「中国人は信用性と社会的責任感に欠ける」ということが、外国人の中国人に対する全般的な評価としてしばしば指摘される。中国人が信用性に欠けるということは、私たちの生活を見渡せば確かに事実のようである。
例えば市場で買い物すれば水で重量を増した豚肉やら、基準値以上の農薬が検出される野菜やら、毒入りの米などをつかんでしまうこともある。

 また、中国企業はCSR(企業の社会的責任)に見向きもせず、学者は学術腐敗に身を落とし、命を救うべき医者はニセ薬を使用し患者の命を奪い、鉱山事故や毒ミルク事件は多発するという現実に、暗澹たる気分にさせられる。社会的良心と経済的利益という二つの壁を前にして、中国人、とりわけエリートたちの価値観において、社会的責任を重んじるという選択をする者は少ないようだ。

 なぜ中国人は信用性と社会的責任感に欠けてしまうのか。

 異なる環境は異なる人種を生み出すと言う。例えばある人が北朝鮮に生まれ育ったとする。
彼はその他の大多数の北朝鮮人と同じようにいわゆる主体思想(チュチェ思想)を身に付けることになるだろう。黄色人種の中国人でも、育った環境がキリスト教文化圏の米国であれば、やはりその他大多数の米国人と同じような価値観を有し、また、彼のその後の人生の意義も中国で生まれ育った中国人とは異なるであろう。これらは、なぜノーベル賞を受賞するのが中国育ちの中国人でなく、中国系米国人なのかという疑問の答えでもある。中国の学術腐敗の弊害は、傑出した人材が現れないということにもある。

 それでは中国人はなぜ信用性に欠けるのだろうか? 筆者は目下の中国の行政執行における効率の悪さに原因があるのではないかとみる。政府の行政執行の効率の悪さは間違いのない事実であるが、インターネットの今日の普及、発展があるにも関わらず、身分証の申請にさえ戸籍所在地に出向かなければならないというのが良い例だ。


 また、行政の効率が悪いために、司法の効率が悪くなっているということも言えるだろう。信用性もなければ取引のルールも守らないという市場の参与者に関しても、その違法行為を低い罰金でさらに相当の懲罰も受けずに済むというメカニズムのために、毎度いたちごっこのような状況が出現するのではないか? 鉱山事故の死亡率が銀行強盗事件の解決率より明らかに高い状況において、鉱夫は銀行強盗というものにどのような目を向けるのだろうか? 交通事故の加害者が、その罪を回避できる確率が圧倒的に高い社会において、自発的に罪を容認するだろうか? このように、信用性に欠ける人が社会において益々得をしてしまうという構造なのである。

 中国人が信用性に欠けることについて、行政の効率の悪さ以外に社会的共有制という中国ならではの特殊な国情のもと、政府は市場の規則制定者であるだけでなく、自らも市場の参与者であるのだ。しかし、自ら制定した規則に率先して違反するなどし、ここでも信用性を失っている。例えば証券市場の管理者たちは、市場の安定を承諾し投資者の利益を保護するという一方、各種の政策において関連組織の重大なリスクを招き、株価を暴落させている。

 このように、中国人が信用性に欠けることについては、中国の社会的環境がそうさせているのである。
それでは中国人に責任感が欠けることについても社会的環境がそうさせているのではないだろうか。なぜならば、生存環境が劣悪な国家において、人々がまず優先順位の上位に置くのが自己の生存であり、社会的責任感などは二の次であるからだ。

 目下の効率の悪い政府の方針は、外国の先進的な民主的政治体制を取り入れることにより効率化を図ることができる。国民全体が管理組織に参加できる民主制度は、明けても暮れても少数のエリートのみが政権を独占しているような体制よりは明らかに効率が良いであろう。行政の効率化が図られた上で、信用性に欠ける人々もやっと市場規則の懲罰を受ける時が来るというものだ。(執筆者:劉兆輝・時事評論家、翻訳者:菅原白峰)

※本稿はCNPOSTS(翰文網)からの転載。


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