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2021年7月11日(日)放送
石井幹子さん(part 2)
1938年東京都生まれ。日本を代表する照明デザイナー。

フィンランドとドイツの照明設計事務所に勤務後、1968年に独立。1970年の大阪万博、つくば科学万博、レインボーブリッジなど、日本はもちろん世界各地の都市空間のライトアップを手がけます。2000年に紫綬褒章を受章、2019年には文化功労者にも選ばれています。
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出水:東京の駒込の生まれだそうですね。どんなおうちだったんですか?

石井:小さいころはお姫様みたいな暮らしでしたね。祖父が財閥の重鎮でしたから、2000坪ぐらいの屋敷で、芝生のお庭の向こうに池があるような家でしたね。でもそういう生活も戦争でできなくなって。父が出征して以来寂しい暮らしになりました。子供心に大変なことになったと思ったんです。

JK:でもお父様が日本代表サッカーのキャプテンだったんでしょう? 1936年。ベルリンオリンピックでスウェーデン相手に勝ったっていう!

石井:でもあの当時のサッカーは、東大と早稲田と慶応の学生しかやってなかった。なにしろサッカーがどういうものかわからなかったから、ドイツ語や英語の本を調べて、こういうもんだろうという感じでやってたんですよ。

せいぜい試合といってもアジアの国々としかやったことがない。ベルリンオリンピックに行くにも、シベリア鉄道を通って何日もかけていったんですよ。それで行ってみたら、ずいぶんルールが違ってた(笑)

JK:そうなんですか?!

石井:それまでは、キーパーは体当たりでぽかぽか殴ったみたいですよ(笑)ところがそれが大反則だっていうんで、「これは大変だ」ってみんなで考えて。だから「考えるサッカー」だったっていう話ですよ(笑)

JK:私スウェーデン大使と仲良くて、サッカーの話になると怒るんですよ。「日本に負けた」っていうのは、スウェーデン人は絶対忘れないって。絶対勝つはずだったのにって。

石井:だから油断もあったんでしょうね。3-2か何かで勝ったんですよね。それはもう死にものぐるいで(^^)

出水:石井さんは最初工業デザイナーとしてお仕事を始めたそうですが、きっかけは何だったんでしょう?

石井:父が出征して、終戦後シベリアに抑制されて亡くなりましてね。それを知ったのは何年も後だったんですが・・・成長していくうちに、自分も手に職つけて仕事しないと、と子供ながらに思いました。何になったらいいかな、というときに、ちょうどそのころ工業デザインの勃興期みたいな時期でしたから。絵をかくのも好きだったし、むかし発明家になりたいと思っていたから、私には合ってるんじゃないかなあって、それで工業デザインの道に進みました。


大プロジェクトのきっかけは一通の電報~石井幹子

石井:それで東京藝大に進みまして。当時いっぱいいろんなデザインをさせてもらったんです。渡辺力さんのデザイン事務所に入って、たまたま照明器具をデザインすることがあって。自分がデザインした器具に光がとおった時にびっくりして! 光があって初めて物の色や形がわかるんだって驚いたんです。それで照明デザインをもっと勉強したいと思っていたんですが、当時は北欧デザインがものすごく流行っていたんです。

JK:工業デザインといえば北欧ですよね。

石井:というかもともとはドイツなんです、バウハウスに代表されるようなね。それで北欧できれいな照明器具がいっぱいあって、デザイン的にはフィンランドが賞もとったりしてものすごく人気だったんです。照明器具のメーカーになんとか行きたいと思ってね。でも当時は奨学金の制度がなかったし、なにしろドルの持ち出し制限があって、1人500ドルしか持ち出せなかったから、向こうでお金を稼ぎながら勉強しなきゃと思ったんです。本当に運がよくて、アシスタントデザインとして雇っていただいて。

JK:あちらは冬が長いですからね。

石井:冬が長いから光が大事なんですね。それで本当にどこのおうちもきれいな照明器具を使っていて。真冬ですと10時半ぐらいから太陽が昇って、2時過ぎには太陽が沈んじゃいますからね。反対に夏はすばらしいですよ! 日が沈まないから、日本人はみんな寝不足になっちゃう(笑)

JK:白夜は素晴らしいですよね!

石井:自然が本当に素晴らしい。非常に親日的な人が多くて、みなさん親切で。それで照明デザインの基本的なことはそこで学びました。それでたまたまドイツの照明器具のメーカーの素晴らしい作品に出会って、そっちに移籍しまして。いいお給料払ってくれて。

JK:ドイツ語なんて難しいでしょう?

石井:フィンランドは、私スウェーデン語をちょっと習ってから行ったので、あんまり問題がなかったんですけど、ドイツには何にも知らないで言ったので、最初3か月はドイツ語になれることが一番でしたね。でもドイツの人は絶対遅刻はしないし、きちっとしてるし、ものすごく働くし。でもその当時ドイツは働いている女性の人はほとんどいなかった。フィンランドはほとんどの女性が働いてました。

50年前のフィンランドのほうが女性進出も進んでましたね。

JK:ご自分で「これは!」というマサカは?

石井:サウジアラビアの迎賓館のお仕事をしたきっかけというのが、ある日アメリカから長い電報が来て「重要なプロジェクトがあるからすぐアメリカに来い」って。ミノル・ヤマサキさんという日系の設計者の事務所からだったんですが、「10日以内にデトロイトの事務所に来るように」って言われたんです。

JK:ちょっと不安ですね、突然。

石井:でもこれは行くしかない、と思っていきました。シカゴで乗り継いで、デトロイトまで行って、夜2時ごろにチェックインして、先方が翌8時に迎えに来てくれました。行ったらミノル・ヤマサキさんが直接出てきてくだすって。「ヨーロッパでも照明デザイナーを探したけどぴったりする人がいなかった、あなたの作品をたまたま日本の建築雑誌で見て、あなたにやってもらいたいから会合に参加してほしい」って言われて。隣が会議室になってて、そこに30人ぐらいの人が待ってて! 「この人が照明デザイナーです」って紹介されて。それでサウジアラビアの迎賓館の仕事を任されました。

JK:出発が衝撃的ですね。

石井:そこに1週間ぐらい滞在しまして、帰りは抱えきれないぐらいの図面や模型を持たされて(笑) 全部手持ちで持って帰りました。

それで3か月以内にデザイン案を出せって・・・だから、マサカが1通の電報です。

出水:それで行ったっていう勇気も含め、ですよね!

石井:でも向こうに行ったら、ミノル・ヤマサキ先生も、重鎮のスタッフも「こんな若い女性が来るとは思わなかった」って(笑)当時34~5でしたから、ビックリしたって。その女の子に「これ全部やれ」っていうのも度胸があるというかね。

出水:最近のお仕事ですと、4月にオープンしたみなとみらい地区と桜木町駅を結ぶ「横浜エアキャビン」の演出デザインと監修を行ったんですよね。

JK:かわいいですね! ロープウェイがずっと動いてる。乗りたいわ!

石井:ぜひ夜乗っていただきたいんです。中に全く照明がないんです。暗いんです。本当足元から天井まで透明なもんですから、空中遊泳しているみたいで素敵ですよ! おすすめです。

JK:シンガポールのロープウェイに乗った時、若いお二人がディナーしてたの! どうやってやったのかわからないけど、きちっとテーブルクロスもして。おしゃれだった。

石井:いいですね! でも長く乗るんでしょう? テーブルまで用意してたってことは。

JK:一回りすると、次のお食事がくるんですよ。

石井:観覧車なんかでそういうのやったら素敵でしょうね!

出水:この後やってみたいことってありますか?

石井:やってみたいことまだまだありますね、大きな空間とか。日本にはまだまだいっぱいあると思うんです。いま姫路城をやってまして、今までも照明はあったんですが、白いお城を美しい白い光を当ててあげたい。それで新しい光を作るところから始めています。

JK:姫路城の立地がいいですよね、駅からバーンっと見える。

石井:日本国内にあるすばらしい文化財をもっと光で当てていきたい。電気って地産地消がいいんですね。送っていく間にロスをする。だからソーラーなり風力なりバイオマスなり、その場で作ったエネルギーで光を当てていくっていうことをやっていきたい。それからチュニジアの橋もやってるんです。カルタゴがあったところですから、ローマ時代の遺跡が野ざらしで転がってるんです。それも楽しみです。

JK:ダイナミックだけど大きな夢ですね!

大プロジェクトのきっかけは一通の電報~石井幹子

=OA楽曲=
M.Nice Work If You Can Get It/Jeri Southern

◆7月11日放送分より 番組名:「コシノジュンコ MASACA」
◆https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210711170000

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