巨人のライバルだった名選手の記憶を掘り起こしてきた「巨人が恐れた男たち」。最終回は星野仙一さんの足跡をたどる。

打倒・巨人に全てをかけてきた「闘将」。2005年、その宿敵からまさかの監督要請を受け、胸中は揺れ動く…。激情の中日時代を振り返る「最大の敵編」、20年前の夏を初めて巨人の元オーナー・滝鼻卓雄氏(86)らが語った「幻の監督編」。関係者の証言で「星野仙一と巨人」に迫る。(取材・構成=太田 倫)

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 【最大の敵編〈1〉】 「どこに泊まっとるんや、ジャイアンツは! これから行くぞ!」

 怒声が壁を震わせた。星野は荒れ狂う暴風だった。1987年6月11日、熊本市内のホテル。藤崎台球場での巨人戦の夜だ。

 中日・宮下昌己から受けた死球に、クロマティが激高した。宮下の顔面に右ストレートを見舞い、大乱闘に発展。ルーキー監督の血が沸騰した。王貞治監督を小突き、「グーで殴るのはいかんやろ!」と目の前に拳を突きつけた。

それでも収まらず、巨人の宿に乗り込もうとした。

 「何言ってるんですか! ダメです!」

 「闘将」はまだ40歳。初代監督付広報の早川実が必死になだめた。

 全ての始まりは、1968年のドラフト会議。明大のエースは、約束されたはずの巨人の指名を待った。しかし、呼ばれたのは武相高の島野修。「ホシとシマを間違えたんじゃないか」と漏らしたのはあまりに有名な話だ。裏切られた…。その瞬間から、打倒・巨人が生きがいとなった。

 指名回避の理由は、右肘の故障の情報を川上哲治監督がキャッチしたから、というのが定説。だが異説がある。当時、既に巨人のエース格だった堀内恒夫が語る。

 「あるとき、神宮での産経(現ヤクルト)とのナイターの前に、ロッカーで東京六大学の試合をモニターで見ていた。そしたら、星野さんが試合中に相手選手に怒って、グラウンドを追いかけ回した【注】。その場面を川上監督も、首脳陣も見ていたはずなんだ。『アイツは紳士の球団にはふさわしくない』と判断したと、オレは思う」

 剛球投手ではない。精密機械タイプでもない。胸元を大胆に突く度胸と、「リリースの瞬間にビシッと音がする」(堀内)ほどキレるスライダーとのコンビネーションで立ち向かった。

 「目の色を変えて投げてくるから。みんな嫌がっていた」と懐かしむのは、V9戦士の高田繁。明大では星野の1学年上にあたる。

 「何をするか分からない怖さがあった。特に柴田勲さん、土井正三さんは嫌がっていた。ONにホームランを打たれたら、代わりに2人の頭の上に投げてきたりする。

『お前、オレが打ったわけじゃねえだろ!』なんて土井さんが怒って。『お前なんかに誰が当てるか、バカ野郎!』と星野も言い返していた」

 ◆星野 仙一(ほしの・せんいち)1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商から明大に進み、68年のドラフト1位で中日入り。6年目の74年に先発、リリーフ兼任で15勝9敗10セーブで巨人の10連覇を阻み、沢村賞受賞。82年に現役引退し、86年オフに中日の監督就任。その後、阪神、楽天で監督を務め、史上3人目の3チームでリーグ優勝。正力松太郎賞受賞2度。17年1月にはエキスパート部門で野球殿堂入り。楽天の球団副会長だった18年1月4日、膵臓(すいぞう)がんのため死去。享年70。現役時代は右投右打。

 ※文中敬称略、肩書は当時のもの

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