“超人”ハルク・ホーガン(本名・テリー・ボレア)さんが71歳で亡くなった。世界最大のプロレス団体「WWE」が24日、公式WEBなどで発表した。

 ホーガンさんは、日本マット界と深いつながりのあるレスラーだった。必殺技「アックスボンバー」で活躍したが、レスリングのベースを築いたのが日本人レスラーのヒロ・マツダさん、そしてトップスターへの階段を後押ししたのがアントニオ猪木さんだったからだ。

 リアル・アメリカン・ヒーローと評されたホーガンさんは、1953年8月11日にフロリダ州タンパで生まれた。「ラッカス」という名のバンドを結成しロックスターを目指したがプロレスラーを志し、23歳だった1977年8月10日、フロリダ州フォートマイヤーズでデビューする。

 歌手からレスラーへの転向を志した時にトレーニングを行ったのがエディ・グラハムが主宰するプロレスのプロモート会社「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」のジムだった。ここでレスラーを指導していたのはヒロ・マツダさんだった。

 1937年7月22日に横浜市で生まれたマツダさんは、57年に力道山の日本プロレスに入団も60年に退団。活躍の場を米国など海外マットに移す。確かなテクニックと必殺技「ジャーマンスープレックス」でダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍した。

 力道山が亡くなった後には日本プロレスにも参戦、さらに猪木さんが72年3月に旗揚げした新日本プロレス、ジャイアント馬場さんの全日本プロレスにも参戦するなど日米マットでトップとして活躍した。

 レスラーとして活躍する一方で拠点にしたフロリダで後進の育成に尽力。その中の1人がホーガンさんだった。

 ホーガンさんがマツダさんの下で修業しレスラーとしてデビューした当時、「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」でレフェリーを務めていたのが新日本プロレスでメインレフェリーだったタイガー服部さんだった。

 当時の思い出について私はかつて服部さんを取材した。ホーガンの印象を「最初から人と違うものを持っていたよ。力量とか素質というより、彼のプロレスを見た時に“あっ、これは凄いヤツだ”って思ったよ。カリスマ性は人の10倍ぐらいあったし、見ただけで分かったね。それが何かはうまく言葉にできないんだけど、やっぱり体から受ける匂いなんだろうね。オーラだよ」と明かしていた。

 ホーガンがマツダさんの下で修業していた時代に76年2月に72年のミュンヘン五輪で無差別級と重量級の2階級で金メダルを獲得したオランダの柔道家のウィレム・ルスカもトレーニングに訪れていた。

 ルスカは76年2月6日に新日本プロレスに参戦し猪木さんと「格闘技世界一決定戦」で対決した。その後、プロレスラーに転向した。この時、ホーガンさんはルスカと対戦している。この試合のレフェリーを務めたのが服部さんだった。

「ルスカは、プロレスに転向した時に猪木さんがフロリダに送ってきたんだよね。その時にデビュー当時だったホーガンとフロリダのフォート・ローダテールで試合をやったんだよ。その試合のレフェリーをしたんだけど、レフェリーになった当時で言えばその試合を一番覚えているよ」と服部さんは明かしてくれた。

 さらに、81年から約3年間、AWAに参戦した時は、マサ斎藤さんと対決しマサさんのプロレスを真剣に学んだ。マツダさん、マサさんから指導されたレスリング技術をベースに日本では新日本プロレスで80年5月に初来日すると猪木さんとの対決、タッグで「ストロングスタイル」プロレスを実戦で学び、その結果、80年代後半からWWF(現WWE)で活躍し同団体を世界最大の団体に引き上げた。

 ホーガンさんのプロレスの源流には日本マット界の伝説的レスラーの血が流れている。

 (福留 崇広)

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