ジャーナリストで作家の陳秉安氏はこのほど、著書「大逃港(香港への大逃走)」を正式出版した。同書によると1950年代から80年代にかけて、100万人が中国大陸部から香港に逃げた。
主な“脱出口”は深セン市で、同市郊外には、逃走中に銃殺された人の共同墓地があるという。中国新聞社が報じた。

 「大逃港」は22年間にわたる研究結果をまとめた書物で、100人以上に対する取材や収集した大量の資料などが反映されている。

 陳氏によると、中国大陸から香港への逃走は東西冷戦期にあって最大規模、最長期間の逃走現象だ。記録に残っているかぎり、始まったのは1955年で、特にに1957年、62年、72年、79年には大規模な逃走が発生し、計56万人が香港に逃げた。逃走者の出身地は、広東省、湖南省、湖北省、江西省、広西チワン族自治区など、全国12の省に広がるという。

 逃走者の地位は、学生、(農村部に下放された)知識青年、労働者で、軍人や共産主義青年団、幹部を含む共産党員もいた。深セン市の記録によると、1978年までに同市の幹部計557人が香港への逃走を試み、うち183人が成功した。市政府関連では副課長以上の幹部40人以上が逃走した。

 中国大陸から逃走して現在は香港に住む人によると「兄と一緒に香港に逃げようとしたが、途中で部隊に見つかり、銃撃された。兄が背中に銃弾を受け倒れる様子を見たが、どうしようもなかった」、「その後、香港で事業に成功し、深センに行って兄が撃たれた川辺に墓標を立てた」という。深セン市郊外には、逃走に失敗して銃撃されるなどで死亡した人の共同墓地もある。


 多くの場合、貧困と飢餓のために香港に逃げようとした。中国政府は取り締まりに躍起になり、香港との国境地帯に「社会主義教育の保塁、反逃走の拠点」として「紅旗村」を建設したが、住民の約半数が香港に逃げてしまった。

 文化大革命期などには、思想や政治が理由で香港への逃走を図った人も多かった。中国の音楽教育における最高学府の中央音楽学院の馬思聡学院長は、中国でトップクラスのバイオリニストとして活躍していたが、文革が始まった1966年には迫害を受けはじめた。67年に深センで演奏会に出演した時に、客船を利用して香港に逃げた。この事件は香港メディアが大きく扱い、情報を知った知識青年らが続々と香港に脱出した。影響はその後10年間続いたという。

 今では考えられない逃走理由もある。当時、台湾は大陸に向けて大型風船を飛ばして、政治宣伝を行っていた。広東省にすむある民兵隊長が地上に落下した風船を拾った。風船に取り付けられていたかごには、大量の食品と「大陸反攻(大陸部の再奪取を唱える、当時の国民党のスローガン)」と書かれた白いシャツがあった。食品は上司に差し出したが、当時、入手困難だったシャツは手放すのが惜しく、使っていた。
ある時、バスケットボールの試合に参加したところ、汗をかいたため、下着のシャツの「大陸反攻」の文字が外に浮き出てしまった。「台湾のスパイ」と思われると、どのような残酷な仕打ちが待っているか知っていたので、即座に逃げ出したという。(編集担当:如月隼人)

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