建国初期の中華人民共和国で、人民解放軍元帥や副首相、外相などとして活躍した陳毅氏の息子、陳小魯氏が7日、出身校の北京第八中学を訪れて、かつての教師に謝罪した。文革中に学校指導者や教師に対する「造反」を行い、死者まで出したことについて、深々と頭を下げた。
中国新聞社などが報じた。なお、中国の「中学」は日本の中学校および高等学校に相当する教育機関だ。

 陳小魯氏の父親である陳毅氏は1901年に四川省で生まれた。中華人民共和国成立の大きな功労者のひとりであり、建国後は元帥(陸軍)や副首相、外相として活躍した。しかし文化大革命で迫害を受け、失脚。政界に復帰できぬまま、1972年に死去した。

 陳小魯氏は67歳。文化大革命初期の47年前の1966年、北京市内で始まっていた中学・高校における学校指導者や教師に対する「批判闘争」に同調し、通っていた北京第八中学で「革命委員会」を結成した。いわゆる「造反」だ。その結果、北京第八中学では共産党支部の書記が自殺、教師1人が自殺、党支部副書記は暴行を受けて障害が残った。

 陳小魯氏は、出身校を訪れて謝罪することに決めたきっかけを「たまたまインターネットで、中華人民共和国の1954年版憲法を読んだことだった」と説明。中華人民共和国が初めて制定した憲法の89条には「中華人民共和国公民(国民)は人身の自由を侵されない。
いかなる公民も人民法院(裁判所)の決定または人民警察の許可なくしては、逮捕されることはない」と書かれていた。陳氏は、当時の自分の行動が、憲法を踏みにじったと反省し、かつての教師に向き合って、きちんと謝罪することを決めた。

 北京第八中学が用意した謝罪会場には文革当時の教員数人が集まった。陳小魯氏の考えに賛同した「迫害した側の当時の生徒」数人も出席した。多くの教師は70代で、80歳になった者もいる。生徒は60歳以上になった。陳小魯氏は「今、言うべきこと(謝罪言葉を)言わねば、もうとりかえしがつかない」と述べて、深々と頭を下げて謝罪した。

 陳氏は謝罪会の直前に「本当はもう遅いんだ。なんでこんなに遅れて公開の場で謝罪するのか。私が歴史に向かい合うことを避けてきたからだ」と述べたという。実際には陳氏の謝罪は、これが初めてではない。学校の記念行事を訪れた際などには、自分がかつて傷つけた元教師に歩みよっては、「先生申し訳ありませんでした」と謝りつづけていたという。


 しかし、「自分のやったことに比べれば、まだ足りない」と思うようになり、公開の謝罪会をすることにしたという。

 頭を下げた後、陳氏は用意した謝罪文を読み上げた。「文革終了後、先生方は私のおかした罪に対して、寛容な態度で対応していただきました。私は北京市第八中学で当時、みなさんを傷つけた者を体表して、心からお詫びいたします」などとする文面だった。

 北京第八中学は当時からエリート校で、生徒の3分の1程度が共産党・政府幹部の子だった。毛沢東の極左路線にも、極めて早く呼応した。文化大革命が始まる1年前の1965年には「毛主席が、学校(北京第八中学)は資産階級知識分子が統治していると言った」との噂が流れてきたという。

 高級中学(高等学校)3年生だった陳氏らが作った当時の「革命委員会」の活動は、文革時代にはよくあったこととはいえ激烈だった。教師の頭を数人で低く抑えつけて自己批判させた。教室の窓から続けて何度も出入りすることを強要させられた教師もいる。屈辱を与えるためだ。「大の男が、許されて帰宅してから、情けなくて2時間は泣いていた」という。


 自分は「生きのびる」ことができたが、別の学校に勤務する妻が校舎から転落して死亡したケースもある。真相は不明だが、学校側は「自らの罪を恐れて自殺した」との見解を示して“一件落着”とした。

 元教師らは、自分の教え子の謝罪を、本当は望んでいなかったという。謝罪会はおそらく、陳氏らの気持ちを汲んで受け入れた面が強かったのだろう。

 元教師の多くは、だまって陳氏らの言葉を聞いていた。しかし、たまらなくなった元教師が、涙を流しながら訴える場面も出現した。最高齢の80歳の教師は「そんな立ち上がって謝罪する必要はないじゃないか。君たちも被害者なんだ。あの時代は階級闘争が基本だったんだ。逆らえた者がいるかね」と言った。

 同校共産党支部の幹部を務めた教師は「教師が生徒に接するのは、両親が自分の子に接するのと同じだよ。大きな罪をおかしたとしても、理解はできる」と述べた。


 謝罪会は3時間にわたって続いた。そして終了の際には元生徒の1人が突然、声を振り絞るようにして「先生方、教え導いていただき、ありがとうございます。寛容なお心に感謝します」と叫んだ。元生徒全員が期せずして立ち上がり、元教師に対して改めて、深々と頭を下げた。

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 文化大革命期では、反革命的な対象を徹底的に批判することが奨励された。相手が悪人であるならば、闘争で打倒するのは当然であり、仮に、当方にも相手にも問題がない場合には、「打倒」の動きは誤解にすぎないのだから、誤解をなくすよい機会とも考えられた。

 実際には、際限のない「造反」が広がり、人と人との信頼関係は崩壊した。子どもが親の打倒に立ち上がる場合も多かった。立ち上がらねば、自分が攻撃されることになった。

 陳小魯氏の一家も、結局は文革の被害を受けることになった。

 父親の陳毅元帥は1901年に四川省で生まれた。勤労学生としてフランスに留学したが、愛国運動に参加したため強制送還された。
帰国後に共産党に入党し、軍事面で頭角を現した。中華人民共和国成立後は、副首相や外交部長になった。

 1966年に文化大革命が始まると、文革派の攻撃が始まった。紅衛兵により公開の場に引きずりだされた。

 文化大革命を主導した林彪や江青が、革命の殊勲者だった朱徳を「大軍閥」、賀竜を「大土匪」と中傷すると、陳毅は「われわれ解放軍が大軍閥や大土匪に指導されて戦ったというなら、解放戦争が勝ち取った偉大な勝利はどう解釈すればよいのだ?」と林彪や江青に詰め寄ったという。

 陳毅は屈せずに反論したことで、毛沢東の一層の怒りをまねき、さらに立場を悪くした。

 陳毅は結局、自己批判を強いられ、河北省内の製薬工場での労働を命じられた。1971年の林彪が「毛沢東殺害のクーデター未遂・逃走中の墜死事件」を起こすと、毛沢東も陳毅への見方を変化させはじめた。しかし陳毅は1972年1月に病死。毛沢東は葬儀の際に突然弔問に訪れ、張茜夫人に「彼は立派な男だった」などと評価し、事実上の名誉回復を行った。

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 文化大革命時の死亡者については、自殺、他殺、事故死などさまざまな状況があり、いまなお判明していない場合も多い。

 文化大革命終結以降、中国の「最高実力者」となったトウ小平氏の長男、トウボク方氏(中国障碍者h聯合会主席団名誉主席)は父親が紅衛兵らの主要な攻撃目標であった関係で迫害され、取り調べのためと称して1968年に北京大学の「放射性物質で汚染された実験室」に監禁された。
トウ氏は窓から雨どいをつたっての逃走を試み、4階から転落して下半身不随になった。(「トウ」は「登」におおざと。「ボク」は木へんに「僕」のつくり部分)(編集担当:如月隼人)
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