TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今回、評論した映画は、『ジュディ 虹の彼方に』(3月6日公開)。

宇多丸、『ジュディ 虹の彼方に』を語る!【映画評書き起こし】...の画像はこちら >>

宇多丸:
さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞して評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、この作品……『ジュディ 虹の彼方に』。
宇多丸、『ジュディ 虹の彼方に』を語る!【映画評書き起こし】

(曲が流れる)

『オズの魔法使い』で知られるミュージカル女優ジュディ・ガーランドの晩年を映画化した伝記ドラマ。ジュディが47歳の若さでこの世を去る半年前に行なったロンドン公演の舞台裏を通して、彼女の苦悩や葛藤を描く。ジュディ・ガーランドを演じたレネー・ゼルウィガーは、第92回アカデミー賞やゴールデングローブ賞などで主演女優賞を受賞。共演はテレビドラマ『チェルノブイリ』などのジェシー・バックリーや『ダークシティ』のルーファス・シーウェルなど。監督は『トゥルー・ストーリー』などのルパート・グールド……元々、舞台畑、演劇畑の方なんですけども、ルパート・グールドさん、ということでございます。

ということで、この『ジュディ 虹の彼方に』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、通称<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、まあこれは新型コロナウィルスの影響も確実にあるんでしょう、残念ながら「少なめ」でございます。ただ、賛否の比率は、褒めが8割以上。

褒めてる人の主な意見は、「痛々しい私生活と少女時代、そしてステージでの華やかなパフォーマンスから目が離せなかった」「ラストのステージではただただ涙」「レネー・ゼルウィガーの演技が圧巻だった」などなどがございました。一方、主な否定的な意見は「ジュディ本人の背景がよく分からず、あまり感情移入ができなかった。少女時代と現代とがあまりうまくつながっていない。ただ歌の力で盛り上がってるだけ」などのご意見がございました。

■「『誰かあふれんばかりの愛情をジュディ・ガーランドに注いでくれ!』」by リスナー
代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「でももだってもデルモンテ」さん。「上映中、『誰かあふれんばかりの愛情をジュディ・ガーランドに注いでくれ!』と願わずにはいられませんでした。薬物をはじめ、様々な形で搾取され、支配された幼少期。晩年は身体がボロボロ。痩せ細り、結婚指輪もブカブカ。首が前に出てしまうほど実年齢よりも老いたジュディの姿が痛々しかった。それでもスターと呼ぶべきステージでの彼女の圧倒的なパフォーマンスに嗚咽しそうになるほど涙が出ました。

あやうさとまばゆさのどちらもレネー・ゼルウィガーは素晴らしいパワーで演じています。人の心を満たすのはやはり愛。最後に彼女が観客たちの間に感じたものが愛で、少し救われました」という意見。

一方でダメだったという方。「前田直紀」さん。「レネー・ゼルウィガーの名演を生かし切れない駄作。50点。どちらかと言うと否定」と。「肝心の話の内容が面白くもなく、非常に残念な作品だなと思いました。少女時代と現在だけでなぜ、今の彼女がいるかがわかりづらいし、歌の盛り上がりがなく、同様の伝記映画の『ボヘミアン・ラプソディ』と雲泥の差があると思います」というようなことをいろいろ書いていただいております。ありがとうございます。

宇多丸、『ジュディ 虹の彼方に』を語る!【映画評書き起こし】

といったあたりで『ジュディ 虹の彼方に』、私もTOHOシネマズ六本木で2回、見てまいりました。
まあやはり新型コロナウィルスの影響で、六本木の映画館そのものは、明らかにいつもよりはガラガラぎみだったんですけど、ただ『ジュディ』の上映回、上映するスクリーンに入ってみると、まあ平日の昼だったらこれぐらいかな?っていう程度には、いつも通りぐらいには入っていた、という印象でございます。ということで、ジュディ・ガーランド。

もちろん、言うまでもなく、少女時代は『オズの魔法使い』──1939年ですよ──『オズの魔法使い』のドロシー役から始まって、たとえば『若草の頃』であるとか、『イースター・パレード』であるとか。あるいは後年、復活をかけた一作『スタア誕生』、1954年。これは実はリメイクなんですけどね。1954年の『スタア誕生』……レディ・ガガ主演の『アリー/スター誕生』、四度目の映画化版を僕は2019年1月4日に評しました。あれも素晴らしかったですけどね。あとは『ニュールンベルグ裁判』、1961年の作品、などで知られる大スターのジュディ・ガーランドですけども。

これ、たぶんキャリアが戦争を挟んでることもあって、日本では、主にその子役時代とか少女期の全盛期の未公開作っていうのか結構多いという。それに対して、特に英米では、やはり本当に史上最高のエンターテイナーとして、特別な人気、評価を誇っている、スター中のスター。歌手活動とかもね、すごく評価されたりというのがあって。

あと、まだまだ同性愛に対する差別が非常に強くあった……イギリスなんかではね、違法で捕まっちゃったりなんかしていた、ということがこの劇中でも出てきましたけど、その60年代から、たとえば自分にそのゲイのファンが当時から多かった、で、そのゲイのファンに対して非常に理解ある発言をしていたことなどから、まあLGBTQのアイコン的存在として愛され続けている、というのでも非常に有名な方ですよね。

で、その背景には、お父さんがゲイだったという……で、そのお父さんに寄り添いたかったというようなことがある、という話もあります。一方でですね、そのお母さんは、非常に苛烈なステージママで。今回の劇中でも描かれていましたけど、その映画会社の、数々のミュージカルの名作を生み出したMGM、それのプロデューサー、ルイス・B・メイヤーね。これ、今回のを見るとちょっともう、そのハリウッド全盛期のミュージカル、見るのがちょっと複雑な気持ちになってきちゃいますけども。

彼らの言うがままに、痩せ薬として当時与えられていたアンフェタミン……要するに覚醒剤ですね。で、覚醒剤を与えてるんで、食事はしない代わりに、寝れなくなっちゃった。そうすると寝れなくなるっていうことで、「じゃあ、これを飲みなさい」っていうことで、睡眠薬。これをドバドバドバドバと、娘──本名はフランスという名前ですが──ジュディ・ガーランドに与え続けていた、その母親。劇中に出てくるあの人を、皆さん、マネージャーとかと勘違いされるかもしれませんが、あれ、お母さんですから、っていうね。

まあそんな感じで、演者、しかも未成年に対する人権的な配慮というものが、全くないどころか、これも劇中でも描かれていましたね、もうハラスメントとマインドコントロールがセットになったようなその環境というのが、当たり前のようにあった。そして、それが彼女の心身を蝕んでいき、後年、彼女のキャリア、人生を破壊していくという。そのあたりの、そのあまりにもひどすぎる事情というのが、実際にあって。

これに関しては僕も今回、初めて知ることが多かったんですけども、雑誌の『ELLE』の、これはウェブ版で読めるやつですかね、タイトルが「わがまま薬物降板女優ジュディ・ガーランドを、クスリと仕事漬けにした毒母」という記事で……要するに、彼女はなぜ、そういうその「わがまま薬物降板女優」なんていう言い方をされるようになってしまったのか? いや、彼女は被害者なんだ、っていうことを書いた記事が、『ELLE』のウェブで読めますので。今回のその『ジュディ』鑑賞の補助線として、ぜひ見ていただきたいなという。今回の『ジュディ』はそのへんを、ちょっとかなりほのめかす程度にとどめているところもあったりするので。補助線していただきたいな、と思ったりするんですけども。

■ザッツ・エンターテイメントな存在として晩年のジュディ・ガーランドを切りとる
その一方で、同時に、彼女は間違いなく稀代の、そして根っからのエンターテイナーでもあって。どれだけボロボロになろうとも……オーバードーズによって死んでしまうその直前まで、ステージで観客を楽しませようとしていた人でもある、という。つまり、エンターテイメントの闇の部分、もう非人間的ですらある側面と、それでもやっぱり人というのが生きる限り──これは演者側もそうですし、それを受け取る側っていうのも──切実に必要としている、恵みとしてのエンターテイメント。その両面が、不可分に、表裏一体のものとしてある存在という、まさにザッツ・エンターテイメント、良くも悪くもザッツ・エンターテイメントな存在として、晩年のジュディ・ガーランドというのを切り取ってみせる。今回の『ジュディ』は、まずはそういう作品、と言っていいと思います。

元々は『End of the Rainbow』っていう舞台劇。これ、『キネマ旬報』の生井英考さんという方の文によれば、今回の映画版でも中盤に出てくる、「ゲイのアイコンという異名を持つガーランドが、ロンドンの片隅でひっそり暮らすゲイ・カップルと過ごした心温まる一夜を主軸に描いている」ということは、生井さんの文章で……元の舞台はこういうことらしいんですね。というのが舞台で、だから他の部分は割と実話ベースに膨らましていった、というのが今回の『ジュディ』という映画なんですけど。

で、監督をしているルパート・グールドさん。映画監督としては、ジェームズ・フランコとジョナ・ヒル主演の、あれも実話ベースの『トゥルー・ストーリー』という2015年作品とかを撮っている人ですけど。

もともとは演劇界でめちゃめちゃ活躍されてきた方なので、こういうステージ、もしくはバックステージ物というかね、まさに自分のフィールドって感じでしょうし。映画としても、奇をてらった、なんかすごく変わった新しいことをしているとかじゃないんだけど、非常に的確に、ツボを押さえた演出をしっかりしている、という風に思います。

まずですね、この映画、オープニングからして非常に秀逸だな、という風に思いました。まず、ダーシー・ショーさんという方が演じる少女時代のジュディですね。最初、顔正面のアップで、こちら側、つまり観客側を見ているわけです。

これ、ちなみにラストショットも、今度はレネー・ゼルウィガー演じる晩年のジュディが、観客側、こっちを見ている、というところで終わりますけどね。まあ、対になっているわけですけども。こっちを見ているわけです。で、その顔のアップに、外側から聞こえる男の音が、とにかくあちら側……「あちら側」っていうのはつまり、我々側なんですけども。スクリーンを挟んで、彼女たちを眺めている我々観客側、「一般社会側」と言ってもいいでしょう。

とにかく、映画を見に来るような普通の人々の側と、その映画をつくる、幻想を提供するこちら側、つまり「お前やワシは、あっちとは違う世界の住人なんだぞ」、そして「こちら側の人間でいたければ──つまり多くの人に愛されたければ──人並みの幸せなど忘れて、俺の言うことを聞け」「それが嫌なら、どうぞあっち側の普通の世界で、人々に埋もれて暮らすがいいよ」という風にですね、この少女に対する……たとえば容姿に対するコンプレックスなども絶妙に刺激しつつ、問答無用な圧をもって、実のところ、要は服従を誓わせようとしているわけです。

■大プロデューサー、ルイス・B・メイヤーに導かれて少女時代のジュディが歩んでいくその場所は……
その後の部分でも、「ありがとうは? ありがとうって言いなさい」みたいなことを言って。「自分で選んだよね?」なんてことを言って。非常に卑劣に、服従を誓わせようとしている。これ、リチャード・コーデリーさんという方が演じている、ルイス・B・メイヤーという実在の人物。もちろん皆さんご存知、MGM(Metro-Goldwyn-Mayer)ですね。そのメイヤー(Mayer)ですよ。その黄金期を築いた大プロデューサー。

なんですが、同時に、劇中の描写としてはあくまでもほのめかす程度にとどめていますが……でも明らかに、この少女に対して、一線を越えた距離感で支配しようとしている。つまり、古き悪しきというか、ハーヴェイ・ワインスタインから今に至るまで、やっぱり残念ながら連綿と続いてしまっているかもしれない、そのエンターテイメント界の悪しき本質。たとえば非常に、セクシャルハラスメントっていうか、その性暴力体質とか、男権的体質であるとかっていうのを、体現するような存在として、本作では描かれている。

本作ではほのめかす程度だけど、でもこれは明らかに変でしょう?っていう。あと、言っていることの醜悪さというものも、非常に浮かび上がるように、はっきりと描かれています。というのは、先ほどのその『ELLE』の記事にもあったような、本当にもう許しがたいひどい事実というものが過去にあったから、っていうことですね。で、しかも最初、スクリーンのこちらを見つめていたその少女時代のジュディが、彼に導かれるように歩いていくその場所は、他ならぬ、その『オズの魔法使い』のセット。「イエロー・ブリック・ロード」の上なんですよ。

夢をかなえるために歩いていく黄色いレンガ道の上を、彼女は歩いて行く。しかもそれは、作り物のセットなんだけれども。かくして、我々から見れば「あちら側の世界」に踏み込むことになっていく彼女、っていうのが、それが本当に史実通りですね、当時の人気子役であるシャーリー・テンプルを押しのけて『オズの魔法使い』のドロシー役を手にすることになる、というこの冒頭、アバンタイトルだけで、彼女を生涯抑圧して、苦しめてきたものの本質、あるいは、分断されたあちら側とこちら側、つまり演じ手と受け手側……これがつまり、ラストに至って、この分断が解消される、というところに至る話、という風な言い方もできるかもしれないですね。そういうような構造とか、しかも彼女のキャリアの説明にもなってるわけですね。

ということで、端的にそれが全部、このアバンタイトルに集約されてるっていうことで。非常にルパート・グールド監督、たしかな腕を持ってるな、というオープニングシークエンスでございました。

■ジュディに振り回されつつもサポートするふたりの「受け」が上手い!
そこから一気に時代が飛んで、1960年代現在のジュディ・ガーランドの話になって。ここからレネー・ゼルウィガーが演じるわけです。まあ2人の子供を抱えつつ、金なし・家なしで困っている、というね。で、彼女のまた生い立ちを知ってると、まだ幼い子供たちを舞台に上げて日銭を稼ぐ、というのは、さっき言ったその非常に苛烈なステージママとなっていったお母さんの代から、脈々と繰り返していることをまた繰り返してる、ということでもあって。ここは史実を知っているとさらに、「ああ、痛々しい……」というところでもあったりするんですけども。

ともあれ、背に腹は代えられないってことで、これ、ルーファス・シーウェルさん演じる元夫のシド・ラフトさんという方……これ、あの『スタア誕生』のプロデューサーでもあって。あるいはジュディの音楽活動の後押しもしたりなんかして、彼女の5人いる夫の中では、一番いい人だったんじゃないか、というようなシド・ラフトさんなんですけど、彼に彼女は子供を預けて、差し当たってその子供たちと住める家を確保するために……つまり子供たちと一緒にいるためにこそ、子供たちと離れて。お金を稼ぎにロンドン公演へ行き……ゆえに、子供たちと離れているからこそ、どんどん精神が不安定になっていってしまう、という。

で、ですね、ここ、滞在中、彼女のマネージャー的な、諸々を仕切るロザリン・ワイルダーさんという実在の女性。これを演じるジェシー・バックリーさんとか、あとはバンドマスターのバートを演じるロイス・ピアソンさんとか、要は、ジュディ・ガーランドという大スターはもちろんリスペクトしつつ、その情緒不安定な振る舞いにはもうひたすら戸惑い、振り回され、それでもできるだけサポートしようとすることは諦めない、その周囲の、言ってみれば善意の常識人たち。その距離感、それを表わす受けの芝居の、彼・彼女らの上手さ。それが示す距離感みたいなのが、映画としての緊張感とか人間味……つまり、「この人たちに見捨てられたら終わりだぞ」とか、あるいはその彼・彼女らが見捨てないことによる人間味とかを、きっちりと高めていて。実はこの2人とかが、何げにめちゃめちゃいい仕事してるな、という風に思ったりしました。

もちろん、さっき言ったように、ジュディ・ガーランドの言動が不安定なのには、理由があるわけですね。周囲の大人たちに──先ほどのメールもあった通り──一方的に抑圧され、搾取され、利用されつくして、心身ともにボロボロになってしまった人生という、そういう理由があって、ということです。つまり彼女の現状、こういう風に、要するに傍から見れば「お騒がせ困った女優」っていう……今でもそういう扱いの人、いますよね? たとえば我々、ワイドショーとかで、「お騒がせ困った女優」みたいなことを、表面的にレッテルを貼って済ましたりしますけども。それと、やっぱり育ちや過去というものは不可分なものであるということが、随所でフラッシュバックされる、ということですね。

たとえばその40代のジュディが、ちょっと、後に結婚するチャーリーといい仲になると、そのかつて奪われた……少女時代にはその少女らしい恋心さえ奪われていた、予め奪われていた、というところにフラッシュバックする。ちゃんと紐付いてフラッシュバックするわけです。で、徐々に、「ああ、彼女はやっぱり理由があってこうなっているんだ。彼女の現状と過去は不可分なものなんだ」っていうことが明らかになっていく。で、ここも非常に上手いところなんですが、そのロンドン公演……全体がロンドン公演の日々でできてるわけですけど。

そのロンドン公演の初日、最初の第一声を彼女が発するところまで、観客には、ジュディ・ガーランド、つまりそれを演じるレネー・ゼルウィガーが歌うところを、あえて一切聞かせないようにしている。歌ってる場面でも歌声はオフにしたりとか、歌いそうで歌い出さなかったりとか、っていうこと。あえて見せないようにしている。なので、目線としては観客は、さっき言ったロザリンとかバートと、完全に一致するわけです。歌っているところをまだ見ていないから、「かつて大スターだったのはわかるけど、今のお前は本当に大丈夫か?」っていう風に……当然、これがそのサスペンス的なハラハラというものを、非常に盛り上げる効果になっている。

宇多丸、『ジュディ 虹の彼方に』を語る!【映画評書き起こし】

■同じくステージでパフォーマンスをするのを生業とする者として
それと同時に、個人的には……もちろん、ジュディ・ガーランドと並べて語るようなものでは全くない。ジュディ・ガーランドと比べれば私なんかはもう、便所虫がしたフンぐらいの感じなんですけども、でも一応、ステージに上がってパフォーマンスする、というもので生業を立てている者の端くれとして……あのですね、ステージが近付くにつれてやってくる、迫りくる不安や孤独、という。いくら練習を重ねても、いくら過去にはできていても、もう歳も取ったし、「今日のオレにはできないかもしれない」っていう、あの不安。そしてそれを、ステージに立ってしまえば誰も助けることもできない、というこの孤独。

なんだけど、一旦ステージに上がってしまえば、「ああ、できる! これだ、これなんだ!」っていうこの感覚。そしてその、ステージが終わった後の……ステージで「ワーッ!」って盛り上がって、パッとカットが変わった後の、あの虚脱と、やっぱり襲ってくる孤独のようなもの。その一端はですね、少なくともこの僕は、ステージを生業にして31年、その一端は、やっぱりちょっと人よりは切実に感じたかな、というところで。もうその1個1個に、ちょっと「ううう……(泣)」って僕はなりました。その「今日こそはダメかも」みたいな感じとかね。「よかったですよ」って言われても、「うん。でも明日はわからない」みたいな。

■「Over the Rainbow」はエンターテイメントの可能性を歌った希望の歌、であると同時に……
まあ、ともあれこのレネー・ゼルウィガー。ジュディ・ガーランド特有の、グニャッとしたあの、後ろ方向に背中が曲がったような姿勢とか、あとはまあ神経質そうな目線の動かし方とか、ちょっと首を振るようなしゃべり方とか、貧乏ゆすりとかも含めて、完コピをしていて。で、その背中が曲がったような姿勢が、普段はいかにもヨタったような、40代後半という歳の割には老いてしまったな、という感じがするような印象を与える姿勢なんだけれども、それが、さっき言ったロザリンというロンドンでのマネージャー的な女性にグッと押し出されるようにステージに出た瞬間、カメラがステージ側にパッと移ると、そのヨタった姿勢が、「スターならではの貫禄のポーズ」に変わるんですよね。余裕のポーズに。

で、ここから満を持して、レネー・ゼルウィガー演じるジュディ・ガーランドが、歌い始めるわけですけど……。ここはですね、そのレネー・ゼルウィガー、1年間のトレーニングを積んだという歌唱とパフォーマンス、そのリアルな高まりのカーブを見る者に体感させるべく……これはさすが、ルパート・グールド監督はわかっていらっしゃる。最後、歌いきってバッと身体を伏せるあの決めポーズに入るまで、カメラはグーッといろいろとダイナミックに動くんですけど、カットを割らずにちゃんと見せているわけですね。

しかも、これはもう全歌唱シーンに言えることですけど、歌詞の内容が、その時その時のジュディの心情や状況をそのまま代弁するような、シンクロするようなものにもなっていて、さらにこの場面のエモーションが倍増する、という。なので毎回、「彼女はこの歌詞をどんな気持ちで歌ってるんだ?」って思うだけでもう、泣けて泣けてしょうがない、っていう感じになってくる。

特にまあ個人的にグッときてしまうのはですね、やはり、先ほどからしつこいようですけども、すいません、「同じく」と言うのもおこがましいですが、長年ステージ上で客前に立つということを生業にしてきた身としてはですね、客席が味方に思えない、敵対的な人たちばかりに囲まれているように感じてしまう、という恐怖。それで投げやりになってしまう気持ちとか、すごいもうもう泣きたくなるほどわかる!っていう感じで。まあダメなんですけど。めっちゃダメなんだけども。もっと言えば、僕ら、もちろんちゃんとやりますけどもね!リハーサルしないで臨むとか論外なんですけど。だからそういう意味では、ジュディ・ガーランドに感情移入しつつ、大先輩なんだけども、「それ、マジでダメだから! 甘ったれてるんじゃねえよ!」みたいに思うところも、両方あるんですけども。

ただ、それでもなお、パフォーマンス、表現を彼女がやめないのはなぜか? だって最後、もう全てを失ってなお、もう1回……ノーギャラですよね。なんにもないのにやる、っていう。それはなぜか?っていえばですね、それはやっぱり、元の舞台版ではメインだったというその、劇中のゲイのカップルに象徴されている……あれはひとつの象徴なわけですね。

つまり、「こんな自分でも、見知らの誰かの人生に寄り添ったり、時には救いにもなったりするという、そういうこともあり得るんだな」という。そのかすかな可能性、かすかな希望、そこに賭けてるだけですよね。なので、最後のたとえば舞台上でですね、その心情とのシンクロという意味では、「Come Rain Or Come Shine」という(曲)、「晴れている日も雨の日もあなたのことを愛すわ」っていう、つまりこの「あなた」というのは、あの場面では観客への無償の……「とにかくあなた方に無償で寄り添いたいんだ」ということの宣言であり。

そして、そこから歌われるラスト。まさにまさにこれぞ満を持して、という感じで歌い出される、「Over the Rainbow(虹の彼方に)」ですね。劇中で2回、「Over the Rainbow」がほのめかされるところがあるんだけれども、ついに来た! という感じで来る。そしてその、劇場での顛末ね。これはぜひ映画館で見ていただきたいですけども。あれは実際にあったこと、ああいうことがあったらしいです。ロンドンではないけど、他のところではああいうことがあったらしいんですけど。ひとえにその、エンターテイメントの存在意義、その可能性に、それでも賭けたいじゃないかっていう、かすかな希望の歌として響く。

ただし、先ほど言った通り、冒頭でも示された通り、でも同時にこの『Over the Rainbow』および『オズの魔法使い』っていうのは、彼女の人生を呪ってきたものの、象徴でもあるわけじゃないですか。オープニングと対で考えるならば。つまり、単なるきれいごとではないわけです。やっぱり、きれいなことを歌ってるきれいな歌だけど、彼女にとっては呪われた歌でもあるという。この、やっぱりその物事の重層性、世界というものの複雑さというのを含む、そういうところも本当に素晴らしいバランスだ、という風に思います。

■地味ではあるが、伝えようとしていることはで重層的。いろんな気持ちが去来する、凄まじい一本
本当に胸に、魂に響く歌唱だったと思います。もちろんそれを成り立たせているのが、レネー・ゼルウィガーという……才能と人気に恵まれながら、アカデミー賞なんかもガンガン取りながらも、一時はキャリアの危機にも陥ったというその俳優が、全身全霊で、自分が生まれた年に死んだ大スターの生涯を受け止め、シンクロしようという、本当に鬼気迫るような気合いの演技そのものともシンクロする。だから、レネー・ゼルウィガーのそのシンクロというのも、こちらと重なるわけですよ。

なおかつ、それでアカデミー主演女優賞を取ったわけでしょう? ジュディ・ガーランドは、『スタア誕生』でアカデミー主演女優賞をなぜか、大方の下馬評から外れてグレイス・ケリーに持っていかれて、それでまたどんどんとおかしなことになっちゃうんだけれども、それをついに、レネー・ゼルウィガーがジュディ・ガーランドの役で獲った、ということで。これはもちろん、レネー・ゼルウィガーが「あなたの賞よ」っていう風に言ったように、ジュディ・ガーランドが獲った、ということでもあるし、そしてまた、ハリウッド側の「贖罪」でもあるという風にも取れる、という感じだと思います。

ということで、非常にその、ロンドン公演という最後の晩年のそこがメインとなっているので、実は意外と地味な1本ではあるんです。だし、奇をてらったような、変わったことをやっているような映画でもないんですけども。ただ、伝えようとしていることは非常に複雑で。ハリウッドのエンターテイメントの暗黒面と、エンターテイメントの尊さ、意義みたいなものが、非常に重層的に語られたバランスだったと思います。あるいは皆さんこれを見た後は、やっぱり人前に立つ人、いろんなこと言われる人がいますけど、ちょっとだけ優しい気持ちで見るっていうのもね……とか。いろんな面がありますね。恐ろしい面もあるしね。

という、こんな感じで、いろんな気持ちが去来する、恐ろしい、すさまじい1本でございました。私は本当にもう全編、落涙が止まりませんでした。『ジュディ 虹の彼方に』。ぜひ劇場で……意外と空いているから!ご覧ください。

(ガチャ回しパート中略~次回の課題映画は『ミッドサマー』です)

宇多丸、『ジュディ 虹の彼方に』を語る!【映画評書き起こし】

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆3月20日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20200320180000

編集部おすすめ