強打の捕手として阪神、西武で通算474本塁打を放った希代のホームラン・アーティスト、田淵幸一さんは、巨人に憧れを抱きながら、ドラフトで宿敵・阪神に入団。高々と舞い上がる美しい本塁打でファンを魅了し、トレードされた西武で悲願の日本一を手にした。

スポーツ報知で連載した巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」から再録する。(取材・構成=太田倫、湯浅佳典)

◆[喜]「王さん一本足」と「ミスターの呼吸」の合体打法

 強い巨人を倒すこと、ONを倒すことが生きがいだった。阪神時代の10年間で2位が5度。常に巨人が前にいて、その大きな山を崩せなかった。

 巨人戦の思い出は多いね。特に最終戦の直接対決で負けてV9を許した1973年。巨人戦だけで16発打って、4月から5月にかけては7打数連続本塁打もあった【注1】。

 ホームランを打って、ONの前を走りすぎる。こんなに心地よいことはなかった。一塁で王さんの顔を、三塁で長嶋さんの顔を見る。この優越感といったら…。

 そばを通るとき、2人の反応は全然違う。

王さんは下を向いて、目線を合わせない。長嶋さんでよく覚えているのは、73年4月26日の後楽園でプロ入り初めて3打席連続本塁打を打ったときだ。左翼のジャンボスタンドにたたき込んで、ベース一周。すると長嶋さんは帽子を取って、「うん、田淵君、よく打ったね~」ってあの甲高い声で言ってくれた。わざわざ敵の選手を褒めるなんてなかなかできないよ。そこが長嶋さんのすごさだと思う。

 オレの打法は、ONの打ち方を合体させたものなんだ。大学時代はすり足。王さんの一本足打法を見て、なぜ足を上げるのかな、じゃあオレもやってみようって、マネするようになった。それがプロ入り2年目くらいだったかな。そしたら打球が飛び出した。もちろん右打者と左打者では違うから、自分なりにアレンジした。

4年目に34発打って、タイトル争いでも王さんの背中が見えるようになってきた。

 長嶋さんには呼吸法を教わった。球宴で一緒になったときに、聞いてみたんだ。「いつも打席で深呼吸しているのはなんでですか?」。教えてくれたのは、投手がモーションに入ったときに吸って、ボールを捉える瞬間に一気に吐いて力を入れるというやり方だった。

 プロってのは自己顕示欲が強くなきゃダメなんだ。巨人戦はテレビ中継がある。お客さんも入る。ここで打てば給料が上がると思って、対戦することは喜びだった。前日なんて興奮して寝られない。あふれるほどのファンの前で試合できるなんて、幸せだよ。巨人戦はほんとうに特別だった。

 【注1】4月26日(後楽園)の第3打席から3、4、5号と3連発。次の対戦となった5月9日(甲子園)は第2打席の死球を挟みまた3発。同10日(同)の初回にも打って、3試合にまたがり計7打数連発とした。

◆[怒]川上監督「背番号2用意」もドラフトは阪神強行指名

 生まれも育ちも東京で、テレビで見るのも巨人戦。「巨人、大鵬、卵焼き」の時代に、他のチームでプロ野球選手になるなんて考えたこともなかった。

 法大では22本塁打を打ち、当時の六大学記録を塗り替えて迎えた1968年のドラフトだった。もう時効だけど、ドラフトの前に巨人の川上哲治監督と会った。赤坂のふぐ料理店だったかな。「田淵君、待っているよ」と。「背番号2を用意している」とまで言ってくれてね。そりゃ、巨人に行けると思うじゃないですか。

 ところが11月12日のドラフトで交渉権を得たのは、指名順が3番目の阪神だった【注2】。

あのときテレビ中継はなかったから、電話でNPBから「田淵さん、あなたは阪神タイガースに指名されました」と連絡が来た。「え? もう一回言ってください」って聞き直したよ。目白の自宅の応接間にマスコミやカメラマンが集まっていたけど、その前でロダンの彫刻「考える人」みたいなポーズになって…。ショックだったね。

 阪神入団を正式に決めたのは11月30日。それまでに巨人が三角トレードを申し入れたとかいろんな報道があった。入団の決め手になったのは、こんな出来事だった。ドラフトからしばらくたって、明大から巨人に入った六大学の先輩・高田繁さんから電話があった。「巨人の人が会いたいって言っている」というので、11月27日にホテルニューオータニに行った。ところがそこには大勢のマスコミやカメラマン。同じ場所で大洋の桑田武さんと、巨人の大橋勲さんのトレードの話し合いが行われていたんだよ。

 案の定、巨人のスカウトと会っていたのが公になって「巨人が横やりを入れようとしている」と騒がれた。

ルールを守らなければたたかれるのもよく分かった。これは仕方ない、阪神に行こう、と腹をくくった。ウチの親父(綾男さん)は毎日新聞の社員。巨人はライバル会社の球団だったから、もしオレが巨人に入団したら、辞めるつもりで辞表を用意していたらしい。

 引退後に、ゴルフコンペで一緒になった川上さんに聞いたことがあるよ。「あの時、もしトレードだったらどの選手だったんですか?」って。「忘れた」って言ってたけどね(笑)。

 【注2】68年11月12日に行われたドラフトは、一斉入札ではなく、変則のウェーバー制で実施。12球団が予備抽選を行った上で、奇数の1、3、5位などは予備抽選の1番→12番の順で、偶数の2、4、6位などは12番→1番にさかのぼる形で指名する。阪神は予備で3番、巨人は8番だった。

◆[哀] なぜ選手を大事にしない…西武トレード

 1973年に優勝していたら、人生が変わってただろう。10月22日の巨人とのシーズン最終戦の舞台は甲子園。

勝った方が優勝だったのに0―9で負けて、奈落の底に突き落とされた。ショックで3、4日、家を出られなかった。

 マジック1で迎えた129試合目の中日戦(10月20日、中日球場)では引き分けでも優勝だったが、2―4で負けた。親友の星野仙一が先発で、後で言われたよ。「打たせてやろうと思ったのに打たねえじゃねえか」ってね。勢いはあったけど、経験不足だった。

 阪神では優勝を味わえず、78年のオフに発足したばかりの西武にトレードされた【注3】。通告されたのは11月15日の真夜中だった。その日は江本孟紀と和歌山でゴルフ。家に帰って寝ようかと思っていた矢先、球団から午後11時半頃に電話がかかってきて、ホテル阪神に呼び出された。

 トレードとは分かっていた。それまで連日スポーツ紙の紙面をにぎわせていたからね。でもホテルの周りにはマスコミがいて、全部バレてるんだ。オレの前には江夏豊も南海に放出した。なんでこの球団は選手を大事にしてくれないのかな、と思った。ちょっと成績が落ちればヨソへ出す、じゃ優勝できない。ましてや夜中に呼ぶような球団とはサヨナラしてもいいやと思った。

 ところが、西武で優勝を味わうことになるんだから分からないもんだ。でも79年はいきなり開幕12連敗。オレの野球人生は終わった…と思ったね。

 最初の3年間は最下位、4位、4位。81年のシーズンが終わったとき、監督の根本陸夫さんに呼ばれて「オマエ、明日から練習せいよ」と言われた。なんでオレだけ呼ぶのかな、と不思議に思っていたら、直後に広岡達朗さんの監督就任が発表された。とにかく厳しい人だから準備しておけ、っていうシグナルだったんだね。

 就任直後のミーティングで、広岡さんは言ったよ。「チームで一番給料が高い選手が守れない、走れないではダメだ」。オレのことだよ。で、選手に一人ずつダメ出ししていった。みんなで「あんなこと言われて悔しいよな、何とかこれは優勝しようや」って言い合った。「胴上げして、3回目に落としたろうや」と。それを合言葉に、一致団結したよ。そこからは監督との闘いだった。

 【注3】阪神からは田淵と古沢憲司、西武からは真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史という2対4の大型トレードだった。

◆[楽]広岡監督を「胴上げして落としたい」原動力に連続日本一

 オレは優勝に飢えていた。1975年に広島が初優勝して、法大で同期の山本浩二に祝福の電話を入れた。「優勝ってええで」という言葉が忘れられない。個人よりみんなで勝ち取った喜びの方が大きいんだよな。

 アメとムチっていうけど、広岡さんはムチばっかり。でも、自分たちが変わっていくのが分かった。練習で当たり前のことを当たり前にやる。キャッチボールなら胸に投げる。トスバッティングなら丁寧に相手に返す。「球際に強くなれ」と言われたね。捕れなくても気持ちで捕りに行け、と。やっている間はやりがいじゃなくて、憎しみだよ(笑)。なんとか胴上げして落としたい、とね。

 82年と83年に続けて日本一になれた。82年の日本シリーズは中日相手に4勝2敗。名古屋で優勝を決めたとき、東尾が「3回目に落とす?」って聞いてきた。「待て、まだ巨人が残っているじゃないか。もうちょっと我慢しよう」と言った。広岡さんは常に「巨人を倒さないと本当の日本一じゃない」って言っていたから。

 83年は巨人に4勝3敗。また東尾が「やってやろうや」と来た。オレはまた言ったよ。「待てよ。給料は上がる、ハワイ旅行にも連れて行ってくれる。その監督にそんなことはできないよ」ってね。「そんなに変わっちゃうの?」って言われたけど、そりゃそうだよ。家族だって喜んでいるしね。

 日本一になって、こういう監督じゃないと優勝できないと思った。いざ結果が出たら本当に感謝した。だからオレは毎年2月9日、広岡さんの誕生日に電話するんだ。「お元気ですか」って。

 474本のホームランは、王さんを追いかけたからこそ残せた数字。けががなければ500本、600本と打てたかもしれない。「田淵シフト」もあったけど、本当にヒットだけ狙えば3割も打てたと思う。でもそこで右に流すんじゃなくて、中堅から左に打つ。それがホームランバッターとしてのプライドだった。

 ホームランの魅力か…。ゆっくりダイヤモンドを回れるでしょう。ファンがその間になんぼでも楽しめる。阪神時代、土下座してホームベースで待っててくれたファンもいた。それだけ感動を与えられるんだ。特にオレの打球は高い放物線だったからね。スタンドに行くまでの楽しみもあった。今、似たようなアーチを架けられる選手は…いないねえ。=2025年4月29日スポーツ報知掲載=

 ◆田淵 幸一(たぶち・こういち)1946年9月24日、東京都生まれ。法大で通算22本塁打を放ち、当時の東京六大学リーグ記録を樹立。68年ドラフト1位で阪神入り。69年に22本塁打で新人王。75年には本塁打王。78年オフに西武にトレードで移籍し、82、83年の連続日本一に貢献。83年は正力賞を受賞した。84年に現役引退。引退後はダイエー監督、阪神チーフ打撃コーチ、北京五輪日本代表ヘッド兼打撃コーチ、楽天ヘッドコーチを歴任。2020年に野球殿堂入り。

 ◆取材後記  浮世絵師・葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」。その中でも傑作とされる「神奈川沖浪裏」は、優美な富士山と、それに挑みかかるかのように荒れ狂う波を描く。巨人を富士山とするなら、田淵さんの激動のキャリアはその大波のようだった。

 もし「富士山」の側だったなら。「ONを超えられるか? それは無理。じゃあ(捕手の)森昌彦さんを抜けるか。(5番打者だった)末次利光さんは? 巨人に行ったからといって『はい、レギュラーで』ってことは分からないわけよ」

 自身の夢のひとつはかなわなかったが、そのぶん、空に吸い込まれるような美しいアーチで多くの人々に夢を見せてきた。「幸せだったと言えるでしょうね。ONと、強い相手と戦ったからこそ、今日がある」。富士山と波のように、ライバル同士が互いを際立たせた、どこを切り取っても“絵になる”時代。その主人公のひとりだった。

(野球デスク・太田倫)

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