◆報知プレミアムボクシング ▷激闘の記憶 第3回 畑山隆則VS坂本博之
報知プレミアムボクシング「激闘の記憶」第3回は元WBA世界ライト級チャンピオン畑山隆則(横浜光)の初防衛戦をピックアップ。ガッツ石松(ヨネクラ、元WBC世界同級王者)以来、26年ぶり2人目のライト級チャンピオンとなった畑山は、初防衛戦の相手に「平成のKOキング」坂本博之(角海老宝石)を指名。
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映画のワンシーンを見るようなラストだった。10回、畑山の左フックからの右ストレートがヒットした瞬間、それまで耐えに耐えていた坂本がスローモーションで背中からキャンバスに崩れ落ちた。レフェリーがカウントを数えると、青コーナーから棄権を申し入れるタオルが投げ込まれた。世界タイトルマッチ初防衛戦というよりも、畑山にとっては「坂本選手に勝つ」「日本人ライト級最強を証明する」という気持ちで臨んだ一戦。試合直後には、達成感からか「もうやることがない」と本音を漏らしたほど、幸福感に満ちていた。
坂本戦の4か月前の2000年6月11日(有明コロシアム)、畑山は1年ぶりの再起戦でいきなりWBA世界ライト級王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に挑戦して8回KO勝ち。スーパーフェザー級に続き2階級制覇を達成した。ガッツ石松(ヨネクラ)以来、26年ぶりのライト級王者誕生にわくリング上で、驚くべき発言をした。「初防衛は坂本選手とやります」。
ボクシングスタイルも対照的だった。フットワークを使いコンビネーション、時には体を密着させて打ち合う畑山に対し、坂本は愚直に前に出て左右のフックで相手をなぎ倒す。どちらもファンの心に刺さるスタイルを確立していた。世界戦の発表会見。お互い視線を合わさず、室内には殺伐とした空気が流れていた。坂本は「別に友達じゃないから」と一切、会話をせずに会場を後にしている。
2人は過去に3度スパーリングをした経験がある。そして、ライバルの実力をそれぞれインプットしていた。坂本が感じた畑山の印象は「俺はあれぐらいのパンチでは倒れない」というのが本音だった。坂本は陣営と策を練り、左のガードを下げたスタイルで試合に臨むことを決断する。
対照的に過信せず己を知った畑山からは、名言が飛び出した。
「彼(坂本選手)は自分の顎に自信を持っている。ボクは顎に自信がない。彼はパンチがある。ボクは彼よりパンチがない。だから勝てるんです」
ガードを固め、一発のパンチが相手より弱いならば連打、コンビネーションで勝負する。相手を過小評価してガードよりも攻撃に重点を置いた坂本は、畑山の術中にはまっていった。
開始のゴングが鳴ると、初回からすさまじい打撃戦がスタートした。お互い相手の出方を見るどころか、いきなり上下にフルパワーのパンチを交換した。畑山は坂本の下がった左ガードを確認すると右ストレートを何度もヒット。それでも天下一品の頑丈さを誇る坂本は、ひるまず前進して左右のフックをチャンピオンのボディーにたたきつけた。
2人の人間性も重なり、この一戦は日本ボクシング史上、屈指の名勝負といわれている。ボクシング界は「畑山時代」に入り、世界戦4度目の敗戦となった坂本でさえ、価値を下げる黒星にはならなかった。現在、畑山はジムのゼネラルマネジャー、ボクシング解説者、坂本はジム会長として後進の指導に励み、それぞれボクシング界発展へ尽力している。
◆畑山 隆則(はたけやま・たかのり)1975年7月28日、青森県青森市生まれ。青森山田高に野球のスポーツ推薦で入学するが、先輩部員と対立して1か月で退部。その後、ボクサーを目指すために高校も中退して上京。93年6月にプロデビュー。全日本スーパーフェザー級新人王となり、96年3月に東洋太平洋同級王座を獲得。
◆坂本 博之(さかもと・ひろゆき)1970年12月30日、福岡県田川市生まれ。幼少時に両親が離婚し、児童養護施設で育つ。高校卒業後に本格的にボクシングを始める。91年12月14日に初回KOでプロデビュー。93年2月に全日本ライト級新人王となりMVPにも選ばれる。その後、日本、東洋太平洋同級王座を獲得。世界には4度挑戦したが、王座獲得はできなかった。