2009年に道頓堀で開業し、2024年には南海通り店もオープン。飲食店の入れ替わりが激しい大阪の観光地で、15年以上にわたって店を続けてきた。
テレビで脚光を浴びた大食い王は、なぜ飲食店を始め、店を続けてこられたのか。本人に話を聞いた。
父の強い勧めにより大学に進学
――白田さんが大食いで活躍されていた頃、テレビでよく拝見していました。なかでも、TBS系列で放送されていた『フードバトルクラブ』が印象に残っています。白田:あれは、出ている側も楽しかったですね。ただ、今の時代に当時と同じことをやるのは難しいと思います。コンプライアンスの面でも厳しいですし、あの頃のような見せ方は、もうできないでしょうね。
――一方で、白田さんは当時から「調理師になりたい」と番組でも話していた記憶があります。
白田:言っていたと思います。もともと小中学生の頃から、将来は飲食の仕事に就きたいという漠然とした夢があったんです。それで高校を卒業したら調理師学校へ行こうと思っていました。
――そこで一度、大学に進むことにしたと。
白田:そうです。ただ、大学を卒業したら調理師学校へ行きたい気持ちが強くあって。アルバイトを続けて、調理師学校の学費として250万円ほど貯めていたと思います。
初出場の大食い番組でいきなり覚醒
――その頃は「大食いをやろう」と思っていましたか?白田:いいえ。ただ、食べられる自信はありましたが、日常生活で限界まで食べることはないので、自分がどこまで食べられるのかは分かっていませんでした。大学生のときに寿司のチャレンジメニューに挑戦し、わりと簡単に成功したんです。それで「食べて賞金をもらえるならいいな」と思い、当時「皇帝」と呼ばれていた岸義行さんのWEBサイトを見て、賞金が出る店に挑戦するようになりました。
その頃に、大食い番組のリサーチ担当者から声をかけられたんです。学生時代の思い出に、一度くらいと思って出演したところ、初出場で準優勝しました。決勝当日は体調がすごく悪かったのですが、ラーメンを何杯食べても、お腹の感覚が変わらない。
大食い番組自粛期は会社員として生活
――その後、さまざまな番組で圧倒的な強さを見せていましたが、2002年頃には事故をきっかけに、大食い番組が一時期放送されなくなりました。その後はどうされていたんですか。白田:社会を知るために、3年半ほどサラリーマンをしていました。ただ、持病の治療のため休業していたときに、たまたまテレビのレギュラーが決まったんです。毎週まとまった収入が得られるので、「やります」と引き受けました。
――会社を休んでいる間にテレビへ出ることを、勤務先は認めてくれたんですか。
白田:ダメでした(笑)。会社と「休業期間中に何をしているんだ」という話になり、休業を続けるか退職するかの二択を迫られました。テレビの収入が給料を超えていたので、退職を選びました。
その後は3年ほど、タレント一本で活動していました。ただ、年齢的にも、そろそろ本格的に開業へ動かなければと思ったんです。大食いのトレーニングは体や脳への負担が大きく、続けながら開業準備を進めるのは難しい。
強すぎたゆえに失った熱意と葛藤
――現在、大食いという競技とは、どのような距離感で関わっているのでしょうか。白田:本音を言うと、今はもう、大食いに本気で向き合いたいというほどの熱意はなくて。もちろん、今も大食いを頑張っている人や、僕らをレジェンドとして慕ってくれる人がいることも知っています。そういう人たちの存在はありがたいと思っています。
――競技への熱意が薄れていったのは、なぜでしょうか。
白田:結果を予測できるようになると、飽きてしまうところがあるんです。当時の僕にとって、大会に出る以上は「最低でも優勝」という感覚でした。どの程度のトレーニングを、どれくらい行えば勝てるのかも事前に予測できてしまう。そうなると、勝負というより、ただ決められた作業をこなしているような感覚になってくるんですよね。それで、少しずつ熱が冷めていったところはあります。
――白田さんに匹敵する、本当に勝てるか分からないライバルがいれば、違っていたのかもしれませんね。
白田:それはあったと思います。
盟友・小林尊と繰り広げた激闘の記憶
白田:僕も一度出場しました。ただ、当時はサラリーマンをしていたので、営業先での話のネタになると思っていて。一方で、現地の盛り上がりはすごかったですね。尊に続く強い日本人選手が来るということで、かなり注目されていました。ただ、僕はほとんどトレーニングをしていなかったので、正直、かなり気まずかったです。
――2004年の大会ですよね。12分間で白田さんは38.5本を完食して準優勝しましたが、優勝した小林さんは59.5本と、20本以上の差をつけていました。
白田:尊の食べ方は異次元でした。ロケット鉛筆のようにソーセージを次々と喉へ入れ、水に浸したパンで押し込んでいく。
――あの時代を共にした人たちとは、今も特別な感覚がありますか。
白田:ありますね。大食いはかなり特殊で、ニッチな世界です。そこで経験したことは、選手同士にしか分かりません。「あのときのあれは、すごかったよね」と今でも共有できるんです。ある意味、青春のようなものですね。ものすごく濃密な時間を共にした仲間なので、今でも仲はいいですよ。
未経験の串カツ店に見出した勝機
――確か、当初は東京で飲食店を考えていたんですよね。白田:そうです。
――地ビールバーではなく、串カツ店になったのはなぜですか。
白田:そのビルが「大阪名物グルメビル」というコンセプトで、たこ焼きやお好み焼きの店は決まっていましたが、串カツの業態が空いていたんです。テナント誘致を担当していたのが以前からつながりのある会社で、「串カツをやってみたらどうですか」と提案されました。
――串カツの知識や経験はあったのでしょうか。
白田:正直、ありませんでした。ただ、調理師学校時代から多くの店を食べ歩き、自分なりに「いい飲食店」を見極める基準は持っていたんです。開業前にはさまざまな串カツ店を回り、価格や食材、ボリュームなどを比較しながら、串カツ店としての具体的な基準を作りました。
そのなかで、自分が納得できるものを出せば勝負できると感じたんです。他店と同じくらいの価格で、食材の質とボリュームでは上回る。「この値段でこれだけのものが出てきたらうれしい」と思える串カツを目指しました。
あっという間に終わった“有名人効果”
――2009年に大阪・道頓堀で「串カツ しろたや」を開業しました。開業当初の集客はどうでしたか。白田:オープン当初はお客さんが来てくれましたが、“有名人効果”は4カ月ほどで終わりました。当時はバラエティ番組にも出ていたので、正直、名前だけで1、2年は集客できると思っていたんです。簡単に稼げるだろうと、飲食店経営をなめていましたね。
――調理師学校にも通い、多くの店を食べ歩いてきた。それでも、飲食店経営では壁にぶつかったんですね。
白田:そうですね。考えてみれば、僕は飲食のプロとして知られていたわけではありません。だから「ジャイアント白田の店」と聞いても、「おいしそう」という意味では、そこまで強い引きがなかったのだと思います。
なぜ15年以上続けられているのか
――有名人としての集客効果が薄れたあとも、店を15年以上続けてこられています。その理由は何だと思いますか。白田:日々の改善じゃないですかね。ビラ配りやポスティングを考えたり、観光ガイドブックやグルメサイトに広告を出したり、いろいろ試しました。1000円の飲み放題を始めたときは、かなりお客さんが来ましたね。何が効果的なのか分からないなかで、ありとあらゆることをやってきた。その積み重ねだと思います。
――現在は、どのようなお客さんが多いのでしょうか。
白田:観光客や遠方からのお客さんが多いですね。「毎年大阪に来るたびに寄っています」という方もいます。また、大阪で研修を行う会社が、各地から集まった社員を連れてきてくれることもあります。
――なんばや道頓堀では外国人観光客が増えていますが、インバウンド向けの集客もしているのですか。
白田:インバウンド向けの広告は出していません。広告を出せば外国人観光客は一気に増えますが、それで長年通ってくれている日本人のお客さんが入れなくなるのは嫌なんです。そのため、以前出していた広告をやめたこともあります。南海通り店は路面店なので、歩いている外国人観光客が入ってくることはあります。一方、道頓堀は、通りには外国人観光客が多いのに、店に上がってみると、ほとんどが日本人です。
難局を乗り切った合理的判断
――飲食店を続けるうえで、大きかったのがコロナ禍だと思います。白田:あの時は本当に人がいなくなりました。店を開けてもお客さんが来なかったです。
――営業時間や酒類提供の制限もありましたよね。
白田:酒類の提供時間は、エリアによって午後8時までの地域と9時までの地域に分けられていて、うちの店は8時までのエリアでした。9時までなら、仕事を終えた人が7時頃から飲みにいけますが、8時までだと1時間ほどしかありません。これでは、なかなかお客さんも来ませんよね。正直「自分たちが何をしたんだ!」と思いました。
――制限が解除されてから、お客さんは戻りましたか。
白田:比較的早く戻ってきたと思います。とはいえ、それまでの間は状況に合わせて打てる手を打つしかありませんでした。
――具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。
白田:当時は、国の「Go To Eat」と大阪府の「少人数利用・飲食店応援キャンペーン」があり、ミナミ地区ではさらにポイントが上乗せされていたんです。税込5500円以上の予約をすると、1人利用なら計5000ポイント、2人利用なら計6000ポイントが予約者に付与される仕組みだったんです。そこで、1人でも利用できる5500円の食べ飲み放題や、2人向けに1人2750円のコースを作りました。その結果、17時台、19時台、21時台と、ディナーの3回転すべてで全卓が埋まり、キャンペーン期間中は連日、全席が予約で埋まりました(笑)。
――雇用調整助成金なども活用したのでしょうか。
白田:制度が始まると、すぐに調べました。最初の申請はかなり複雑で、労働局に何度も足を運び、資料を作って確認してもらいました。大阪の会社のなかでも、かなり早い段階で申請したと思います。
――お話を伺っていると、白田さんって非常に合理的に仕事をされていると感じます。
白田:そうかもしれません。自分でも、そういうタイプだと思います。
新店オープンは「従業員の雇用を守るため」
――2024年には南海通り店をオープンしました。2店舗目を出したのは、どのような経緯だったのでしょうか。白田:道頓堀店が入っているビル全体が、約10カ月休業することになったんです。その間に、優秀なスタッフが辞めてしまう可能性もある。自分一人なら何とか生活できても、スタッフ全員を働く場所がないまま雇い続けるのは簡単ではありません。なので、雇用を守るために、新しい店が必要だったというのが大きいですね。
――今後も店舗を増やしたいという思いはありますか。
白田:増やしてもいいとは思っています。店舗が増えれば店長などのポジションを作れますし、任せられる人が増えることで、スタッフのモチベーションにもつながると思うんです。
――出店するとしたら、どのあたりを考えていますか。
白田:やはり、なんば周辺だと思います。自分の目が届く範囲にしたいですし、僕自身、移動が嫌いで(笑)。これまで通勤や通学に15分以上かけたことがほとんどないので、ここから片道30分もかかる場所には出さないでしょうね。出しても、おそらく足を運ばなくなるので。
「自分のため」ではなく、誰かのために
――やはり合理的ですね(笑)。白田さんご自身は、これからやりたいことがありますか。白田:それが、あまりないんです。欲がないことは、自分でも少し悩みではあります。大食いで、1、2年の間に一気に稼いだ時期がありました。そのときにお金も使いましたが、お金が増えること自体には、あまり幸せを感じなかったんです。たとえば、5万円だった買い物が20万円になるだけで、少しグレードが上がるにすぎない。それを手に入れたからといって、ものすごく幸せになるわけではありませんでした。
事業を伸ばすのも同じで。本来、もっと売り上げを上げたいという強い欲が仕事への原動力になるのですが、今の僕には、そういう燃え上がるような力があまりないんです。
――一方で、店舗を増やすことには、ご自身の欲とは別の意味を感じているのでしょうか。
白田:そうですね。店舗を増やして店長のポジションを作ったり、待遇や働く環境を良くしたりすることには意味を感じます。自分のために事業を大きくするよりも、誰かのために取り組む方が、今の自分にはしっくりくるのかもしれません。
<取材・文/マーガレット安井>
【マーガレット安井】
大阪府出身のフリーライター。関西圏のインディペンデントカルチャーを中心に、インディーズバンドやライブハウス、レコードショップ、ミニシアターなどを取材。現場の雰囲気や表現者の背景、地域に根づく文化のつながりを文章で伝えている。これまでにプレジデントオンライン、All About、Skream!、Lmaga.jp、Meets Regionalなどへ寄稿。 X:@toyoki123
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