労働組合UAゼンセンが2024年に実施したカスタマーハラスメント調査(サービス業33,133件の回答)によれば、直近2年以内に迷惑行為の被害にあった従業員は46.8%。およそ2人に1人が、業務中に理不尽なクレームや暴言を受けた経験を持つ計算になります(出典:UAゼンセン 第3回カスタマーハラスメント対策アンケート調査結果)。“お客様”という立場を盾に、店員を追い詰める――そんな出来事は、いまや珍しい話ではなくなりました。
今回ご紹介するのは、過去に大きな反響を呼んだ実録エピソードから、夫婦でベーカリーを営むオーナーが体験した、開店直後から通い続けてくれた“優良顧客”の話。ある日その常連客が、いきなり牙をむいたのです。
記事の後半では、この“怒れる常連”の意外な正体と、その裏にあった切ない事情について、少しだけ掘り下げてみます。
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脱サラして夫婦で始めたパン屋
10年間勤務した製パン会社を辞め、1年間都内の人気パン屋で修行を重ねた伊藤さん(仮名・36歳)。保育士だった妻と共に、念願のパン屋をオープンしました。「正直、脱サラすることには非常に慎重でした。製パン会社では責任あるポジションにあり、収入にも満足していました。しかし、妻と久しぶりに都内のレストランで食事をした帰りに、偶然通りかかった人気のパン屋に出会ったのです。
その1週間後には、パン屋のオーナーに『修行させてください』と直接お願いしたところ、熱意が伝わったのか、たまたま人手が必要だったのかは分かりませんが、快く受け入れてもらいました」
そんな経緯を話してくれた伊藤さん。歯ごたえの良いパン生地と、豊富な種類のパンが人気を呼び、順調なスタートを切ったそうです。
毎日たくさんパンを買っていく老人
SNSなどでの評判の影響もあり、人気のパンが店頭に並ぶ午前中には、店の前に行列ができるほどの賑わいを見せていました。「おかげさまで、毎日忙しい日々が続いています。特に土曜日と日曜日は、開店と同時に常連のお客様が並んでくださり、パン屋としての喜びを感じています。客層は老若男女さまざまですが、古い住宅地に位置しているためか、年齢層はやや高めです」
そのような中、開店と同時に並び、全種類のパンを購入する白髪の高齢者がいたそうです。
花束持参で妻にまさかの告白
ある日、レジの方が騒がしいことに気づいた伊藤さんは、パン作りの手を休めて様子を見に行ったそうです。
レジに並ぶ他のお客様も心配そうに見守る中、私が割って入り『申し訳ありませんが、受け取れませんので、お帰りください』と伝えたところ、急に激怒したのです」
一瞬にして店内は修羅場と化しました。伊藤さんは、なんとか高齢者をなだめようと必死に声をかけ続けましたが、収まる気配は全くありません。
キレまくる老人に身の危険を感じ110番
男性はさらに声を荒げ、自分の杖を振り回し始めました。周囲のパンを次々と床に落とし、大声で叫び続けていました。
「他のお客様にもご迷惑をおかけしていたし、このままではお店が潰れてしまうと思い、110番しました。
「私も、自分の対応が良くなかったと反省していますが、改めて高齢者との接し方には慎重になるべきだと学びました」
<TEXT/八木正規>
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■“怒れる常連”の正体は、じつはストーカーだった
伊藤さんの話でいちばん驚かされるのは、あの怒声の正体が「一目惚れした奥さんに振り向いてほしかった」という、切ないほど個人的な感情だったことです。カスハラのように見えて、その根っこはストーカー的な執着だった――この二つは、じつは地続きなのかもしれません。警察庁の統計によれば、令和6年に警察が受理したストーカー事案の相談は約1万9,000件。加害者を年齢別に見ると、60歳代が1,360人、70歳以上も1,028人と、シニア層だけで年間2,000人を超えます(出典:警察庁「令和6年におけるストーカー事案等への対応状況について」)。“恋愛は若者のもの”というイメージとは裏腹に、シニア世代の想いがこじれてしまうケースは、決して珍しくないのが実情です。
■“シニアだから”じゃない、たぶん
こう書くと「最近のシニアはマナーが悪い」という話に聞こえてしまいそうですが、そう単純でもなさそうです。冒頭で紹介したUAゼンセンの同じアンケート調査によれば、迷惑行為をしていた顧客の推定年齢は、50代以上が全体の約4分の3を占めます。ただ、日本社会そのものが高齢化しており、街を歩く人・買い物をする人の年齢層も年々上がっています。「シニアだからトラブルを起こしやすい」というより、「客の中に占めるシニアの割合が高いから、目立ってしまう」という側面は、無視できないのかもしれません。それでも気になるのが、今回の男性が発した「一体いくら使ったと思っているんだ」という一言です。長く通ってきた自負、日々の生活で積み重ねた“店との関係”――本人にとっては、それが花束を渡す動機になるくらい大切なものだった。そこを店側が受け取らないと言った瞬間、拠り所を崩された感覚に襲われたのかもしれません。
■レジ越しの数分が“特別な時間”になるとき
内閣府が令和6年に実施した「人々のつながりに関する基礎調査」(対象2万人)でも、日常的に孤独感を抱える人の割合は依然として少なくないという結果が出ています(出典:内閣府 孤独・孤立の実態把握に関する全国調査)。家族との会話が減り、職場という居場所もなくなった人にとって、行きつけの店での「いつもありがとうございます」の一言は、想像以上に大きな意味を持つことがあります。
もちろん、それは花束を押し付けたり、杖を振り回したりしていい理由にはなりません。ただ、“変な客”という一言で片付けてしまうと、同じことは何度でも、あちこちのお店で起きてしまいそうです。
■通報は「大げさ」ではない、それでも
そのうえで、店員側に“やわらかく突き放す”言葉の引き出しが少しあると、事態が大ごとになる前にほぐせる場面もあるのかもしれません。「お気持ちだけ、ありがたく」――受け取らない意思を伝えつつ、相手の存在そのものは否定しない。難しい線引きですが、シニア層の来店が増え続けるこれからの接客業では、こうしたやりとりの技術が、防犯ブザーと同じくらい大切になっていくのかもしれません。
誰かの“居場所”になれる店でありながら、従業員も守られる場所であること――。その両立を目指す試行錯誤は、たぶん、これからの時代ずっと続いていくのだろうと思います。
<再構成/日刊SPA!編集部>
【八木正規】
愛犬と暮らすアラサー派遣社員兼業ライターです。
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