「禅」と「念仏」という言葉は聞いたことがあるが、その歴史や内容、違いはよく分からないという人は多いだろう。禅と念仏は、いろいろな面で対照的な行。

自力と他力、難行と易行、悟りと救いなど、さまざまな点で比較できる。

『禅と念仏』(平岡聡著、KADOKAWA刊)では、京都文教大学教授の平岡聡氏が、それぞれの歴史と、社会、美術と芸能、政治に与えた影響を明らかにしながら、日本仏教の独自性を紹介する。

◾️知っていそうで知らない「禅仏教」と「念仏仏教」の違い

禅仏教は悟りを、念仏仏教は救いを目指すことから、目指すべきゴールが悟りと救いという好対照をなしている。悟りを目指す禅仏教には肯定的な人間観がある、とされる。

仏教の開祖ブッダは、人間の価値は「生まれ」ではなく、「行い」で決まると解いた。これは当時の社会常識であったヴァルナ制度に反旗を翻すものであり、当時としては画期的な人間観を提示したことになる。

また、運命によって決まる「宿命論」、神の意思によって決まっている「神意論」、いかなる法則性もない「偶然論」、これらすべてをブッダは否定し、第4の立場として行為論を説いた。人間の行為こそが幸不幸を決定する要因であると説いたのだ。

これは「過去→未来」という次元で見れば運命論に近いが、「現在→未来」という次元で見れば、努力の余地はあるから、自分の運命は自分で切り開けることになる。ブッダは努力によって未来は変えられると説いたので、人間は現在から未来に向かって平等に同じスタートラインに立つことができる。

悟りとは対照的なのが、念仏仏教の人間観。念仏仏教は仏による救いを目指すので、自分に絶望することが求められる。

自分の力で何とかしようという気持ちがある間は、仏の救済力を絶対に頼むことができないからだ。人間は宿業(悪業)に縛られてがんじがらめとなり、自力では救いようのない存在ととらえる。

禅仏教の人間観は「現在→未来」に対し、念仏仏教は「過去→現在」として、人は過去に悪業に拘束された、意のままにならない存在という方向が前面に出ているので、禅仏教とは対照的となる。

歴史を遡ると、禅も念仏も本来は精神を統一することに深く関与する行。しかし、日本では法然を嚆矢とする専修思想によって、禅と年は袂を分かち、まったく別の行として認識されるようになった。日本仏教の両翼といえる禅と念仏を比較することで、日本仏教の理解も深まるはずだ。

(T・N/新刊JP編集部)