TBSラジオ『アフター6ジャンクション』(平日18時~)の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。


今週評論した映画は、『DAU. ナターシャ』(2021年2月27日公開)です。
宇多丸、『DAU.ナターシャ』を語る!【映画評書き起こし】の画像はこちら >>

宇多丸:
さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、2月19日から劇場公開されているこの作品、『DAU. ナターシャ』。

(曲が流れる)

そうそう、劇中にね、いわゆる劇伴的なのはない。ただ、劇伴的なのは流れないんだけど、のちほど言う、たとえばそのクライマックスにあたる密室の中の尋問シーンでは、その、空調なのか何なのか、建物全体の「鳴り」が、ずっと薄く、「ブーン……」みたいなのが鳴っていて。それがある種、音楽的な効果を醸していたりもする、というあたり。うっかり私、メモに書き忘れていたので、ここで先に補足しておきますが。そんなような効果もあったりする。

ロシアの奇才イリヤ・フルジャノフスキーと、エカテリーナ・エルテリさん……このエカテリーナ・エルテリさんは元々、ヘアメイクでこのプロジェクトに参加したんだけど、それが最終的に共同監督になった、という。はい。もう全てが異常です……(その2人が)共同監督を務め、ソ連全体主義時代を、莫大な人員と費用、具体的に言いますと、オーディション人数39.2万人、衣装4万着、欧州最大1万2000平米のセット、主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年をかけて完全再現する『DAU』プロジェクトの、第一作。

ソ連の秘密研究所研究都市にあるカフェで働く女性ナターシャを主人公に、独裁政権の圧政の実態を生々しく描き出す……でも、こういう表現から想像されるものとも、またちょっと違うあたりがね、また異常なんですけど。

ナターシャ役のナターリヤ・ベレジナヤをはじめ、キャストたちは、当時のままに再建されたソ連の秘密研究都市で約2年間にわたって実際に生活した。ちなみに、このシリーズ全体を通しても、ある1人の女優さんを除いては全員、素人の役者さんをオーディションで選んだ、という形になっております。

ということで、この『DAU. ナターシャ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「少ない」。まあ、公開規模がね、全然小さいですから、しょうがないですね。賛否の比率は、全面的な肯定も否定もほとんどなく、一番多かったのは「困惑した」という感想。たしかに、劇場の終わった後のムードも、「困惑」っていうのがふさわしかったかもしれない(笑)。

主な意見としては、「見ている間は『一体、何を見せられているのだろう?』と思ったが、貴重な映画体験だった」「長く陰鬱で、見終わった後にドヨーンとなった」「制作過程がすごすぎる。今作だけでは判断できない」などがありました。

■「過去への記憶喪失こそが「凡庸な悪」を招く思考停止状態なのではないかと、この映画を見て改めて考えさせられました」(byリスナー)
代表的なところをご紹介しましょう。ラジオ「あきとかわ」さん。

「見てる間は退屈な気持ちと不快感ばかり感じましたが、鑑賞後にはいろいろと思うことがあり、結果的に貴重な映画体験ができて良かったと思っています。個人的に大学から大学院にかけ、ソ連に大きな影響を与えたマルクス経済学を少しかじってきたのですが……」というね。それでちょっとマルクス主義の構造の話を説明していただいて。

「共産制の1歩手前の段階と呼ばれている社会主義体制であったソ連の実情はといえば、劇中でも描かれている通り、個人の自由は容赦なく剥奪され、『平等』は均一的な思考の矯正に置き換わっていたようです。今、『劇中でも描かれている通り』との言葉を使いましたが、私がこの映画を見終わって改めて恐ろしいと思ったことは、まさにその部分です。たとえ現代人であったとしても、当時のソ連を忠実に再現した生活様式の中に約2年間ほど身をおいてしまうと、当時のソ連の人々を忠実に再現した演技が『自然と』できるようになってしまうんだなと、恐怖を感じました」。まさにこのあたりは、監督の意図かもしれませんね。

「パンフレットの中でイリヤ・フルジャノフスキー監督が『ソビエトが残した病は記憶喪失です。誰もが覚えておきたいことだけを覚えています。この記憶喪失を克服しない限り、それは何度でも繰り返されます』と語っていますが、私自身そのような不幸な過去の歴史は知識では知っていますが、自身の体感としてはなかったものとしてこれまで生きてきました。しかし、そのような過去への記憶喪失こそが(ハンナ・アーレントが言うところの)「凡庸な悪」を招く思考停止状態なのではないかと、この映画を見て改めて考えさせられました」ということですね。実際、その歴史の忘却というのはね、当然これはロシア、旧ソ連に限った話ではなく、もちろん我々日本人もね、全く無縁ではない話なわけですよね。

一方、ちょっと否定寄りの意見。完全に賛否、っていうのがないので、「否定寄り」の意見ですけども、「ありばる」さん。「賛が2、否が8。感心はするけれど、感動はしない。正直、後味の悪さが残っています。でも、この後味の悪さ、不安を抱かせることを意図されていた作品なのでしょう」と。で、いろいろとありばるさんなりの読みというのを書いていただいた後に、「それほど昔のことではないのに、自国の黒歴史を忘れないために作品に残す点は感心します。女性の髪型や下着に見られる細かなディテールの徹底ぶりも同様に。ただし、多くのところでも語られているように、私もボトルのシーン……」、これはちょっと、非常に嫌な場面なんですが。

「ボトルのシーンには嫌悪感しかないし、性行為のシーンも長すぎます。あそこまで撮る必然も感じません。この作品は娯楽や芸術映画ではなく、現代美術の一大プロジェクトであると考えると納得できます。

映画作品として、評価するには残りの何作かを見ないとわからない気がします。残りの映像はサイトで公開されているようですが、劇場版になっていないのなら見ないかな? いまだ混乱のためにまとまらない感想ですいません」という。いやいや、ありがとうございます。

■「もうひとつの世界」を丸ごと造り出し、社会や世界の本質を総合的に浮かび上がらせたい
ということで皆さん、『DAU. ナターシャ』の感想、ありがとうございました。そして私も『DAU. ナターシャ』を、シアター・イメージフォーラムで2回、見てまいりました。特に1回目は、3月1日の映画サービスデーと重なっていたこともあって、なかなかな入りでございました。やはりこの作品、というかこの『DAU』という、映画史上でも稀に見る異常な規模のプロジェクト、その第一弾としての注目度が高い、っていうことなんでしょうかね。ただ、先ほどからちらりちらりと言っていますが、ここでさらに話を異常にしているのが、『DAU. ナターシャ』と題されたこの作品単体で見ると、そこまで巨大な規模を背景に作られたものであることは、少なくとも直接的には、ほとんどわかんないんですよね。

むしろ、主要登場人物も舞台も、かなり限定的。室内会話劇で、基本、劇伴や音楽などもなかったりする、非常にミニマルな作りなんですね。本当はすごい人数がそこで本当に何年も生活している、というその巨大な研究所のセットとかも、ごくたまにカメラが外に出たときに、背景として映り込んでるぐらいで。その本来の規模感、人数感を、誇示するような引きのショットであるとか、あるいはモブシーンであるとか、そういうスペクタクルな見せ方……たぶん、普通はそこまで作りこんだら、デヴィッド・リーン的な、スペクタクルなモブショットとして見せたくなると思うんだけど。

そういうデヴィッド・リーン的ショットは一切なくて。

しかもこれ、今回の『DAU. ナターシャ』というプロジェクト第一弾、「他を見ないとわからない」と皆さん、仰ってますけど、実はこの一作だけじゃなくて、現状日本にいて僕が見ることができた別の『DAU』シリーズ7本分……これ、どういうことなのかは後ほど言いますけど。それらも、この7本……そこから先は知りませんけど、この7本までは、やっぱり基本、ほぼ同じような作りなんですよね。音楽に関しては実は、作品によっては例外的に、たとえばエリック・サティとか、既存曲が劇伴的に流れる瞬間っていうのがあって。「ああ、こういうこと、やるんだ」っていうのはちょっと、逆にシリーズで見てくると、そこもフレッシュだったりしましたけどね。

まあ基本は非常にミニマルで、地味な作り。つまり、この巨大な製作規模というのははっきり、スペクタクル的なスケール感のために用意されたもの、ではない。その意図のために作ったものではない、っていうことなんですね。だから、そういう画がない、「スケール感がないじゃないか」って言っても、それはそもそもそういう意図ではどうやらないらしい、っていう。では、何のためにこんなことをしてるのか?っていうと、それはですね、非常に私なりのざっくりした説明の仕方をするならば、「もうひとつの世界」っていうのを、丸ごと造り出し……まあ、これはある意味、映画というものがすべて志している部分ですけども。

もうひとつの世界を丸ごと造り出し、その中で本当に生きている人々の営みを、それぞれ顕微鏡で観察するかのように、そのまま切り取って。そしてその断片の集積によって、社会や世界のあり方の本質というのを、総合的に浮かび上がらせたい。

ざっくり言えば、そのような意図、もしくはつくり手の欲望。その具現化が、この途方もないプロジェクト『DAU』である、という風に、とりあえずは言えると思いますね。ということで、この『ナターシャ』単体の話の前に、まずはこの『DAU』の「ガワ」の話がもう、あまりにも面白すぎるので。ちょっと『ナターシャ』の話の比率が少なくなっちゃうかもしれないけども、許してくださいね。

■秘密研究所をまるごと作って、その中で生活させ、ソビエト連邦時代の暮らしを丸ごと再現してみせる
この、まさに狂気的と言っていい企画を実現に導いたのはですね、イリヤ・フルジャノフスキーさんという方。これ、アニメーション作家として有名なアンドレイ・フルジャノフスキーさんの息子さんで。2004年……パンフレットだと2005年ってなってるけど、インターネット・ムービー・データベースとか他の資料だと2004年ってなっているのでこちらにさせていただきますけど、2004年に長編デビュー作『4』で高く評価された方です。ちなみに今回のが二作目です。はい(笑)。

僕はこのタイミングではその『4』はですね、予告編しか見られていないんですが。今回ね、この『DAU』についてとても詳しく書かれている、林峻さんという方が「IndieTokyo」というサイトに上げていらっしゃる『DAU』のレポート、研究シリーズが、すごくこれ、僕も今回すごく参考にさせていただきましたけど。ここの林さんの記述によりますと、この長編デビュー作、2004年の『4』。当初の『DAU』と同じように、脚本にはこれ、要するに現代ロシアを代表する作家ウラジミール・ソローキンを迎えて。辺境の村に住む不気味な老婆たちの共同生活を通して、現代ロシア社会の心象風景を描いた作品、ってことなんですね、その『4』は。

予告編を見る限り、ちょっとアレクセイ・ゲルマンっぽい感じなのかな、という風に個人的には思いましたけど。とにかく、この『4』で評価を得たこのイリヤ・フルジャノフスキーさんの、第二のプロジェクトがこの『DAU』なんですよ。一作目が2004年ですよ? 何年経っているんだ?っていうことなんですけどね。で、さっき言ったその「IndieTokyo」の林さんの記事によればですね、2006年に企画スタートした頃には、さっき言ったようにウラジミール・ソローキンを脚本として招いて、もうちょっとわりと普通に、この物理学者レフ・ランダウ……この『DAU』っていうのはレフ・ランダウ(Lev Landau)の「DAU」なんですけども、そのレフ・ランダウさんの伝記的な内容だったらしいんですけど、どんどんとその話が膨れ上がっていって。

ついにはその、ウクライナ第二の都市ハリコフというところに、このランダウさんが実際に勤務していた秘密研究所を、まるごと作って。その中で、人々に実際に生活させ、ソビエト連邦時代の全体主義というもの、その中での暮らしというものを、丸ごと再現してみせる、という。まあ先ほどのメールにあった通り、ほとんど現代アート的な試みになっていったわけですね。

実際これ、本当に現代アートでもあって。2019年1月にですね、パリのポンピドゥー・センターで、今回のDAUプロジェクトのお披露目としてやったのは、単体の映画の上映じゃなくて、この試みの全体像をいろんな形で提示するような、インスタレーションという形でやられたわけで。現代アートでもあるんで、それは間違いじゃないんですね。

で、とにかくその、映画のために街を丸ごとを作ってちゃうっていうこの試み。ある意味、映画作家であれば誰もが夢見るであろう、でもなかなか実現をしない。あるいは実際に実現しても、さっきオープニングでもチラッと言ったように、ジャック・タチのやはり狂った名作、1967年の『プレイタイム』のように、金字塔にはなっても、作家自身を破滅させかねない、そういう試みなわけですけど。

本作の場合さらに特異なのは、その中の生活まで、ソ連全体主義時代のそれを生身の人間たちで再現させた、という。で、それを様々な角度、さまざまな人の視点から、映画として切り出していく、という。そしてそれを、複数の作品として出していく、というこの発想。これ自体、やっぱり非常に特異なのは間違いないですよね。

■隠し撮りではなく、特殊な照明と35ミリフィルムで撮影されている
で、これも(番組の)オープニングトークでも言いましたけど。これはでも、しかしですね、リアリティTV的なものを想像される方もいると思うんですね。「生活をさせて、そのいろんな断片を隠しカメラとかで撮って」っていう。

隠しカメラは実際、当時の暮らしをすることを遵守させるために、あったらしいんですけど(笑)。ただ、映像作品としては、そのリアリティTV的なものじゃない、全編が35ミリフィルムで撮られている。で、その35ミリフィルムで、でもなおかつ、自然に長回しとか、わりとパッとカメラを向けて自然に撮ることが可能なように、非常に特殊な照明とかをやっている。これ、詳しくはパンフを読んでください。めちゃめちゃ凝った照明とかをやって、要はそういう状況を撮ったりしてるわけで。要するに、隠し撮りとかじゃないわけです。

当事者たちの合意に基づいて、しかし即興の要素が全面的に取り入れられた撮影が、断続的に重ねられていった、ということ。で、これは後ほど、どういうことなのかも言いますけども、特に今回の『DAU. ナターシャ』におけるその性的暴行シーンが、あまりにも本当らしく、リアルに描かれて……非常に不快に描かれているため、この撮影方法そのものが、要するに素人を合意なく追い込んで撮ったものじゃないか、みたいな諸々の非難を集めたりも当初はしたんだけども、という。

これもオープニングトークでちょっと言いましたけど、それに対する当の主演俳優ナターリヤ・ベレジナヤさんをはじめ、このキャスト……概ねはオーディションで選ばれた演技未経験者たちなんですけど。とにかくそのナターリアさんご自身をはじめとする作り手側がね、さっき言ったそのヘアメイク担当からいつしか共同監督になっていたエカテリーナ・エルテリさんとか、その方々の反論が、「ちゃんと合意を得ているし、トラウマとか全然受けていないし! ちゃんと私の言うことを聞いてくださいよ!」っていうような反論をしているという。

まあ、このあたりは本当にパンフレットにも詳しく、この経緯が……やっぱりその配給するにあたって、日本のトランスフォーマーさんも、そこはすごく気をつけられてというか、実際にどういう風に撮られているのかっていうのをちゃんと検証して、配給もされてますし。パンフレットにも載っているし、さっき言った「IndieTokyo」の林さんの記事でも、非常に詳しく書かれているので。これ、気になる方、「でも実際はどうなんだ?」っていう方は、ちょっとそのへんをちゃんと読んでいただければと思います。まあ、型破りは型破りですけどね。

■700時間の映像素材で作られた他の作品はdau.comで公開中
で、とにかくその40ヶ月に及ぶ、その本物の研究施設での生活と、たまに撮影。生活と、たまに撮影、みたいな……ただ、ちなみに主演のナターリアさんとかは、毎日家からの通いで行っていた、ってことなんで。別にみんな、あそこに軟禁状態で閉じ込められていたわけじゃないらしいんですけど。まあ、その40ヶ月に及ぶ生活を経てできた、35ミリフィルム700時間分の映像素材。で、途中では、あまりにもその監督の自由すぎる製作姿勢に、たとえば最初はロシア文科省が助成金を出していたんだけど、もうそれも打ち切って。最終的には「ポルノまがいのプロパガンダ映画だ」っていう風に断じて、ロシア国内での上映を禁止にしたりとか、いろんなすったもんだも、案の定、ありつつ。

監督自身もですね、撮影が終わって一旦、所在不明になって。「何があったんだ?」って、これは要するに、ロンドンでポストプロダクションを……要するに、700時間の素材から、『DAU』の各作品を編集して仕上げる、というところに入っていたという。いちいちお騒がせ、という感じなんですけど。それで、第79回ベルリン映画祭……ここでも上映時にですね、その「ベルリンの壁を上映会場周囲に再現する」っていうので、揉めに揉めた挙げ句、却下されたり。なかなかのお騒がせがまたあった結果、この第一弾の『ナターシャ』が、銀熊賞を取った、という。

で、実はこの『DAU. ナターシャ』ともう1個、『DAU. Degeneration』という、こっちは6時間超えの第二弾も、ベルリンですでに披露をされているんですが。僕は現時点ではこの『DAU. Degeneration』は見れていないんだけど、いろんな記事を読む限り、少なくともラストの展開は、後ほど言います『DAU. New Man』というタイトルが付いているエピソード、チャプターと同じで。要はたぶんこの『DAU. Degeneration』は、おそらくだけど、わりと『ナターシャ』以外の(エピソードの)総集編的な編集をしてる作品で、だから6時間もあるんじゃないのかな、とか。ちょっとこれ、わかんないですけど。見てないので、あれですけど。

少なくとも終わりの展開は、その『DAU. New Man』という別のエピソードと同じ、という。で、なぜ僕がその『ナターシャ』以外のチャプターを既に見ているかというと、要はこのDAUプロジェクト、コロナウイルスの世界的な拡大に伴ってですね、当初は各チャプターを順次、各国の映画祭に出品して……という計画だったんだけど、それが実行できなくなったため、「dau.com」というサイトを開設して──これ、どなたでもアクセスができます──「dau.com」を開設して、そこで各チャプターを配信で、現状でもなんと既に7本、見られるようになってるし、追ってさらに5本、のアナウンスもされているという。

■1952年から1968年までの出来事で作られたDAUプロジェクト諸作の「ユニバース」感
で、僕はこのタイミングでその7本、ペイパービュー、英語字幕で見ました。で、まずわかるのがですね、今回の『ナターシャ』は、1952年の話だけど、他の話は1953年、たとえばスターリン死去直後であるとか、1956年であるとか、さっき言った『New Man』っていうのは1968年で、たぶんこれが時系列で言うと一番最後の話なんですけど、とにかく1952年から1968年の間の出来事が、しかもこれは見るべき順番みたいなのが別に示されない、要するにランダムに見ていいという、そういうシリーズで。なおかつ、ある作品で出てきた人のその後が、別の作品でちらりと示されたり、同じ人物でも明らかに年齢や立場が異なっていたりして。そういう「ユニバース」感があったりする。

で、それを何本も見ているうちに、やっぱり総合的に、その当時のソ連の空気感、全体像っていうのが浮かび上がってくる、みたいな。そういう作品ではあったりするわけです。で、それらが特に、今回の『ナターシャ』と並べて見ると、一番分かりやすく、ある種ショッキングに際だって見えるのが、さっきから何度も言ってる『New Man』というエピソード。まず1本見るなら、これがオススメです。ちなみにですね、この中に出てくる、いわゆる「新人類創造計画」みたいな……『ロッキー4』のドラゴ的なものだと思ってください。そこに出てくる、マクシムという青年がいるんですけども。

これはロシアでは有名な極右活動家の人が演じていて、これ、獄中ですでにもう亡くなられている、というのがあったりするんですけどね。まあとにかく、今回のその『ナターシャ』に出てくるオーリャさんっていうね、あの若い女性であるとか、あと、本当に元KGBで尋問のプロだったアジッポさんっていうね……先ほどの(番組)オープニングでも言っていましたけども、このアジッポさん、のちにね、本作の撮影後にアムネスティの委員になったという、『アクト・オブ・キリング』なキャリアも歩みつつ、2017年に亡くなっているという。この2人とかも、『New Man』に出てくるので。これ、ぜひちょっとどういう風になっているのか、確認していただきたいんですけど。

■DAUプロジェクトのツカミとしても納得の1本目『ナターシャ』
ということで最後、ちょっと駆け足になりますが、残りの時間で本作、一作目の『DAU.ナターシャ』はどうなのか?ってことなんですけど。さっき言ったような特殊極まりない撮影セッティングもあって、通常の劇映画に比べると、やっぱりかなりとりとめもない、しかしそれゆえに現実そのものを覗き見ているようでもある会話シーンが、大半を占めるわけです。非常にミニマルな会話劇なんですね。あまりにもとりとめもないので、正直これを退屈と感じる人がいっぱいいても、おかしくないとは思います。

ただしですね、そこから浮かび上がるものもやっぱりちゃんとあってですね。たとえば、主人公ナターシャと、その彼女の若い後輩であるウエイトレス・オーリャの、お互いに牽制しあい、時に激しく罵り合いながらも、同時に気の置けない会話が交わせる同性の友人として、なんかこう特別な親しみもやはり感じてもいる、というような、複雑にしてやはりリアルな人間関係の機微っていうのが、だんだんそこから浮かび上がってくる。あの「床拭け!」「帰る!」「床拭け!」「帰る!」のあのバトルとか(笑)、笑っちゃうんだけど。

あとですね、またこれは現実の、さっき言った物理学者、世界的な物理学者ですね、レフ・ランダウが実際にそうだったように……その、複数の女性と同時に関係を持つ、いわゆる自由恋愛主義者であることを、持論として公言してたんですね、レフ・ランダウが。それと関連して、この『DAU』シリーズは、非常に生々しい、あるいは奔放な性のあり方……でもその当時のソ連の社会規範からすると、それは抑圧されてしまうような性のあり方っていうのが、常にひとつ、メインテーマとして置かれている。つまり、社会体制と、性という個人(の領域)、というのが、常に対比として置かれるようになっている。

本作においてそれはですね、まずやはりその、フランス人の科学者リュックと、その主人公ナターシャの、酒の勢いも多分に借りた、非常に赤裸々そのものな、セックスシーン……ほとんどAV的と言ってもいいぐらい、えげつないセックスシーン(として現れる)。そしてその、性という最もプライベートで、センシティブな領域がですね……たとえばね、僕はなかなかこれは痛ましいなと思ったのは、その翌日かな?の食堂で、文字通り完全に何事もなかったかのように、そのリュックというフランス人の博士と、やっぱり「客と従業員」の関係になったまま、通り過ぎていってしまう1日。

で、ナターシャが絶望して廊下で泣いている、っていうこの残酷な……で、そういう日に限ってまたナターシャは、その男たちの、ルッキズムであるとか、エイジズム的な視線にさらされたりとかする、という。非常に現実にもありうる、残酷な視点もあったり。性と社会っていうことに関してね。そしてもちろん、その第三幕目。多くの観客にすさまじいショックとストレスを与えるであろう、尋問シーンでの……人間の尊厳を踏みにじる、というね、この場面。その「性」というファクターが、反転して繋がっていくわけですね、性的暴行のシーンに。

ただし本作の主人公ナターシャを演じるナターリヤ・ベレジナヤさん。演技のプロではない、普通の社会人にしてお母さんでもあるそうなんですが。これ、パンフレットで柳下毅一郎さんも書いているように、素人とは思えないレベルの、しかしプロではできない領域の、驚くべき演技を現出させている。で、このためにこそ、まずはあの巨大な演出装置が必要だったし、実際に有効だったじゃないか、っていう風にも言えると思うし。実際にですね、散々な目にあって帰途につく、彼女のその背後に、ぼんやりと広がっている光景、空間、世界こそ、実は彼女の苦悩の源なのだ、という。

つまり、いろんな目にあってきた、そこまでは小さい話なんだけど、彼女の後ろにあるもの……後ろには警官と犬がいて、巨大な空間が広がっている。彼女の人生を押しつぶしている本当の本質はこれ(巨大で抑圧的な社会体制)なんだ、というのを、背景として見せる……というのが、最後の方のショットで、ちゃんと出てきたりするわけです。そういう作りなわけです。スペクタクルではなく、「……という背景」として出す、という。それと同時にですね、これは……その中で、いろんなひどい目にあうんですね。嫌な目にもあうこの彼女、主人公ナターシャが、しかしどれほど極限的な、屈辱的な状況であっても、自らの尊厳を守るべく、常に胸を張ろうとはしている。

で、時折、やっぱりでも心が折れかけてしまう瞬間、その切実さも込みで、彼女がそれでも、その自らの尊厳を守ろうとする……たとえば、「ええっ? 俺と仲良くするか?」「仲良くできませんよ、こんな状況じゃ……」ってちゃんと言う、みたいなのとかね。常になにか胸を張ろうとしてる、という姿が、1人の女性の立っている姿として、感動的でもある。

そんな感じで、個人と、社会のその支配システム。人としての尊厳と、統治の論理。あるいはセックスと暴力、などなどですね。対立するさまざまな世界のその断層を、生きた人生ごと、丸ごと出して見せる、というその構造。実はやはりこの『ナターシャ』が……僕、いろいろと7つ、見てみた中では、やっぱりこの一作目の『ナターシャ』が、実は一番わかりやすく構造として示しているし。ショッキングさというツカミも含めて、やっぱりこれ、第一弾なのも納得だな、というような一作目でございました。

■現在の日本社会も無縁ではない、見ておくべき一本
決してストレートに「面白い」作品というような言い方はできませんけど。まずはこの、映画史に残る異常なプロジェクトの一端を目撃する、という意味でもそうですし、もちろん現在の我々の社会とも無縁ではない……たとえばそうですね、日本で言えばかつての特高警察がそうであったりとか、あるいは警察の苛烈な取り調べが問題にもなりました。あるいは今の、日本の入管での非人道的な扱いも同じようなものかもしれない。

全く無縁ではない、その権力の暴力的な構造というものに向き合う意味でもですね、これはやはりちょっと、見ておかなきゃいけない1本なのは間違いないんじゃないでしょうか。ぜひぜひ映画館でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『野球少女』です)

宇多丸、『DAU.ナターシャ』を語る!【映画評書き起こし】

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆3月5日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210305180000

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