今回の調査では取り上げていないが、漢字熟語の読み方なども、本来の読み方からズレた読み方が横行しているのではないだろうか。
しばしば取り上げられる「病膏肓に入る」の「膏肓」などは、どうなっているのであろうか。
「膏肓」は正しくは「こうこう」だが、「肓」の字が「盲」(もう)の字と似ているところから、しばしば誤って「こうもう」と読まれる。他人が誤って「病コウモウに入る」と言っていても別段気にならないが、自分が使う段になると迷ってしまう。コウモウと言って無学を笑われはしないか、コウコウと言って「何を気取って」と思われはしないかなどと、考え込むことがしばしばである。そこで、「いやあ、病がコウモウだかコウコウだかに入り込んでしまいましてね」などと、珍妙な使い方をしたりもする。
「でっちあげ」を意味する「捏造」は、正しくはデツゾウであることは知っているが、通常はネツゾウで済ませておく。「洗ってきれいにすること」をいう「洗滌」も、気取ってセンデキなどとは読まずに、慣用に従ってセンジョウと読む。今日、この語を「洗浄」と書くことが多いのは、「洗滌」の慣用読みが広く通用しているからであろう。
この辺までは譲歩するにしても、さる民放の女性アナウンサーが「思惑」をシワク、シワクと読んでいたのは感心できない。「何かオモワクがあってのことか」などと、からかってみたくもなる。
読み違いは語句の構造の理解の誤りからも起こる。
「間髪を入れず」は、今のところたいていの辞書は「間髪をカンパツと読むのは誤り」と正しく処理しているが、早晩、「間髪」を見出しに掲げ、読み方をカンパツとする「かくのごとし」派の辞書が現れないとも限らない。
「かくのごとし」派が誤用に妥協したらしい例として「綺羅星」(きらぼし)がしばしば挙げられる。多くの辞書が「綺羅星」を見出し語として掲げ、「夜空にきらきらと輝くたくさんの星」式の語釈を施しているが、本来「綺羅、星のごとし」と切るべき語であるとされる。確かに、そうでなければ、「立派な人物が数多く並んでいること」をたとえるこの語の使い方の解しようがない。ただし「綺羅星」という用例が古くからあること、それに先立つ「綺羅、星のごとし」の使用例が見当たらないことなど、「綺羅星」が誤りであると、ただちに決めつけるわけにはいかない。(執筆者:上野惠司)
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