種牡馬としてオルフェーヴル、ゴールドシップなど数々の名馬を世に送り出してきたステイゴールドが今月5日に21歳で急逝した。

■名手と“善戦マン”を結んだ「運命の糸」

「ひと言で言うと、つかみどころのない馬でしたね」

2月5日、北海道苫小牧市の社台(しゃだい)ホースクリニックで、大動脈破裂のため亡くなったステイゴールドについて武豊騎手に尋ねると、かつてのパートナーの顔を思い浮かべたのか、苦笑いするかのように少しだけ表情を崩した。


ステイゴールド。大種牡馬サンデーサイレンスを父に持つヤンチャ坊主が誕生したのは、1994年3月24日。牝馬に間違えられるほど小柄な馬で、彼を預かることになった池江泰郎(やすお)元調教師は「きりっとしていて、かわいらしくて。体は薄かったけど、黒くて品があった」と語っている。

2歳の12月から7歳まで丸5年、ターフを沸かせたステイゴールドだが、日本で挙げた勝ち星はわずか5つ。彼以上にいい成績を残した馬はたくさんいるが、彼以上にファンに愛された馬はそれほど多くはない。


負けず嫌いで、暴れん坊。デビュー3戦目では、最終コーナーを曲がろうとせず、乗っていた騎手を振り落とすほどの気性の激しさを見せたステイゴールドと武豊の出会いは偶然から始まった。デビュー12戦目のことだ。

「あれは…97年に世界各地のリーディングジョッキーを集めて行なわれたワールドスーパージョッキーシリーズでした。騎乗する馬は抽選で選ばれるんですが、たまたま、池江先生のところのステイゴールドとコンビを組むことになって。最初は、いい馬に当たったなぁと思っていたんですけどね(笑)」

レース中、前を走る馬を噛(か)みつきにいこうとするほどの気性の激しさを見せて、クビ差の2着。
ここから、“シルバーコレクター”と呼ばれ、ファンに愛されたステイゴールドの長い旅が始まった。

重賞未勝利ながら4歳時は98年のGⅠ天皇賞・春でメジロブライトの2着。7月のGI宝塚記念もサイレンススズカの2着。続く天皇賞・秋でもオフサイドトラップの2着。翌99年に行なわれた天皇賞・秋では、武豊が騎乗したスペシャルウィークをあと一歩まで追い詰めたが、またしても2着に終わった。

「あのレースは確か、レコードタイムで勝ったんですよね。
4コーナーを回ってゴーサインを出した時は、届くか、届かないか、ギリギリだなと思っていたんですが、最後の最後にステイゴールドをクビ差かわして。ステイも完璧なレースをしたと思いますが、あのレースに限っていえば、スペシャルウィークの力が一枚上でしたね」

3歳の10月から6歳の4月まで怒濤(?)の28連敗。この間、武豊が騎乗する機会は先に述べた一回しかなかったが、重賞レースでの2着、3着がそれぞれ7回ずつ。どんな相手と戦っても、あともう少しまで頑張るステイゴールドに、ファンは歯がゆさを感じながらもバイプレイヤー、名脇役として懸命に走る姿に対して惜しみない声援を送るようになった。

そして――ミレニアム。2000年5月20日、運命の糸が再び、ステイゴールドと武豊の縁を結びつける。


競走馬はどんなにファンに愛されようと、勝つことでしかその価値は上がらない。1着以外は、2着もビリも一緒――それが、競馬界のルールであり、種牡馬として生き残るための唯一の方法だ。心を鬼にした池江泰郎調教師が、主戦ジョッキー熊沢重文に代えて白羽の矢を立てたのが、この年、拠点を日本からアメリカに移すことを決めた“世界の武豊”だった。

選んだレースは、GII目黒記念。雨が降り、ぬかるんだ馬場の中で行なわれたこのレースで、後方待機策を取った武豊とステイゴールドは、最後の直線で前を走る8頭をすべてかわし、栄光のゴールへと飛び込んだ。実に2年8ヵ月ぶりの勝利だった。


「土曜日で、雨が降っているにもかかわらず、スタンドはお客さんで埋まっていて。ゴールした瞬間に沸き起こった地響きのような大歓声と拍手は、今でもハッキリと覚えています。池江先生も温かい拍手と声援に感動して泣いていましたからね。最高にうれしい勝利の味でした」

●このインタビューの続き、武豊が見たキセキなど秘話は発売中の『週刊プレイボーイ』9号でお読みいただけます!

(構成/工藤 晋 撮影/山本輝一)

■週刊プレイボーイ9号(2月16日発売)「武豊が明かす 追悼ステイゴールド秘話『あのときの彼は“背中に羽が生えている”ようでした』」より

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