全国の高校野球ファンにとどまらず、世間を驚かせたこの騒動はまだまだ収束しないままでいるが、「広陵に限らず、全国の多くの野球部で起きていることに違いない」と言い出す人物まで現れた。
だが、「大きな誤解である」と声を大にして言いたい。
「野球部の悪しき慣習を変えるのは、監督である大人の責任なんです」
こう話していたのは、当時、日大三の監督を務めていた小倉全由氏である。現在、侍ジャパンU-18代表の監督を務める同氏であるが、関東一、日大三の監督を通じて実践したことの一つに、「子どもたちの間にはびこっている、間違ったルールにメスを入れる」ことを挙げていた。
「上級生と下級生の仲がいい」ことに驚かれる
筆者が小倉にインタビューを申し込んだのが、2020年12月のこと。このとき東京都町田市にある合宿所内で小倉から長時間にわたって話を聞き、その後、グラウンド上の練習を見学させていただいたのだが、上級生と下級生の垣根がなく、フレンドリーに話し合っている姿が印象的だった。「『ウチは上級生と下級生の仲がいいんですよ』と話すと、『本当ですか?』って驚く人がいるんです。そうした人たちの話をよくよく聞いてみると、
『自分たちは上級生とは口を聞いてはいけない、厳しい上下関係でいるのが当たり前』という環境で高校野球をやっていました。それだけに、三高さんのように“上級生と下級生が和やかな雰囲気で練習している”のは、衝撃を受けているんです』って言うんですよ。
でもね、上級生と下級生の関係が良好じゃないという野球部は、こうはいきません。よく見ていると、どこかに歪みが生じていることがわかるんですよね」(小倉全由氏、以下同じ)
名門校の生徒を見て、覚えた違和感とは
小倉が日大三の監督を務めていた20年近く前のこと。ある野球名門校と日大三のグラウンドで練習試合を行った。その名門校は日大三に一泊することが決まっていたのだが、食堂に上級生と下級生が一堂に集合して着席した直後、小倉は違和感を覚えた。
上級生が携帯電話をいじったり、談笑したりするのに対して、下級生である1年生は背筋をピンと伸ばしたまま、目の前を直視したままでいる。
1年後、“有望な1年生”はどうなっていたのか
翌年も再びこの学校と練習試合を行った。小倉が前年に見た、件の有望な1年生がどれだけ成長したのかを注目していたのだが、1年前に見た上級生と同じ振る舞いをしていたのだ。この光景を見て、日大三の選手たちにこう伝えた。
「上級生と下級生の振る舞いをよく見ておくんだ。あの学校の野球部は、今でもいじめやしごきが残っているぞ」
それから数年もしないうちに、この学校の野球部は、「上級生による暴力行為が発覚し、数ヵ月に及ぶ対外試合禁止処分となった」と報道された。
小倉はこのような話を聞くたびに、やりきれない思いにかられる。同時に、プロ野球のOBたちにも苦言を呈したいという。
「『あのしごきに耐えたからこそ、今がある』『厳しさを乗り越えたからこそ、プロ野球選手になれた』こう誇らしげに答えているOBたちの考えが間違っているんです。
『しごきに耐える=プロの世界で成功する』という価値観が美談として受け継がれていき、その結果、しごきを根絶できなかった。これではいつまで経っても、しごきは根絶できません」
不祥事を起こす野球部を反面教師に
高校野球絡みの不祥事があると、部員たちと議論を交わす。すると部員たちからは、以下のような意見が出る。「そういうことをやって、誰が幸せになるんでしょうか?」
「卒業後にその先輩と街でパッタリ会っても、素通りしてしまいたくなりますね」
このときはこう返した。
「みんなは上級生、下級生関係なく仲良くやるんだぞ。
小倉がここまで部員たちのことを思いやるようになったのは、関東一に在籍していたときまでさかのぼる。このとき小倉の指導に影響を与えたのは、野球部の監督時代に選手を指導していたときではなく、一教師として一般生徒に指導していたときだったという。
“不良生徒と接する機会”がキャリアの転機に
小倉は1988年夏の東東京大会でベスト8で帝京に1対8で敗れた直後、監督を解任させられた。前年の春のセンバツでは決勝でPL学園に1対7で敗れたものの、準優勝に導くという実績を残していただけに、小倉自身は内心、相当なショックを受けていた。だが、「野球とはキッパリ縁を切って、一教師として生徒たちと向き合おう」と考え、教壇に立つ道を選んだ。
そうして翌年はクラス担任を受け持ち、さらにその翌年は学年主任も任せれ、初めて野球部以外の生徒と深く接することになった。このとき、世間で言うところの落ちこぼれ、俗にいう「ワル」と呼ばれる不良生徒と接する機会があったことが、小倉の転機となった。
野球部の部員たちには「甲子園出場」という目標がある。そのために毎日厳しい練習を積み重ねていくことができるのだが、不良の生徒たちは、将来に対する目標もなければ、学校にまともに来ようとさえしない者もいた。
不良生徒を自宅に連れて行き、話を聞いてみると…
当時は今と違って、不良生徒たちに厳しく当たることが許された時代ではあったものの、「なぜ不良と呼ばれるような生徒になってしまったのか。その原因は何なのか」とまでは深く問い詰めて考えられることはあまりなかった。そこで不良の生徒たちが問題を起こしたり、停学になった際には、週末に小倉の千葉の自宅まで連れて行き、寝食を共にして勉強を見たりいろいろな話をする機会を多く持った。
すると彼らのほうから、なぜ学校に来たくないのか、学校が終わったらどんなことをしているのか、家族間の仲はどうなのか、彼女がいるのかどうかなど、多岐にわたって話をしてくれたという。
このとき小倉は、「世間でワルと言われているけれども、心の根っこにはいいところがたくさんあるじゃないか」ということに気がつき、彼らが卒業するまで面倒を見ることを決めた。
「『卒業式はお前さんたちが主役なんだから、いい卒業式をしような』と言って送り出してあげたのは、今でもいい思い出ですね」
教師として過ごした時間が財産になった
その後、92年12月に小倉は再び硬式野球部の監督に復帰したのだが、およそ4年間にわたって一教師として過ごした時間が財産になったと話す。「あの4年の時間は、野球部の監督としてのキャリアを積み上げることができなかったことは事実ですが、それ以上に不遇な立場にいる生徒たちと接したことで、私自身の人間としての幅を広げていったことのほうが大きかったですね。
野球部ではレギュラーよりも、ベンチ入りできない選手たちに多くの時間を割いて話をしましたし、ノックもレギュラーよりも倍以上の本数を打ってあげたりもしました。
それでも3年生最後の夏にベンチ入りできないと、『ごめんな。もう少し時間があれば、ベンチ入りさせるくらいまでにはできたかもしれないな』と私が謝って、監督と選手という立場を忘れて、監督室でアイスを食べながらいろんな話をしていたことも、毎年のようにありました。
それまでの監督時代は、私主導で物事を決めて、ときには強引に推し進めてしまうこともありました。けれども野球部以外の生徒と接したことで、相手を思いやる考えができるようになって、柔軟な発想を取り入れながら選手の指導にあたることができたのです。
もし私が野球部の監督を一度も辞めることなくずっと続けていたら、何かの拍子に部員に手を上げてしまい、それが引き金となって学校全体で話し合われる問題になってしまって、野球部を追われていた、なんてことも起こり得たかもしれません」
いじめやしごきの類の話は存在しない両校が激突

日大三は小倉の下で長く野球部部長を務め、小倉が退任した23年4月から監督に就任した三木有造が、関東一は小倉が監督に復帰した92年12月から翌93年夏の東東京大会の決勝で修徳に敗れるまでの間に指導していた米澤貴光が監督を務めている。
小倉イズムを受け継いだ両校には、いじめやしごきの類の話は存在しない。これも小倉の指導の賜物であると見ていい。
全国の高校野球の現場で、小倉のような指導を推し進め、先輩と後輩の関係が良好な野球部が1校でも多く存在していてほしいーー心からそう願うばかりだ。
<取材・文/小山宣宏>
【小山宣宏】
スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』『オイシックス新潟アルビレックスBCの挑戦』(いずれも双葉社)