TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。
今週評論した映画は『Mank/マンク』(2020年11月20日公開)です。

宇多丸:
さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週、扱うのは12月4日のNetflixでの配信に先駆けて、11月20日から劇場公開されているこの作品、『Mank/マンク』。
(曲が流れる)
『ファイト・クラブ』『ゴーン・ガール』などのデビット・フィンチャー監督が、父親のジャック・フィンチャーが執筆した脚本を元に映画化。オーソン・ウェルズの名作映画『市民ケーン』の共同脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツ、通称「マンク」の視点から、『市民ケーン』の脚本がいかにして書かれたのか、モノクロ映像で描く。マンクを演じたゲイリー・オールドマンのほか、アマンダ・セイフライド、リリー・コリンズなどが出演している、ということでございます。
ということで、この『Mank/マンク』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。まあ、公開館数が非常に限られてるということもあって、少なめでした。3分の2が「褒め」。3分の1が否定的な声も含んだ感想ということでございます。
主な褒める意見としては、「『市民ケーン』製作の裏側を題材に、当時から続くアメリカ社会の問題や、映画を作ることの意義を問う。このような映画がNetflixで作られたという事実は重い」「昔の映画風の映像がすごい」「フェイクニュースや知事選など、現代に通じるモチーフも多い」などがございました。そして一方、否定的な意見としては、「『市民ケーン』について詳しくないため、意味があまり理解できなかった」といったもの。これはまあ、それはそうかな、という感じがございました。
■「今年最大の映画的事件であり、今年ベスト級の大傑作」byリスナー
代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「LA LA LAND」さん。この方はね、デビット・フィンチャーが最も好きな映画作家の1人ということで、劇場に駆けつけたということをおっしゃっていただいていて。「すごかったです。脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツが、『市民ケーン』の脚本をさまざまな障壁のなか書き上げる様子を、『市民ケーン』の構成を利用して描き出すストーリー。その時代のハリウッドを観客に完全に想起させる映像から、『市民ケーン』鑑賞時に印象に残るフィルムについた黒い傷……」。というか、あれはパンチだよね。傷というか、(フィルムの)巻を入れ替える(合図のための)パンチなんですよね。
「……まで、映画内で再現する心意気に、制作陣の作品への強い愛情を感じました。しかし、この映画を『市民ケーン』と昔の映画界へのただの懐古にとどまらない、特別なものにさせているのは、『市民ケーン』という作品および作品周りの環境に、さまざまな対比を持ち込んでいるところでしょう。『市民ケーン』の主人公・ケーンは圧倒的な権力を持ちながらも、力ではどうにも手に入れられないものを求め、没落するキャラクターでした。
対して本作の主人公マンクは、徹底的な弱者であり、自身を取り巻く不条理に何とか抗おうとするキャラクター。スタジオから見下され、監督からは無理な要求を押し付けられ、政治的にも身近な権力者に抑圧されます。『市民ケーン』は権力が権力を超えた概念に抵抗しようとする物語でしたが、その作品の舞台裏を描いた本作は、弱者が権力に無力ながらも抵抗しようとする物語になっており、『市民ケーン』と『Mank/マンク』の両方に出てくる猿にまつわることわざの違いが表すように、完全に『市民ケーン』との対比になっています。他にも、本作『Mank/マンク』で描かれる30年代から40年代の映画業界はスタジオ主義的な映画感が漂っており……」。
まあ、基本ハリウッドではメジャースタジオだけが映画を作っていた時代ですね。「……そのために、作中で登場する作家は様々な障害にぶち当たっています。ですが、『Mank/マンク』という作品自体の製作は、作家の描きたいものを重んじるNetflixで行われ、出来上がりも、『市民ケーン』鑑賞前提どころか、『市民ケーン』の舞台裏、さらに本作で描かれる時代の映画業界のあり方や政治状況まで予備知識が必要という、まさにフィンチャーのやりたかったことをやりたいようにやった作品に見えます。『Mank/マンク』で描かれた『市民ケーン』の舞台裏と、『Mank/マンク』という作品自体の舞台裏を対比しているようにも取れます」。
ということで、いろいろ書いていただきながら、「……古典的な映画への敬意を払いながらもキャリアを積み、自由な製作のプラットフォームを手に入れた今のフィンチャーだからこそ作れた、挑戦の一作。古今、虚実を入れ混ぜた膨大な情報量をもって、鑑賞後、作品をいくらでも頭の中で反芻することのできる、今年最大の映画的事件であり、まさしく今年ベスト級の大傑作だと思います」と言うLA LA LANDさん。
一方、いまいちだったという方。「たたたんと」さん。「『市民ケーン』制作の裏側を描いたフィンチャーの新作ということで、かなり期待をして見に行きました。なんですが、しかし見づらい作品でもあります。ただでさえ、フラッシュバックを挟むことが多くわかりにくい編集なのに、次々と登場するキャストの説明がほとんどなく、どんどんと話が進んでいきます。私は『市民ケーン』を見ていますし、多少の制作背景知識はある方だと自負しています。それでも付いて行くのにやっとでした。名作とはいえ古典でもある『市民ケーン』を見ていらっしゃらない方も多いと思います。そういった方はどのように見たのか、ぜひ皆さんの意見をお聞きたいところです」っていうことですね。はい。
先に言っておきますけど、たぶん、『市民ケーン』はやっぱり見ておかないと無理というか、「どういう映画か?」を知っておかないと無理、っていう感じではあると思います。はい。ということで皆さん、メールありがとうございました。
■『市民ケーン』の「ガワ」の部分をオマージュした映画がNetflixから登場
私もですね、『Mank/マンク』を、ヒューマントラストシネマ渋谷で、今回はやっぱりこの後、皆さんNetflixで繰り返し見れてしまう作品ということで、そのハードルの高さも感じながら、とりあえず3回、見てまいりました。
ということで、でもたしかに万人向けのキャッチーさは全くないというか、先ほどから言っているように、観客側に一定のリテラシーが要求される、渋い作品ではあって。こういうのがむしろ、既存の映画会社ではなくNetflixでこそ作られ、送り出される時代っていうのも、面白いですね。ちなみにNetflix、最近ね、『ラチェッド』とかもそうですし、あと、『レベッカ』もね、最近リメイクでやっていたり。あと、そのもののリメイクじゃないけど、ライアン・マーフィーの『ハリウッド』、1940年代のまさにハリウッドを描いたあれであるとか。わりとハリウッド古典期みたいなものの現代からの見直し、みたいなのを積極的にやっている印象がありますけどね。
ということで、まず大前提としてこの『Mank/マンク』ですね、脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツさんの愛称なわけですね。これ、後に、今回の映画でも出てきますけど、『イヴの総て』などで本当に大監督となっていく、ジョセフ・L・マンキーウィッツのお兄さんなんですね。
そして何よりもやはり、本作で描かれている通り、オーソン・ウェルズの映画界デビュー作にして、言わずと知れた歴史的名作『市民ケーン』、1941年の、共同脚本として主に知られるというか、ほぼほぼそれで知られるこの人がですね、その『市民ケーン』……当初は『アメリカ人(American)』ってシンプルについていた、そう題されていた第一稿の脚本を、カリフォルニア州ヴィクターヴィルというね、ちょっとカリフォルニアの中心というか、ハリウッドからは離れたところ、本作もそこでロケしたそうですけど、ヴィクターヴィルというところの牧場にある別荘で、アルコール中毒と、自動車事故による骨折で、ほとんど病人のような有様のまま書き上げるまでの、1940年の出来事。
実際には6週間だかで書き上げたのかな? その出来事と、1930年から1937年……つまり彼が、ハリウッドの裏方として働きながら、『市民ケーン』のモデルとなった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと、その愛人であり女優のマリオン・デイヴィスらと、実際に親交を持っていた頃のエピソードが、それこそ『市民ケーン』ばりにですね、時系列を頻繁に前後させるという語り口で、語られていくわけですね。
これ、フィンチャーがですね、長年開発にも関わってきた映画用デジタルカメラの代表格REDっていうのがありますけど、今回はそのREDの、モンストロ・クローム・8Kという白黒オンリー仕様による撮影。そして、やっぱり当時の映画感を再現するための、モノラル録音によるサウンド。あるいは、おなじみトレント・レズナーとアッティカス・ロスのコンビによる劇伴も、今回は非常にクラシカルな……1930年代から40年代という感じのクラシカルな感じの劇伴まで、その作りの全てが『市民ケーン』、というよりは、「『市民ケーン』の時代」の最新型オマージュ、という感じでもあったりして。まあデビット・フィンチャーといえばね、『ソーシャル・ネットワーク』がもう、完全に現代版『市民ケーン』、といったような映画でしたけど。今回はその『市民ケーン』の、「ガワ」の部分オマージュというかね。そんな感じの一作でございます。
■本作を鑑賞する上で押さえておきたい『市民ケーン』まわりの知識とは
ということで、要はですね……まずその、『市民ケーン』を見ること自体は簡単なので。別に難しい映画でも何でもない。見れば誰でも、今でも「面白いな」と思うはずの映画ですし。そして、もういろんなとこで見れる。ソフトを買ったところで1000円しなかったりするような世界なので。
つまり、どういうことか? 『市民ケーン』がどういう作品かというと……もちろんつまり、『市民ケーン』が後に映画史上トップクラスの名作とされていく、ということはまず絶対に知っておかなきゃいけない。ただし当時は、さまざまなその政治的な圧力・妨害にもあって、アカデミー賞は結局いろいろノミネートされたんだけども、脚本賞しか取れていなかった。こういうような知識。
あるいはですね、『市民ケーン』は非常に革新的な一作と言われていますけど、特にその革新的技法・話法の中でもですね、架空のニュース映像などを駆使した、ドキュメンタリー調の演出とか。あるいはその、人々が過去を振り返るインタビュー、そういう形式を取っているということ。これも一応、押さえておくべきですね。そしてやはり、「スキャンダラスな権力者」としてのメディア王・ハースト……まあ、今一番想像しやすいのはやはりトランプとか。メディア王という意味ではマードックとかいますけども。
やっぱりそのスキャンダラス感で言えば、トランプとかに近い存在感と言ってもいいのかな、というメディア王・ハースト。でも、現実に権力をめっちゃ……今、トランプは大統領ですけど、要するに大金持ちとして、本当にビジネスマンとして成功し続けた存在としてのハースト、という。要するに当時の観客なら、「ああ、これはハーストのことね」って、誰もが特定できるモデルがいる作品でもあること。ここも知っておくべきことで。
で、これらのポイントというものが最低限わかっているという前提で、お話も作られている。さらに、もうちょい詳しい映画ファンならば、「ハーマン・J・マンキーウィッツが、ヴィクターヴィルというところで、後に『市民ケーン』となる第一稿、その草稿を書き上げるまでの話」という風に聞いただけで、「ああ、あの話か!」っていう風になると思うんですね。というのは……要はですね、『市民ケーン』の脚本は、オーソン・ウェルズとの共同クレジットになってるわけですね。
なんだけど、実質オーソン・ウェルズはほとんど関わっていなかった上に、そのクレジットを独り占めしようとしていた、というような批判が、1971年、あの高名な評論家ポーリン・ケイルが……これ、『Raising Kane』っていうタイトルなんですね(笑)。『Raising Kane』っていう記事原稿。後に日本でも『スキャンダルの祝祭』っていうタイトルの本に入っていますけども。で、このポーリン・ケイルによって批判がなされる……要するに、ちょっと(当時批評的に主流だった)作家主義に対して「別の作家主義」をぶつけて批判する、というか。そういうスタンスだったわけですけど。
■『市民ケーン』にまつわる映画史的論争について本作のスタンスとは
それに対して翌年、オーソン・ウェルズが、後に監督としても成功するピーター・ボグダノヴィッチのインタビューで反論したりとか。要するに映画史的な論争があったわけですね。「『市民ケーン』の脚本は誰が本当には書いたのか?」っていう。で、この件に関してはただし、1978年にロバート・L.キャリンジャーという方が出した、これ日本版は1995年に筑摩書房から出てます、『「市民ケーン」、すべて真実』という本があって。これがですね、このロバート・L.キャリンジャーさんが、要するに脚本の第○稿、第○稿っていう、それ(改稿)ごとの変化などを、非常に細かく精査して。で、この1冊でひとまず、この件にはケリが付いてる、っていう風に僕は思ってるんですけど。
まあ、簡略化して言うならば……(その本が結論づけている)本当のところをね、簡略化して言うならば、今回の作品で描かれた通り、脚本の第一稿がマンキーウィッツさんによって書かれたのは、事実。で、そこにウェルズがいなかったのも、事実。そして当初、ウェルズがクレジットを独占しようとしていたのも、事実。ただし、後に、何て言うのかな、『市民ケーン』が名作にまで高められていく、そのいろんな部分のブラッシュアップ……これは脚本もそうですし、もちろん演出もそう。いろんな部分のブラッシュアップはやっぱり、ほぼウェルズの才能というか、ウェルズがやったことなんですね。やっぱりね。
要は、その後の手直しの方が大事だった、という見方もあるし。あとはその脚本執筆の前段階で当然、打ち合わせをしていて。それとか、あるいは途中で指示とかも当然、出していて。そういうプロセスにもやっぱり、ちゃんとウェルズはしっかり関わっていたりもするわけですね。本当はね。あとはその、ウェルズの過去のラジオでのその仕事の中には、もうはっきり『市民ケーン』のストーリー的な構造の原型が、完全にあったりするわけですよ。
だったりするので、やはりそのマンキーウィッツさんは、「お話の土台を仕上げた」というのがふさわしい、というのが実際のバランスだと思います。で、その点、今回の映画『Mank/マンク』はですね、デビット・フィンチャーによれば、お父さんのジャック・フィンチャーさんの元の脚本は、もっとね、ポーリン・ケイル論寄りだったみたいです。はっきり反オーソン・ウェルズ派な内容だったそうなんですけど、ただ実際に今回出来上がった作品としてはですね、もちろんマンク氏側に大幅に寄り添った視点・史観ではあるんですね。
なんだけど、決定的なことを言わないようにすることで……たとえば、オーソン・ウェルズ側がどの程度、脚本の方向性に指示なり、少なくとも関知なりはしていたか、実は一切示していないですよね? 要するに、「マンクがいきなりあのハーストの話を書き始めた」っていう風にも見えるけど、その手前のところでウェルズと話し合って、「そうだ、ハーストのこういう話で行こう」っていう、その話し合いが、「なかったとは言っていない」みたいなバランスになってるし。
その後、ウェルズがその草稿を最終的に『市民ケーン』にまで高めていくという、そのプロセスとか成果についても、「言及しないことで否定はしない」みたいなことで済ましているわけですね。まあ、その中でもセリフで、マンキーウィッツさんが、「方向を決めるのは俺の仕事。行き先を決めるのはやつの仕事」という言い方で、わりとその監督としてのオーソン・ウェルズの仕事というのは、否定しないようなバランスになってる。
要は、かなりマンク氏寄りの印象を与えつつも、決定的な嘘はついてない、という、なかなか巧妙なバランスに仕上がっていたりもする、っていうことだと思います。ちなみにこれ、同じような題材を扱った作品で、1999年、ジョン・マルコヴィッチがマンク氏を演じた『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』という、これよりはだいぶ今回の方が、やっぱり史実ベース、忠実ですし。ちなみにその『ザ・ディレクター』の方は、こっちはこっちでハースト側の視点というのが結構切なくて、味わい深かったりするんですけども。
■本作における最大の「薔薇のつぼみ」は何だったのか?
で、ですね、とはいえ、僕がさっき言った『「市民ケーン」、すべて真実』という本を読んでいなかったりすると……つまり、大半ですよね(笑)。そんな人はやっぱりこの映画を見ればですね、最後に、ゲイリー・オールドマン演じるマンク氏のアカデミー賞受賞コメント……「この脚本を書いたのと同じ状態で賞をもらえて嬉しいです。つまり、“オーソン・ウェルズ氏がいない状態”ということですが……ザマミロ!」っていう(笑)。そういうのを見たらやっぱり、「ああ、そういうことなんだな」っていう風に、どっちかっていうとみんなそういう印象を持ってしまいますよね。まさに「栄光なき天才たち」的な、非常に分かりやすい着地をする。
ちなみに2人はですね、「じゃあ、オーソン・ウェルズの方のクレジットを落とせ」っていう、実はそういう(クレームが出てきた)時もあったんですけど、それにはマンク氏はオーソン・ウェルズと連名で異議を唱えていた。やっぱり2人の連名がいい、みたいなことを言ってたりして、完全に決別したというのも、あれはフィクションだったりするわけなんですけども。で、ですね、ただこの『Mank/マンク』という映画の、いま言ったようなその一種分かりやすい「栄光なき天才たち」物としての着地・結論というのは、実はなかなかそんなに油断できたもんじゃないというか、単純なものでもないかもしれない、というのはあります。
それはですね、この作品の、もうひとつのキモに関わってくることなんですね。もうひとつのキモ、どういうことか? 本作、さっき言ったようにですね、1940年の数週間、そのヴィクターヴィルという場所でマンク氏が『アメリカ人』第一稿を上げるまでと、1930年から37年、マンク氏がハリウッドの裏方として、ハーストとその愛人のマリオンと親交を持っていた時期を交互に描いていく、と言いましたけど、これ、本当の話で。本当にね、ハーストさんがそのマンク氏、マンキーウィッツを、「こやつ、面白い!」的に目をかけていた、というのも本当ですし。
また、多分にアル中同士相憐れむ、というニュアンスではあったかもしれないけど、マリオンさんとも友情を結んでいた、という。これは本当のことなんです。ただし……これはこの『Mank/マンク』という映画の、オリジナルの部分なんですけども、ここから言うことは。
(マンク氏は)そうやって、言っちゃえば体制内でうまくやっていた。一応、皮肉を言ったりとか、文句を言ったりはしてるけど、ルイス・B・メイヤーであるとか、デヴィッド・O・セルズニックであるとか、あるいはアーヴィング・タルバーグといった歴史的大物プロデューサーと、皮肉とかでくさしたりしながらも適当に付き合っていた彼が、最終的にそうした権力を容赦なく戯画化した『市民ケーン』の元になる脚本案を書くに至る、その動機。なぜ、彼は『市民ケーン』を書いたのか? というのが、この『Mank/マンク』における最大の謎……つまり、この作品における「薔薇のつぼみ」なわけですよね。ちなみにその(『市民ケーン』のストーリーを引っ張るミステリーにして映画史上最も有名な伏線回収である)「薔薇のつぼみ」が、「本当には」何を示していたか、っていう元ネタのことも、今回の作中でちょっと言及されてますけど。それは、見てくださいね。
■メディアで流通する情報の真偽が分からなくなってしまった「今の時代」の始まり
この『Mank/マンク』という作品は、その「薔薇のつぼみ」……謎の部分を、1934年のカリフォルニア州知事選、という史実に求めてみせる。これが実は、本作の一番キモのところ。面白くスリリングなところ。共和党の現職フランク・メリアム知事に対して、民主党から出たのは、アプトン・シンクレアさん。これ、「『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の原作小説を書いた人」と言えばわかりやすいでしょうか?
彼がですね、社会主義的主張で非常に支持を集めてきた。今で言うとバーニー・サンダースとか、そのぐらいの感じだと思ってください。
で、当然のようにその既得権益側は、猛反発をして。それこそ、ハーストの所有する新聞などがこぞって、もう本当に反シンクレアキャンペーンを繰り広げるわけです。これは本当のことなんですね。ネガティブキャンペーンを繰り広げていく。これ、事実だったんですけども。中でも、すさまじい効果を上げたと言われてるのが、今回の劇中でも描かれた、天才少年と呼ばれた映画プロデューサー、アーヴィング・タルバーグによって製作された、ニュース映像と見せかけた嘘映像。要は選挙権を持つ人たちが、シンクレア支持に、反発とか、あるいは危機感を持つように、巧妙に、そして露骨に作られた、役者や演出なども使った……つまり、まさに「フェイクニュース」映像なわけですね。
劇中、最初はね、ラジオで、「これ、役者だよね?」って気付くってところ。僕はフィンチャーの『ゲーム』をちょっと思い出したりしましたけども。ともあれ、そのハリウッド、映画産業自体が、そのハーストなどのバックアップを受けて作った嘘映像が、実際にそのシンクレアの選挙戦に打撃を与え、潰してしまった、という歴史的事実があるわけです。で、本作『Mank/マンク』は、そこにそもそもそのアイデアを、皮肉のつもりで言ったにせよタルバーグに与えてしまったのは、マンク自身だった……という、そういうフィクションのエピソード。
あるいは、そのフェイクニュースを監督したその友人も、良心の痛みから、ある悲劇的な事件に至ってしまうという……あそこの、「まともな投票者はこれ、信じないよね?」っていう悲痛な不安ね。これにもちろん、この作品の創作エピソードたちを重ねることで、その主人公マンキーウィッツにその『市民ケーン』を書かせるに至る、動機の根本……『市民ケーン』におけるその「薔薇のつぼみ」的なところっていうのを、設定してみせるわけですね。
つまり、だからこそ『市民ケーン』は、あのようなドキュメンタリックな語りになったんだと……つまり、敵の手法を取り込んだ、というような言い方ができると思うんだけど。まあマンクさん、本当の本人は、わりと保守寄りのノンポリ、といったバランスの方だったらしいですけども。まあ、それも劇中で軽くは描かれていますけどもね。という、このあたり。
ということで、それが今回の作品のキモとなる部分。しかも、そこがフィクションの部分なんですね。言うまでもなくそれは、メディアに流通する情報の真偽が、パッと見では分からなくなってしまった時代、大きな声で言い続ければ、嘘が通ってしまう時代……すなわち、我々が生きる「今の時代」の始まりの瞬間だ、という風に、この作品は捉えてみせる。特にやはり、トランプ以降のこのタイミングでの映画化実現っていうのは、非常にタイムリーと言える、ということだと思いますね。
■フィンチャー監督が仕掛ける「劇中で言ったこと、鵜呑みにしないでね」という罠に込められたメッセージ
なので、クライマックスで、マンク氏が1940年のオーソン・ウェルズと、1937年のハースト……これ、ハーストを演じるのはチャールズ・ダンス。(『ゲーム・オブ・スローンズ 』の)タイウィン・ラニスターですよ! 要するに2人の「巨人」に、映画的には「同時に」立ち向かう、というこのクライマックス。要は、いい歳になるまで何ひとつまとまった仕事を成し遂げていない、言っちゃえば小物がですね、クリエイターとしての道義的怒りから立ち上がり、歴史的巨人たちと対決、せめてもの一矢を報いることになる、という……これは実はすごく熱い、これもまたひとつの「負け犬たちのワンス・アゲイン」物、と言えるわけですね。
ただですね、油断ならないのは、これは『ファイト・クラブ』でも出てきた……先ほど(リスナーメールで)「傷」と言ってたのは、フィルムの巻を交換する時に、映画館のフィルム技師の人が換える、その合図用のパンチなんですね。これ、昔の映画には必ず付いてる。画面隅のパンチ。これ、デジタル映画には必要ないんですね。それで実は見なくなって久しいわけですけど、今回は出てくる。最初に出てくるところで、「合図(キュー)を待てよ」というセリフとともにこのパンチが出てくる、という、非常に人を食った作りなわけなんですけど。
これはもちろん、古き良き「映画らしさ」へのオマージュ、という面ももちろんあるとは思いますが……これ、『ファイト・クラブ』でそのパンチが出てくるところのメタ構造と同様、「……っていう、映画という作り物を見ているんですよ、今、皆さんはね」という、要は冷水を浴びせる効果というか、観客に「これは作り物なんだ。映画なんだ」とわざわざ再確認させるための仕掛け、とも取れるわけです。
これ、さっき言ったような『市民ケーン』脚本に関するマンク氏寄りのストーリーであるとか、あるいはその史実通りと作り話を巧妙にミックスしたこの語り口であるとか……そして「本物のニュース映像中のインタビューに見える何か」で文字通り、この映画は終わりますよね。最後、「本当風に見える何か」で幕を閉じるこの映画そのものが、まさに劇中で言っている「暗闇の中で人はそれを真実だと思い込んでしまう」何か、そのものなわけでですよね。
ということで、たぶん僕はフィンチャー……あの『ファイト・クラブ』を作った人ですから。この分かりやすい表面上の着地の裏には、「いいけど、君たち、劇中で言ったこと、分かってる? これだって、鵜呑みにしないでね」という話だと思うんですよね。なので、ぜひこれは……史実の部分も本当にうまく混ぜられてます。ドイツのホロコーストから逃れてくる人たちをハリウッドのいろんな人が助けたんですが、マンクさんもその中の1人であったという、これは本当だし。あと、「ゲロを吐いて一言」、あのくだりも本当、とかね。なんだけど、あのゲロを吐いた場所は違います、とか(笑)。
いろいろとその史実の違いとかを調べる楽しみが膨大にあるし……そこから先、自分で思考をすることを求めている、というのが、僕はこの作品の真の、その最後のシーンが刺してくるメッセージの部分じゃないかな、という風に思っております。ということでぜひ、筑摩書房さんの『「市民ケーン」、すべて真実』、ロバート・L.キャリンジャーさん(の著書)。これ、このタイミングで復刊してください! そんなことを思いつつ、ぜひ劇場、そしてNetflixで、ウォッチしてください。
(ガチャ回しパート)
宇多丸:『Mank/マンク』に関してもうひとつ。アマンダ・セイフライド演じる今回のマリオンさんっていう、実在の方なんですけども、その方の演じ方が……これ、『市民ケーン』における、彼女をモデルにした女性の描き方に対する、ちょっとひとつ批評的な回答になっている。すごく芯のある、素敵な女性として描かれていて、そこも素晴らしかったあたりかと思います。
(以下略 ~ 来週の課題映画は『佐々木、イン、マイマイン』です)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
◆11月27日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20201127180000