日本学生野球協会、全日本大学野球連盟、東京六大学野球連盟、全日本女子野球連盟、NPOアオダモ資源育成の会の5団体が25日、渋谷駅前の「名取ビル」から、神宮球場に隣接する「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」に移転する。日本学生野球協会と東京六大学野球連盟は、実に63年ぶりの引っ越しになる。

同協会と同連盟の事務局長を務める内藤雅之氏(64)に、「名取ビル」への思いを聞いた。(編集委員・加藤弘士)

 「渋谷ヒカリエ」に道を挟んで隣接する「名取ビル」は、アマチュア野球関係者にとって特別な場所だ。学生野球に関わる様々な意思決定が1963年からの63年間、このビルの一室で行われてきた。

 完成は1962年。その翌年、信濃町にあった4階建ての学生野球会館が再開発に伴い立ち退くことになり、日本学生野球協会と東京六大学野球連盟、東京都高野連が名取ビルに移転した。その経緯は、どういうものだったのか。

 「元々、名取ビルの1階から5階が山一証券の渋谷支店だったんですよ。できた当時は6階から9階までのテナントが全部入っていなくて。その時、山一の専務取締役に立大野球部のOB・藤田寛治さんがいらしたんです。長船騏郎さん(後の全日本アマチュア野球連盟会長)が藤田さんと知り合いで、お話をいただいたそうなんです。当時の名取ビルには、エレベーターガールがいたそうですよ」

 立大野球部でマネジャーを務めていた内藤氏は、卒業後の84年4月に東京六大学野球連盟へと就職。実に42年、名取ビルに通い続けた。

 「現在、周囲は高層ビルに囲まれていますが、以前、隣は東急文化会館でした。『五島プラネタリウム』に映画館の『渋谷パンテオン』がありましてね。この中にあった『文化理髪室』には長嶋茂雄さんが長年、通っていらっしゃったんです」

 その長嶋さんも「名取ビル」を訪れたことがある。長船さんが2001年に日本代表編成委員長に就任すると、五輪史上初めてメダルを逃した2000年シドニー大会の反省をもとに、翌年には長嶋さんを代表監督に招へい。オールプロでのドリームチームを実現し、2004年のアテネ五輪に臨むことになった。「長嶋ジャパン」はプロ・アマ結束の象徴でもあった。

 「長嶋さんが『名取ビル』にいらして、長船さんとお話をしていたこともあります。王貞治さんは最近、『球心会』の件でお見えになりました。プロの方にも来て頂き、野球界の様々な問題について意見交換してきた場所でもあるんです。そんな時、野球界では『名取ビルに行ってくる』で通用したんです。『名取ビル』が日本学生野球協会、東京六大学野球連盟の代名詞でもあったわけですね」

 63年ぶりの引っ越し作業。大切に保管されてきた“お宝”も多々あった。

立大時代に長嶋さんが当時のリーグ新記録となる通算8号ホームランをバットは、現在日本橋高島屋で開催中の「長嶋茂雄追悼展」に貸し出され、展示されている。それ以前のリーグ記録だった慶大・宮武三郎さんの7号ホームランを打ったバットやトロフィー、サインボールなどは、野球殿堂博物館や六大学各校に寄贈されることになった。

 内藤氏はこんな夢を描く。

 「(2032年完成予定の)新しい神宮球場に、できれば記念館的なものが作られれば、うれしいなと思うんですよね。甲子園歴史館には、阪神と高校野球を記念する展示が行われていますよね。東京六大学のものと、ヤクルトのものを多くのファンの方が見られるようになったら、いいなと願っているんです」

 昭和20年代の信濃町時代から、月間の予定が記されてきた黒板は、移転先の「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」に持ち込まれる。

 昨年は東京六大学野球連盟創設100周年の節目だった。そして迎えた101年目に移転するのも、何かの運命だろう。新しい場所で、新たな歴史が刻まれていく。

【取材後記】

 「名取ビル」は記者にとっても思い出深い場所だ。私が初めてアマ野球担当になったのが28歳だった2003年。東急文化会館が閉業し、解体が始まったのがその年の夏だった。

 2007年からの4年間は斎藤佑樹投手が早大に入学し、神宮の杜に「佑ちゃんフィーバー」が吹き荒れた。ネタ収集のために、連盟オフィスのある名取ビル9階のエレベーター前に張り込み、「渋谷ヒカリエ」の工事現場を眺めながら待ち続け、来訪者を直撃してネタ収集に励んだことも懐かしい。

 黒板の予定表こそ、「名取ビル」の象徴でもあった。チョークでさりげなく書かれたスケジュールを端緒に、取材を進めてスクープへたどり着いたこともある。一方で「抜かれ記事」を後追いするため、憂鬱な気持ちでエレベーターの「9」ボタンを押したことも数知れない。

 跡地には高層ビルが建つと聞く。いくつになっても、渋谷を訪れたときには、同行者にこう語りかけたい。「昔、ここに名取ビルというのがあってね…僕の青春だったんだ」。ありがとう、そしてさよなら、名取ビル。(編集委員・加藤弘士)

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