕方ないよね。この店(JOEが経営する高円寺のバー「CHERRY-BOMB」)も都の自粛要請に100%従って4月から6月までちゃんと休んだし、復活したと思ったらまたすぐ23区の時短要請があったしさ。だからケガをしたのもあったけど、夏まではほぼ外出せずに家にいたね。ちょうどライブがいろいろ飛んだときにケガをしたから良かったのかもしれないけど、逆に言うと普段通りライブができていればケガなんてしなかったはずなんだよね。

まあ、起きてしまったことはしょうがないけど。

この先、あと何回ワンマンをやれるだろう?

──ちなみにJOEさんを除く4人が演奏する配信はご覧になりました?

JOE:うん、病院で。原と博英がそれぞれ1曲ずつ唄ったんだけど、ジョニー・サンダース&ハートブレイカーズみたいなノリでいいなと思った。俺がいないとこんな感じになるんだなと客観視できたし、あれはあれで格好いいじゃんと思ったね。

──8月の無観客配信ライブ『KEEP the LOFT vol.2』では飛び入りでキャロルのカバーを唄って元気な姿を見せてくれましたね。

JOE:あれで久しぶりに大きい声を出して、まだ声が出るなと思えた。肺がちょっと心配だったんだけど、昔から新陳代謝がいいみたい。

外傷も人より早く治っちゃうしね。

──先だってはようやくリハーサルにも入ったそうで。

JOE:こないだの月曜日にね。7カ月ぶりだったから昔の女に会ったみたいな感覚だった(笑)。メンバーとは連絡も全然してなかったからさ。普段から何の交流もないし。

──同じバンドと言えどそういうものなんですか。

JOE:同じメンツでバンドを長く続ける秘訣をよく訊かれるけど、俺たちの場合はお互いに干渉し合わないのが良かったんだと思う。若い頃は練習が終わればよく一緒に飲んだし、曲作りのことでああしようこうしようとみんなで話し合ったり、プライベートな近況報告もしていたけど、2000年くらいからは交流がなくなったね。それ以前にツアーをいっぱいやっていた頃はそれぞれの実家へみんなで行ったりもしたよ。親も知ってりゃ兄弟も知ってるし、そのときの大事なネエちゃんも知っていたけど、バンドを長くやっていると親戚みたいになっちゃうから特に話すこともなくなるんだよね。今やメンバーがどこに住んでいるのかも知らないしさ。

──それくらいかしこまる仲でもないということですよね。

JOE:そうそう。スタジオも毎回バラバラで集まってバラバラで解散だから。ツアー先の話は別だけどね。俺たちはみんな人見知りだから対バンしてもすぐに仲良くなれないし、地方の打ち上げではメンバーで固まって飲んでるよ(笑)。

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──やはり程良い距離感を保ってきたことがバンドを長く続けてこれた理由の一つでもあるのでしょうか。

JOE:そうだと思う。細かいところまでああだこうだと干渉したりしたら鬱陶しいからさ。それと、あるときからみんなの目標が一致してきたのもあるね。最初は音楽性もバラバラだったし、バンドとしてやりたいことも違ったけど、G.D.としてやるべきことというか、こういうことをやるのが俺たちらしいんだってことがみんな分かってきたんだと思う。その目標に向かっていければいいし、あとのことはどうでもいい。

──その目標とは、1日でも長くバンドを続けて1本でも多くライブをやるということですか。

JOE:そういうことでもない。誰か死んだらバンドはやめようと思っているし、もうそんな歳だしね。まわりでもいっぱい亡くなっているし。ちょうど50歳を超えたくらいかな、メンバーの誰かが死んだらそこでバンドの終焉を迎えようと決めたんだよ。そうなるといつ誰が死んでもおかしくない年齢になってきたのもあって、あと何回ワンマンをやれるだろう? と考えるようになったわけ。たとえば年間でワンマンを3本やったとして、10年でわずか30本しかやれないことになる。それにバンドを10年やれる保証なんてどこにもないから、1本1本がものすごく大事になってくる。来年終わるかもしれない、再来年終わるかもしれないと考えていると、どうしても適当な気持ちではやれなくなるんだよ。その思いは他のメンバーにもあると思う。

忘れ難いアルバムはビクター時代最後の作品『ROCK'n'ROLL SUICIDE』

──35周年の節目にオールタイム・リクエストライブをやってはどうかとロフトから提案させていただいて、春先にG.D.のレパートリーの人気投票を特設サイトで募ったじゃないですか。上位10曲は、1位=「A Rebellious Hero」、2位=「古きドリアン・グレイに」、3位=「AGAINST THE WIND」、4位=「DAISY」、5位=「BAD IS FUN」、6位=「CHANGES」、7位=「トラベリンバンド」、8位=「23日のクレイジーブギ」、9位=「DRIVIN' BOOGIE」、10位=「Born Under The Lucky-Moon」で、3rdアルバム『REBELLIOUS HEROES』(1989年4月発表)と5thアルバム『トラベリンバンド』(1990年3月発表)の収録曲がファンのあいだでは特に人気があるという結果になりましたが、ご本人としてはどう感じましたか。

JOE:単純な話、売れた枚数が多いのが『トラベリンバンド』や『REBELLIOUS HEROES』なので、その辺のアルバムを持っている人が多いということじゃないかな。それだけ市場に出回ったということは中古にも出回っているんだろうしね。曲というのは一度作品として出してしまえば半分はお客さんのものだと思っているし、自分たちとしては作品を作るたびに前よりもいいものを作ろうと思うわけだから新しい作品のほうがグレードは高いという意識があるんだけど、お客さんには昔の曲にまつわる思い出や思い入れがそれぞれあるだろうし、そういう曲が選ばれたんだろうね。

──そのなかで注目したいのが11位にランクインした「東京無限」で、目下最新作である『悪魔』(2015年9月発表)の曲が入っているのは35年経ってもなお現役を貫いているバンドならではの結果だと思うんですよね。

JOE:「東京無限」が入っているのは嬉しいね。2位に「古きドリアン・グレイに」みたいな曲が入ったのは意外だったけど、歌に自分の姿を重ねてくれた人が多かったんだろうね。自分のなかでは「古きドリアン・グレイに」も「東京無限」も同じような内容の歌詞で、高校の頃からバンドをやるようになった自分のことを唄ったのが「古きドリアン・グレイに」で、東京へ来ていろいろと挫折をしながら今もバンドを続けていることを唄ったのが「東京無限」なんだよね。「古きドリアン・グレイに」の延長線上に「東京無限」があるし、歌の主人公は同じなんだよ。

──この人気投票の結果を他のメンバーはどう思っているのでしょう?

JOE:特に気にもしてないんじゃない?(笑) ふーん、って感じだと思うよ、性格的に。

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──カバーアルバムを含めて15枚のアルバムにはどれも深い思い入れがあると思いますが、JOEさんにとってとりわけ忘れ難い1枚を敢えて挙げるとすればどのアルバムになりますか。

JOE:7枚目の『ROCK'n'ROLL SUICIDE』(1993年10月発表)はいま聴いても好きだね。徹頭徹尾ロックンロールにこだわって作ったアルバムなので。作った環境はバンドブームが終わった後で、ビクター時代の最後のアルバムなんだよ。その頃はもう青山のビクタースタジオを使わせてくれなくて、河口湖にあるビクターのスタジオで録ってさ。青山のスタジオはビクターのトップアーティストが優先して使う所で、最新鋭の機材がある最上階のスタジオはだいたいサザンオールスターズが使うんだけど、俺たちも1回だけそこを使ったことがあるんだよ。その最上階のスタジオには桑田佳祐専用の温水洗浄機能付きのトイレがあって、そこは使うなとスタッフに言われたんだけど、俺はわざわざそこでしか大をしなかったね(笑)。で、スタジオの階が下になるほど機材のグレードも落ちて、青山で要らなくなった卓とかの機材が河口湖へ行くわけ。その河口湖のスタジオはペンションみたいなのが隣接されていて、『ROCK'n'ROLL SUICIDE』はそこへ行って泊まり込みで制作したんだよね。何をやるにも24時間ずっとメンバーと一緒でさ。泊まる部屋のリビングにビデオが置いてあるんだけど、ソフトの本数が少ないんだよ。でも夜中に寝酒をするときに他に見るものもないから、仕方なく毎日『イージー・ライダー』をみんなで一緒に見たときは頭がおかしくなりそうになったね(笑)。

──どれだけ仲がいいんですか(笑)。

JOE:いつもは人の世話をしない原が朝になるとみんなに紅茶を入れてくれたりね(笑)。そんな感じであまりにも一緒にいると、ちょっとおかしな行動になってくる。そんな環境も含めて思い出深いかな。

新宿ロフトという帰る場所が欲しかった

──バンドブームが去ってビクターからキティへ移籍、所属事務所を転々とするなど90年代の半ば以降のG.D.は荒波に揉まれた印象がありますが、そのなかで後ろ盾をなくしたバンドが真の意味で独歩できるようになったのはいつ頃だと捉えていますか。

JOE:バンドブームが来てロックやバンドというものがお茶の間に浸透して、たとえば中高生が気軽にバンドを始められるようになったのはいいことだとは思ったけど、いずれブームは去るものだし、このブームに巻き込まれたら俺たちは終わると最初から思ってた。レコード会社や事務所はもっと大きな場所でライブをやらせたがっていたけど、俺は新宿ロフトにこだわって、ロフトで毎月やらせてほしいと何度も説得したんだよ。なぜなら帰る場所が欲しかったから。その後、案の定バンドブームが終わってさあどうするかというときに、レコード会社がバンドの今後の在り方について口を出してきたわけ。最初は3年、その後に2年の契約が終わろうとしている頃で、うちだけじゃなくて全体的にライブの動員が減ってきた時期でね。詳しくは話せないけど、この条件を呑めばまた渋公みたいに大きなステージに立てるぞと言われてさ。当然だけどお断りして、そのとき完全に地に足が着いたね。なめんなよバカ、と思って。

──その判断は、新宿ロフトで交流を深めた諸先輩バンドがレコード会社の方針に翻弄される様を見聞きしていたことも大きかったですか。

JOE:うん。ロフトでARBや亜無亜危異といった先輩方の背中を見てきたし、彼らの帰る場所はロフトだったからね。俺はどうしてもロフトでライブをやりたくて出入りするようになって、ロフトに出られるようになってからは週末にやりたいとかワンマンをやりたいとか、一歩ずつその階段を駆け上がってきたんだよ。そんな大切な場所に出られなくなるのは精神的にもきつかった。

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──たとえばバンドブームの功罪を生んだ『イカ天』についてはどう感じていましたか。

JOE:あの番組のおかげで才能を見出されたバンドもいただろうし、良いも悪いも両方あったんじゃない? たまに見ると結成が1週間前だったりするバンドもいて、俺たちは長い時間をかけてちょっとずつ名前を売ってきたから悔しい気持ちもあったよ。そんな簡単に有名になれるんだという驚きも含めてね。当時、その裏番組が『オールナイトフジ』で、俺たちも何回か出てさ。ちょうど『イカ天』の人気が出始めた頃に『オールナイトフジ』の何百回目かの回にたまたま出て、オープニングで記念のくす玉を割ってから演奏に入るっていうのがあったんだけど、一言お願いしますと言われたので「隣のチャンネルでなんかくだらねえロック番組をやってるけど、土曜の夜は『オールナイトフジ』って昔から決まってるんだよ、バーカ!」って生放送で言っちゃったものだから、そのせいでTBSから干されたことがあったね(笑)。

──JOEさんの諧謔精神ここにあり、ですね(笑)。

JOE:フジテレビの人は喜んでくれたけど、TBSの人もそれをチェックしてるからね。当時、『イカ天』でプロバンドベスト10だか20だかのプロモーションビデオを紹介するコーナーが審査のあいだにあってさ。人気に従って矢印が上がったり下がったりするんだよ。俺が暴言を吐く前の週はG.D.が6位で矢印も上向きだったんだけど、『オールナイトフジ』に出て以降はチャートからバンドの存在自体が消されたからね(笑)。言いたいことを言うのがロックだと思うから何の後悔もないけど。

G.D.のメンバーにはゴレンジャーみたいな役割がある

──『悪魔』の発表から5年経つのでそろそろ新作を聴きたいところですが、レコーディングに向けた準備は進んでいるんですか。

JOE:少しずつ歌詞を書き進めてはいるけど、作品としてはロフトの2DAYSには間に合わないかな。練習もしてなかったし、俺の不甲斐なさもあるんだけど。

──このコロナ禍で作詞をするモチベーションがなかなか上がらないのも作業が滞る原因なのでは?

JOE:ずっと自粛が続いて、誰しも少なからずネガティブになるじゃない? 俺はそういう歌詞を書きたくないし、前向きな歌詞を書きにくい時代ではあるよね。

──コロナをテーマにしながらもいろんな意味に解釈できる歌詞を書いてみようと思ったりはしませんか。

JOE:もちろんそういう歌詞も書きかけてるよ。だけどただ批判するだけで終わってしまう感じになって、なかなか難しいね。

──楽曲は『悪魔』同様にいろんなタイプの曲が集まりつつありますか。

JOE:いま出来てる曲は単純な3コードのロックンロールではないかな。

──『悪魔』にも従来のイメージを覆す曲がありましたよね。アコギを基調としたブルージーなサウンドの「俺たちの哀歌」のように。

JOE:曲の幅が広がってきたのは自然な流れだし、芯にあるものがロックンロールだからバラエティに富むってほどでもないと思うけど、前作ではいろんな曲が揃ったね。ただ歌詞に関してはずっと同じ人間が書いているし、唄いたいことも時代によって変わるところはあるけど掘り下げれば一緒なんだよ。だから「あれ? これ昔書いたような歌詞だな」と自分でも思うことがある。かと言って昔の歌詞を読み返すことはないけどね。言葉遣いに関しては、前より大人になったぶんだけ多少良くなってるとは思うけど。

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──バッドボーイやヒールの視点で困難に抗い苦境を乗り越えていこうとする歌詞が個人的には好きなのですが、JOEさんの借り物ではない実直な歌詞がG.D.の曲の世界観を決定づけて息を吹き込むところがありますよね。

JOE:歌を通じて伝えたいことがあるからね。うちのバンドはゴレンジャーみたいなもので、それぞれに役割があるわけ。俺は歌詞を書いてなんぼだし、原はベーシックな曲作りを担っているし、博英は間奏のコード進行やギターソロといった細部を色づけするのが役目だし、岡本(雅彦)は曲の構成やアレンジをよく考えてくれる。そういう役割分担がしっかりできているんだよ。

──DEBUさんの役割は?

JOE:ご飯を食べることかな(笑)。

──キレンジャーならそうなりますね(笑)。ゴレンジャー的な役割分担があるのもバンドが長く続く秘訣なのかもしれませんね。

JOE:そうだね。全員がアカレンジャーだと続かないだろうし。さっき話に出たバンドが地に足を着けた後だったと思うんだけど、原と飲んでるときに言われたことがあるんだよ。「俺は次元大介を極めたい。JOEはルパン三世だからさ」って。原は原でいろんなことに手を出さずに自分のポジションを全うするつもりでそんなことを話してくれたんじゃないかな。

──なかなか言えない言葉ですよね。バンドマンである以上、自分がアカレンジャーになりたい気持ちがどこかしらにあるものじゃないですか。

JOE:うちのキレンジャーは誰がどう見てもキレンジャーなのに、自分ではアカレンジャーだと勘違いしてるみたいだけどね(笑)。ちなみに言うと、原はキャラとしてアオレンジャーではなくモモレンジャーなんだよ。ルパンでは次元だけど、ゴレンジャーだとモモレンジャー。この感覚はG.D.のファンなら分かってくれるんじゃないかな。あと俺のなかでは実はアオレンジャーが岡本で、ミドレンジャーが博英なんだよね。博英は実際、キャプテン時代に髪を緑色にしていたし(笑)。

──アオレンジャーの岡本さんは再サポートしてから来年でもう10年になるんですね。

JOE:そもそもうちのバンドの土台を作ったのは戸城(憲夫)で、あいつがZIGGYに行っちゃってからずっとベーシストが安定しなかったんだけど、この35年のあいだにやめていったり亡くなってしまったベーシストがいるなか要所要所でサポートしてくれたのは岡本なんだよ。それも初期の頃からずっと。トータルで数えるとベースは岡本が一番長くやっているし、もう20年近くG.D.をやっていることになるんじゃないかな。

──そんな最強のゴレンジャー体制で制作に臨む新作はいつ頃完成できそうですか。

JOE:できれば今年中に作りたいね。あとは俺が歌詞をまとめられればいつでもいけるんだけどさ。

対照的な趣向の結成35周年記念ライブ2DAYS

──2020年における活動の本丸と言うべき結成35周年記念ライブ2DAYSが10月30日(金)と31日(土)に新宿ロフトで行なわれますが、初日はG.D.と縁の深い面々をゲストに招いたパーティー色の強い趣向となりそうですね。

JOE:昔からの仲間たちと一緒に楽しめればと思ってる。SLUT BANKSは戸城のバンドだし、やってることが純粋に格好いいと思うしね。(板谷)祐の書く歌詞の世界はぶっ飛んでるし、戸城はやっぱり曲を作る天才だと思ってるし。ニューロティカと横道坊主は同期なんだよ。横道は同じ年のデビューだし、ニューロティカは新宿ロフトで活動し始めた時期が同じ1985年という意味で同期。横道の今井(秀明)ちゃんの書く歌詞は俺には勝てないところがあるし、尊敬してるよ。ゲンドウミサイルは当時よくロフトへライブを観に行ってたんだよね。彼らがナゴムにいた頃かな、すごく格好いいなと思ってね。4-STiCKSは今のG.D.の所属事務所であるピーシーズのシャッチョ(柳沼宏孝)がベースなのもあるけど、やっぱりボーカルの南野(信吾)がいてくれたおかげでG.D.は35周年を迎えられるというのもどこかにあるので。南野はいないけど、彼に出てもらうつもりで4-STiCKSをゲストに招いてみた。

──4-STiCKSはロフトの先代の社長だったシゲさんこと故・小林茂明が直々にマネジメントを務めたバンドで、前身のBOICEの頃からJOEさんは目をかけていたそうですね。

JOE:シゲからライブを観てくれと言われて何度も意見を求められたりもしたし、ベースが抜けたときにシャッチョに入れと言ったのも俺だしね。南野と高田(佳秀)が新宿ロフトの店員として入った初日の夜に俺が飲みに行って、「今日入った新人の2人です」と紹介されたときからの付き合いだから、もう20年近く経つのかな。

──ロフトを介して縁を育んでいったバンドばかりが一堂に会すわけですね。いろんな事情でバンドをやれなくなったりすることが多いなか、G.D.を始めどのバンドも今なお活動を続けているのが驚異ですよね。

JOE:これだけの顔ぶれだから本当はもっとたくさんのお客さんを入れたいんだけど、コロナのせいで人数限定でやらなくちゃいけなくてね。残念だけどこればかりはどうしようもないし、チケットを買えなかった人はぜひ配信で見てほしいね。

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──配信ライブの在り方についてはどう考えていらっしゃいますか。

JOE:この状況でベストなのは少しでも多くの人の前で生のライブをやりながら配信をやるのがいいんだろうね。今まで配信に対して消極的だったのは生のライブを大事にするライブハウスの意向もあったと思うんだけど、今はツアーもできないし、地方に住む人たちにもG.D.のライブを観てもらえる機会が増えるのは配信の良いところだよね。この先規制が緩和されてお客さんをどんどん入れていい状況になったとしても、そこで配信がプラスされればなおいいんじゃないかと思うし。

──2日目はワンマンライブですが、ゲスト参加もあるとか。

JOE:いろんなゲスト・ミュージシャンに参加してもらうゴージャスなライブにしたくてね。まず、鍵盤のジョージ。彼はこの高円寺界隈で知り合ったんだけど、デーモン閣下がソロでクラシックをバックに唄うライブでピアノを弾いたりしていて、本人がロックをやりたいと言うのでG.D.のライブに時々ゲストで呼んでいるんだよ。それとホーンセクションね。それこそ『イカ天』に出たこともあるアース・ウインド&ファイターズというバンドでトランペットを吹いている辰巳(小五郎)君を始めとする3人。彼らは『ROCK'n'ROLL SUICIDE』と『BAD IS FUN』のレコーディングで吹いてくれて、時折ライブにも参加してくれている。あと、関根真理ちゃんという遠藤ミチロウさんのTHE ENDでドラムを叩いていたパーカッショニスト。曲によってピアノとホーンとパーカッションのサポートメンバーに入ってもらいつつ、音の幅を広げたライブを見せたいんだよね。欲を言えば俺の歌にハモってくれる腕利きのコーラスを2、3人入れたいとか、やりたいことはいろいろあるんだけどさ。

──G.D.の追っかけをしていたという野宮真貴さんやアレルギーの宙也さんにコーラスをお願いするとかは?

JOE:高くつくだろうね(笑)。ストーンズのライブ映像を見るとサポートメンバーが当たり前のようにいて、必要なところでメンバーと同等にスポットライトが当たるじゃない? あんな感じのライブをやりたくてね。

──ああ、「GIMME SHELTER」でコーラスのリサ・フィッシャーがボーカルを取ったりとか。

JOE:そうそう。Superflyのボーカルにコーラスをやってほしいくらい。面識は全然ないんだけど(笑)。

限られた条件のなかで精一杯やるしかない

──ということはお祭り騒ぎになる感じの初日とは対照的に、2日目はG.D.の音楽的側面を深掘りするようなライブになると?

JOE:そうだね。いつもとはちょっと違うワンマンライブになると思う。セットリストを組み立てるのはこれからなんだけどね。今回は人気投票の結果をあまり意識せず、他の楽器を入れたら面白そうな曲を優先してやりたいと思ってる。

──結果的にこの2日間のライブが結成35周年の華々しいキックオフになりそうですね。

JOE:こんな状況だから華々しくはないけどね。10月30日でちょうど35周年を迎えて、そこをスタートとして考えると来年の10月30日までが35周年モードになるから、その1年のなかでいろんなことをやりたいと考えてる。当初は10月30日に向けていろいろやろうと思っていたんだけど、そこをスタートにするように切り替えたんだよ。終点を始点にしてみたわけ。

──前回インタビューさせていただいたのは『悪魔』がリリースされた5年前で、それもあっという間に過ぎましたし、40周年を迎える5年先もすぐにやってきそうですね。

JOE:生きていればね。いつまでやれるか分からないというさっきの話につながるけど、さすがに40周年ともなると続けていられる自信がないよ。コロナに限らず気候だっておかしいし、アメリカと中国はずっといがみ合っているし、そのしわ寄せを受けるのは日本だけじゃないだろうし、この先何が起きるか分からないしさ。コロナのどさくさに紛れて私利私欲に走る奴らもいるし、地球もおかしければ国もおかしい。本当に世紀末的というか、終末観が世界全体を覆っているような状況だと思う。だからこそ今からやれることをどんどんやっていかないと後悔するだけだし、自分たちがやりたいことをやるしかないんだよ。音楽って文字通り音を楽しむものでしょ? せっかくこうして35年もバンドをやれているんだから、楽しいことをやらなくちゃ。

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──とはいえ、こうしたコロナ禍という100年に一度と言われる危機を迎えて落ち込んだり、ネガティブな感情に引きずられたりはしませんか?

JOE:そうはならないね。ケガをして入退院したときも全然ネガティブじゃなかったし。ちょっと変わった環境で生まれ育ったし、悪いこともさんざんしてきたせいで抵抗力が他の人よりあるのかもしれないけど、今さらもう変わりようがないんじゃないかな。ジョー・ストラマーは死ぬまでジョー・ストラマーだったし、ミック・ジャガーは今もずっとミック・ジャガーのままだし、それと一緒じゃないの? 今も変わらずロックンロールが好きだしね。若い頃にいろんな音楽に影響を受けて夢中になって刺激を受けて、それに助けられた自分がいて、今度は自分が音楽を作る側になって35年経って、今やそれがもう当たり前のことになっているからさ。まあ、うちのバンドはやめるタイミングを失ったとも言えるけどね(笑)。でもバンドをやめようが続けようがそれで今の生活が変わるわけじゃないし、だったらバンドをやっているほうが楽しいんじゃないの? ってだけだよ。第一、バンドをやめる理由が見つからない。やってて当たり前だし、やめちゃったら何か物足りない気がするだろうね。実際、この7カ月休んでいてずっとモヤモヤしていたから。

──コロナ時代におけるバンドの在り方はこの先どうなっていくと思いますか。

JOE:まだまだ感染症対策でいろいろ気をつけなきゃいけない限りは外出することに尻込みしてしまう人はいっぱいいるだろうし、それが決して悪いわけじゃないし、ワクチンが開発されてもう大丈夫だよという状況になってもコロナ禍前の状態には戻れないと個人的には思う。だから臨機応変に対応するしかないよね。たとえばブルースやパンクロックが生まれたのはかなりヘヴィな時代背景だったわけでさ、音楽とはそんなときにこそ必要なものだし、やる側も聴く側も絶対になくならないと思うんだよ。それを信じて限られた条件のなかで何とか精一杯やっていくしかないよね。そういう意味で俺たちは図太いと思うよ。これを不幸中の幸いと言うのか5人ともちょっと能天気だし、デビュー当初から逆境には慣れているので(笑)。