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10月7日(金)放送後記

「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、9月23日から劇場公開されているこの作品、『秘密の森の、その向こう』。

(曲が流れる)

『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマが、監督・脚本を手がけた人間ドラマ……あと今回は、衣装もやってますね。8歳の少女ネリーは、亡くなった祖母の家を片付けるために、森の中の一軒家を訪ねる。ある日、森を散策していたネリーは、マリオンという名前の少女と出会うが、彼女にはある秘密があった……これ、ちなみにもうポスターのコピーにそのこと(ある秘密)が書いてあるんで(笑)、後ほど評の途中では普通に言いますけど。別にそこまで秘密じゃないと思うんで。はい。あとで言います。

ネリーとマリオンを演じるのは、映画初出演となるジョセフィーヌ&ガブリエル・サンス姉妹。その他、ネリーの母を『女の一生』などニナ・ミュリスが演じた、ということでございます。あと、割と「セリーヌ・シアマ組」と言いましょうかね、いま後ろで流れている音楽のジャン=バティスト・デ・ラウビエさんとか、あと、撮影のクレール・マトンさんですね。いつもこの撮影がいいんだよな、クレール・マトンさん……おなじみセリーヌ・シアマ組、という感じじゃないでしょうか。

ということで、この『秘密の森の、その向こう』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「普通」。まあでも、都内で2館しかやってない中でね、多い方じゃないですかね。賛否の比率は、褒めの人が8割以上。主な褒める意見は、「SF的な設定や理屈を具体的に説明しないところがよかった」「身近な人を亡くした喪失感や母への思いなど、子供の見た世界から優しく描き出している」「セリーヌ・シアマ監督、やはりすごかった」などがございました。

一方、否定的な意見は、「話に起伏がなく、眠くなってしまった」「悪くはないが、前作『燃ゆる女の肖像』ほどのインパクトはない」などございました。

「構造的にも上映時間の短さからも、人間が睡眠中に見る夢を体感的に捉えた映画に思えます」

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「青ペン貸して」さん。「本当に良いものを観た、心の底からそう思える映画でした。特に素晴らしいと感じたのは、母マリオンや主人公ネリーのいる内側(つまり、大人や生者)の世界と、8歳のマリオンや祖母のいる外側(つまり、子どもや死者)の世界が一つの森の中で地続きになっているという点です。

いわゆる浦島太郎型(行って帰る型)の物語とは違い、ネリーは地続きの内と外を何度も行き来します。そしてその往復を繰り返すなかで、生と死や大人と子どもの間にある連続性に気づき、祖母を亡くした喪失感や逃げ出した母の弱さを受け入れていくのです。

善意から悪意からとに関わらず、様々な物事が出来合いの鋳型に押し込められていく現代社会において、ネリーとマリオンが母と子という役割を超えて抱きしめ合うラストシーンには、強く心打たれるものがありました。セリーヌ・シアマ監督、恐るべしです」と。簡潔にまとめていただいて、ありがとうございます。

あとですね、ちょっと長いんで、全部は読めないんですけど。「Luna」さんからいただいたのはですね、「映画全体の印象としては、幼少期の主人公ネリーの現実と幻想が混在した不思議な体験を、みずみずしく流れるような作風で描いた小品、佳作ではありました。ここから、私の個人的な体験に基づく感想となりますが、昨年、私の母が他界しまして、葬儀も終わり数日が経ったある夜、夢に母親が現れました」ということで。夢の中でお母様と会ったという体験と本作を重ねて書いていただいてですね。

「……そう考えると本作は、構造的にも上映時間の短さからも、人間が睡眠中に見る夢を体感的に捉えた映画に思えます」。これ、まさしく私も評の中で言いますけど。私もそれ、すごく思ったんで。他にもこういうことを思ってる人がいると知って、嬉しいあたりでございます。で、そのご自身がお母様との夢を見たんだけども。

ある意味、見たかった夢の続きを見せてくれたという意味で、「……私に限らず、何かしら喪失感を抱える人にとって、あのラストカットは救いであり、感情を揺さぶるものではないでしょうか? 私は上映後の館内で人目をはばからず号泣してしまい、大変恥ずかしい思いをしてしまいました。観る人にとっては風変わりな佳作かもしれませんが、私にとって非常にパーソナルな一本として、いつまでも記憶に残る作品となりました」というLunaさんのメールでした。

あとですね、ダメだったという方もご紹介しますね。「たくや・かんだ」さん。「『秘密の森の、その向こう』、見てきました」。この方も(作中のある設定に関して)書いちゃってるんですが、途中で言うから一応、伏せておこうかな? ある展開。「……特殊な設定なのですが、そのことに対する葛藤はほとんど描かれない。その点を強調しないことで、ネリーとマリオンの関係にのみフォーカスしており、時間的にも凝縮されているわけですが、どうしても違和感が残りました。

美しい映像と主人公を演じる役者たちの素晴らしさは文句がないのですが、緊張感や不穏さという点では「燃ゆる女の肖像」には及ばず(というか、テーマ的にもそういう作品につくっておらず)、なんかスラスラあまりにも静かに進行していってしまった感じです。冒頭の運転のシーンやラストなど唸るシーンもあったのですが、どうしても『燃ゆる女の肖像』ほどのインパクトはありませんでした」という。ちょっと前作と比べてしまって……というようなご意見でございます。

ということで皆さん、ありがとうございます。

私も『秘密の森の、その向こう』、私もBunkamura ル・シネマで二回、見てまいりました。

近年ますます注目を集めるセリーヌ・シアマ監督の最新作

セリーヌ・シアマ脚本・監督。そして本作はですね、二作前の『ガールフッド』、2014年の作品に続いて、衣装もセリーヌ・シアマさんが手掛けている最新作です。衣装ね、そのネリーとマリオンという二人の女の子がいるわけですけど、ネリーは青、マリオンは赤っていうね、その対比となっていて。本日、私もそれを若干意識した服を着てきている、ということでございます。

一作前の『燃ゆる女の肖像』という2019年の作品を、このコーナーでは2020年12月18日に扱って、大絶賛しました。例によってみやーんさんによる公式書き起こしがアーカイブされてますので、ぜひ読んでいただきたいです。あと、『文春エンタ!』の「ガチンコシネマチャート」という企画でも、その年度で唯一の満点評価をした一作でもございます。

実際にですね、いま観直してもやっぱり、たしかに『燃ゆる女の肖像』は、とてつもなく緻密に、周到に、そして切実に構築された、あらゆる意味ですさまじい完成度の作品だと思いますが。やはりその『燃ゆる女の肖像』の圧倒的な出来、というので、日本でもこのセリーヌ・シアマという作り手に対する注目度が飛躍的に上がった、ということなのでしょう。2020年12月に同作を評した段階ではですね、2007年のデビュー作『水の中のつぼみ』と、脚本を手がけた2016年のストップモーションアニメーション『ぼくの名前はズッキーニ』。これも素晴らしい作品でしたが、これぐらいしかセリーヌ・シアマさんが関わった過去作というのが、日本では一般劇場公開されてなかったんですけれども。

『燃ゆる女の肖像』の好評を受けて、ということなんですね。

2011年の『トムボーイ』という監督二作目が、前にフランス映画祭とかではやってたみたいですが、一般劇場公開されたりとか。その次の2014年、『ガールフッド』という作品も、当番組でもおなじみGucchi's Free Schoolがたぶん、上映とかしたりしたのかな? あと、僕はWOWOWで放映したのを観ました。とか、あとはやはり脚本で参加した、ジャック・オーディアールの『パリ13区』という、グラフィックノベルの映画化。その脚本とかですね。

とにかくセリーヌ・シアマさんのフィルモグラフィー、ようやくコンプリートできる、しやすいような状況になってきた、って感じですね。それによってより、その彼女の作家性のようなもの……前はだから、実質、実写映画は残り一本しか観れない状態で評してたわけですけど、(その他の過去作も)並べて観るとね、「ああ、すげえ明確に(作家性が)あるじゃん!」っていうのが、よりはっきりと見えてきたりするようにもなりましたね。

でですね、そのセリーヌ・シアマの注目が高まってることの証明として、極めつけ。『ユリイカ』2022年10月号。ついにドスン!とセリーヌ・シアマ特集号。ほぼ丸々一冊を使ってやっているという。これですね、本当に読みごたえがある記事が満載で。児玉美月さんによるセリーヌ・シアマ・インタビューをはじめとしてですね、たとえば「ケア」というキーワードから今回の『秘密の森の、その向こう』を読み解いた、関根麻里恵さんの論考とか。

あと、食事とか味というか、「口周り」というか、そういうところから読み解く久保豊さんの文とか。とにかくものすごく勉強になる論考とか文章が満載で。本当に一冊丸ごと、めちゃくちゃ読みごたえがある内容なので、セリーヌ・シアマに注目している人には本当に、おすすめでございます。

とにかくですね、特にやはりフェミニズム的視点から、映画というものの語り口を文字通り「見直して」みせるようなですね、鋭利な作家として、セリーヌ・シアマ、非常に注目も集めているし。またそれに値する作家だということは、間違いないと思います。

原題『Petite maman(小さなママ)』の意味するところは?

ということで、2021年の最新作『秘密の森の、その向こう』なわけですけど。冒頭からしてですね、まずやはり「この監督、只者じゃないな!」感がみなぎっておりまして。ちょっと謎めいたところも含めて、後ほど語るところも含めて、冒頭の部分の話をしますけど。

まずね、柔らかなランプの明かりの下、老女がボールペンを持っていて。何をしてるのかな?って思ったら、少女とクロスワードパズルを解いているわけです。で、当然「おばあさんと孫かな?」と思ってると、その少女の方がですね、「さようなら」と言って、てくてく部屋の外に出ていって。で、どうやらこれは病院だったらしい。その廊下から隣の部屋にいる、また別の老女たちに、一人また一人と、「さよなら」「さよなら」と少女が声をかけていく。この、横移動ショットというのがセリーヌ・シアマ、お得意なんですけども。

で、最後のもう一個ある部屋にたどり着く前にですね、そこから、机のようなものを運び出す男性の姿。これ、ピントは合ってないんですけど、ぼんやりと見える。で、部屋の中にカメラがグッと入っていくと、ガランとしていて、女性が壁の飾り付けを取り外そうとしているところ。ベッドには杖がポンと置かれている。つまり、部屋の主はどうやら亡くなったばかり。先ほどの老女たちと合わせて考えれば、おそらくこの、壁の飾り付けを取っている女性の母親、そして少女の祖母が亡くなった、ということかな?と。そして、後にこの、先ほど机を運んでいた男性は、この家族の父親だ、ということがわかったりする。

「となると、最初に映った老女はネリーのおばあさんなのかと思ったけども、違うのかな?」と思うんだけど……「いやでも、ひょっとしたら?」と思わせる仕掛けがあったりするというかね。これ、後ほど言いますけどね。

で、おそらくはその祖母の遺品である杖を「もらっていい?」と言う少女と……「いいわよ」と答えるその若い母親の、窓の外をボーッと見つめる、いかにも孤独そうな背中。そこにタイトル『Petite maman』っていうのが出るわけですね。まあ「小さなママ」っていう。それはもちろん、本作のメインとなるある展開……ここはもうですね、宣伝とかでも全然出してるところで。ポスターのコピーがね、「それは、8歳のママだった」っていう風に言ってますんでね(笑)。そういうことなんです。主人公ネリーが森の中で出会うことになる、同じく8歳の頃の母親マリオンのことを、一義的には指しているわけですが(※宇多丸補足:放送時は言い忘れてしまってましたが、森の中で二人が初めて出会うこのシーン、マリオンの金髪が揺れる後頭部と背中をネリーが好奇心と好意を持って見つめている主観ショットが、やはり『燃ゆる女の肖像』序盤を想起させたりもしましたね。また、長い木を二人で運ぶにあたって、ネリーが途中でそのほうが楽だと気づいたのか端っこに持ち替えるんですけど、これがまたとてつもない自然さを醸していて、いいディテール!)。

先ほど言った『ユリイカ』の関根麻里恵さんの論考が指摘している通り……これが本当にすごい論考だったんですけど。「Petite」っていうのは、「小さい」の他に「年齢が若い」というような意味もある。で、劇中で次第に明らかになっていく、この娘ネリーと母マリオンの立場。たとえばネリーは、子供ながらにして、その母というか、親の心を気遣うケアラーであり……要は母的な役割を、図らずも、幼いながらに背負っている子供であり。一方マリオンというのは、若くしてネリーを産んだ……「若い母」「若いお母さん」っていう風にね、途中のセリフが出てくるんですけど。さっき私も、そういう表現をしてしまいましたけど。どうやら周囲から「若くして産んだお母さん」「若いお母さん」という風に位置づけられてきたことが、後半のある会話から、うっすらと浮かび上がってきたりして。

つまりですね、実はこの両者のことを……ネリーのこともマリオンのことも、『Petite maman(小さいママ・若いママ)』というタイトルは示しているのだ、という、この関根さんの指摘。「なるほど!」っていうね。膝を打つ感じなんですけど。

セリーヌ・シアマ監督が一貫して描き続ける「対等」な関係性の意図とは

また、いま言ったように、このちょっとした会話とか、ちょっとしたディテールから、人物の背景などをさりげなく浮かび上がらせるのが、脚本家としても活躍するセリーヌ・シアマ、本当にうまくてですね。

たとえば、ネリーの父と母は、どうやら舞台となる祖母宅で、母が暮らしていた頃……つまり少女時代からの幼なじみで。で、子供の頃、母は何やら大きな手術をしたらしいこととか。さっき言ったように、若くしてネリーを妊娠・出産したらしいこととか。父側はしかし、なにかいまいちそんなに覚えていないっぽい、この距離感であるとか。などなどが、それこそクロスワードパズルのように、次第に人間関係の全体像とか、そのニュアンスまでを浮かび上がらせていく。言葉が一個一個、あてはまることによって、「ああ、ということはじゃあ……」って。これ、全体にクロスワードパズルっぽいんですね。まあ、むちゃくちゃうまいわけです。やっぱり脚本家としてキャリアを積んでるだけあって。

あとは、そうですね。たとえばこれ、ほとんど序盤ですけども。病院から祖母の家に移動する、その車の中。これ、印象に残ってる方も多いでしょう。先ほども金曜パートナーの山本匠晃さんもおっしゃっていました。運転席の母を、横から捉えたショット。で、後ろから、それまでお菓子を食べていたネリーの手が、ニュッと伸びてきて。お菓子を食べさせたり、ジュースを飲ませたり、最終的にはバックハグしてあげたりして……要は彼女なりにお母さんの精神状態を気遣っているという。でですね、ちょうどこの、2011年の『トムボーイ』。これも子供映画なんですけど、『トムボーイ』もやはり序盤で、こちらは運転席のお父さんの膝の上で、主人公ロールというのが、擬似的に車の運転をさせてもらっている……というところと、対になるような構図ですよね。非常にあれを連想しましたけど。

特に本作の場合は、ケアする側としての娘、逆にケアが必要な一人の人間としての母、という……後に8歳同士という形で具現化する、二人の「対等」な関係性というのが、ここで既に暗示されているようでもあるわけです。

私は前作『燃ゆる女の肖像』評の中で、こんなことを言っています。作中でですね、女性同士の恋愛が描かれているわけです。まあ、レズビアンが描かれているわけですけど。単にそれは、その作り手のセクシュアリティがそうだから、というだけではなくて……まあセリーヌ・シアマさんはたしかに、同性愛であることを公言されてはいますが、それだけではなくて。

要するに、「異性愛」という設定だと、どうしてもそこに既存の社会構造の中の不均衡さ……言っちゃえば性差別構造があるから、不均衡さというものが入ってきてしまって。この作品で本来描きたい、互いの純粋な「視線」=「思い」が、等価なものとして描けない。男と女だと、どうしてもそこに政治性というか、不均衡性が入ってしまう。そういう意味で、やっぱりこの同性という設定はいいんだ、効いているんだ、という。少なくともセリーヌ・シアマさんはそう考えてこの作品を作っている、という風に言いました。

で、実際ですね、後から見たそのセリーヌ・シアマさんの過去作も、やはり共通して、こういうことを描いているんですね。つまりそれは、言わば「期間限定、モラトリアムな舞台設定の中、その中でだけは、外側の世界での社会的枠組み、役割からいっとき解放された主人公たちが、互いに対等な関係性を、ほんの一時であれ築いてゆく」……もうずっと、全部この話だったんですね。実はね。

一作目の『水の中のつぼみ』だけはちょっと違う雰囲気があるけど。『トムボーイ』も『ガールフッド』も『燃ゆる女の肖像』も、そして今作『秘密の森の、その向こう』も、まさにそういう話なんですよね。

「お母さん」も母である前に一人の人間なんだ、という当たり前の事実を描くために

本作の場合、その社会的枠組み、役割とは何か、といえば、それはもちろん、さっきから言っている「母親」ということなんです。

自分と同じ年頃の母親と出会ってしまう、という設定そのものは、過去にもいろんな作品で、あるものはありますよね。あるはある。最近のこのコーナーだと、今年の1月21日に扱った中国映画『こんにちは、私のお母さん』とか、まあまあ完全にそうだとは言える。ただですね、『こんにちは、私のお母さん』は、あれはあれでいい作品なんだけど……若い頃のお母さんと出会うんだけど、特に終盤のある展開によって、結局お母さんの「お母さん性」を、むしろさらに再確認・強化するような着地なので。いいか悪いかは別にして、本作とはむしろベクトルが逆かもしれない、と思っていて。

むしろ近いのはですね、またまたこれで恐縮です、前述の関根麻里恵さんの論考が指摘されていた通り、『私ときどきレッサーパンダ』の、特にクライマックス! これは、かなり近いところを描いている。あと、母と子じゃないですけど、細田守監督の『未来のミライ』はね、結構近い志向、方向ですよね。

要は、お母さんは母である前に一人の人間なんだ、という、当たり前といえば当たり前の事実。しかし、子供である私たち、そしてその、家族であるとか、あるいは社会の枠組みというのはですね、とかくそれを……忘れてなのか何なのか、お母さんとなるともう、「お母さんという属性」としてのみ扱いがち、という現実があるわけです。

これ、私事ですが、最近僕もですね、母の若い頃の話を聞くことが、ものすごく新鮮で。たとえば雑誌『写真』2号に寄せたエッセイと私の祖母の写真、というのも、まあそういう話なんですよね、要するにね。私が知らない、母とかおばあさんになる前の彼女たちの姿、っていう話をしてるわけですけど。

ともあれ本作ではですね、先ほど言ったような、まさしくセリーヌ・シアマ的なですね、いっときの自由区として、本来は娘と母であるネリーとマリオン、8歳同士の出会いと相互理解とが、描かれているわけですね。仮想的なその、対等の空間として描かれていく。

キャスティングされたのは、双子のジョセフィーヌ&ガブリエル・サンス姉妹ってことで。これね、すいません、もう何度も引用して、前述の『ユリイカ』の児玉美月さんによる監督インタビューによれば、双子を配役したのは、「そっくりであることが理由ではなく、まるっきり対等な存在であるということが大きい」「本来であれば、どうしても同じ目線に立てない母と娘の関係性を対等なものとして描きたいと考えた」ためにこのキャスティングをした、と説明していて。まさに! ですよね。前述したような、セリーヌ・シアマ的仮想の対等世界を成り立たせるためのファンタジー設定であり、この見事な配役であった、ということなんですね。

先ほどから言ってるように、監督自ら手がけている衣装。ネリーは青、マリオンは赤というような、この対比みたいなところもですね、監督のまさに意図のまま、ということなんですね。

サンス姉妹の自然な感じに「賭けている」ところがこの映画の方向性だし、魅力の部分でもある。

面白いのはですね、冒頭で亡くなっていた、そのネリーの祖母の若い頃、というのが来るわけです。これもやっぱり、そのネリーの母マリオンの成長した姿と、おそらくは衣装の色合いなどもあって、やはり非常に似て見える。それも面白いし。

ここで、ネリーとその、まだ若い頃の生きている祖母が、クロスワードをやるわけですね……となると、冒頭で映った老女はやはりネリーの祖母で、あそこは映画的に何らかの飛躍があって、その同一時空に見えただけなのかも? という想像も、さかのぼってさせられたりするという。ここも面白いところですよね。

というのも、なんでこんなことを言うかというと……途中でハッとされた方、多いと思いますけど。(後半のある場面で)マリオンとネリーがテーブルに座っている、ように(編集上)見えるわけです。で、ネリー(単体の正面ショット)の後ろにその、古い壁紙みたいなのが見えているわけですね。で、ずっと……要するにその時間軸的には、昔のというかな、8歳のマリオンの家にいるんだ、と思ってこっちは見ていると、ニュッと左側から、思わぬ方向から、父親の手で料理が置かれて。「あれ? 現在だ?」っていうことになるわけですよね。ということで、そこはやはり、明らかな映画的飛躍が、編集でされてるわけですよね。こういう、なんというか「映画的ジャンプ」をね……「ああ、“こういうこと”をする映画なんだ?」(笑)。「こういうことをする映画ってことは、オープニングもそうなんじゃねえか?」っていう風に、さかのぼって思わされる。そして、「ここから先も油断ならないぞ」っていう感じがする。

つまり、どこまでが現実で、どこまでが比喩表現なのか、あるいはどこまでがネリーの主観的な何かなのか、というのが定かでないような、まあ心地よい不安定感っていうのが、本作の……そして、セリーヌ・シアマ作品全体もそうですよね。「ひょっとしたらこれ、主観的な何かなのかもしれない」と思わせるようなことがいっぱいある。これが、セリーヌ・シアマ作品の大きな魅力でもあるように思われます。

で、先ほどのメールとシンクロするところですよ。思えば73分というこの短い上映時間も、いろいろ凝縮して体験したけども、目が覚めてみたら少ししか時間が経ってなかった的な、夢の感覚に近いものを感じさせる、という風に、私も思いました。

他にもですね、基本、距離を感じさせながらも……これもね、『ユリイカ』の論考、すごいね。カットの切り返しで、ここは距離を感じさせるんだけども……というあたり、鋭いものがありましたけども(※宇多丸補足:ここ、極めて言葉足らずなことになってしまってますが、意図としては、前述した久保豊さんの文について言及しているつもり、のところです。放送時は、咄嗟にノートにない情報を付け足そうとして、かえって中途半端なことになってしまった次第。大変失礼いたしました!)。時折、同じ目線でネリーとコミュニケーションを取る……やっぱりね、この映画においては、ちゃんとコミュニケーションを取る人は、ちゃんと目線を同じところに落として話すわけですね。同じ「水平」の目線で話すわけです。同じ目線でネリーとコミュニケーションを取る父親との関係性の、絶妙な好ましさ。あのお父さんはお父さんでね、わかってないところもあるかもしれないけど、わかろうとする時はちゃんと目線を合わせる人でもある、ということ。

あと、やっぱりあの、(後半ネリーに手伝ってもらいつつ)「ヒゲを剃る」ということで。なんというか、男性性というのを……要するに、あのお父さん自身が「(子供の頃は自分の)お父さんが怖かった」って言ってるわけで、なにか強い家父長制的なものに対して、自分は違うものであろうと、何かはしている人ではある、というのを(ヒゲを剃る行為は)示してますよね。

そして何よりこれは、『トムボーイ』という作品でも証明済みですが、子役の生かし方のまあ、圧倒的なうまさ!ですよね。クレープ作りのところとか、もちろんね、本当にあの姉妹の素でしょうし。隅から隅までびっちりね、計算され尽くした『燃ゆる女の肖像』と本作の最大の違いは、やっぱりそのサンス姉妹という、本当の双子の姉妹の自然な振る舞い、佇まいに、ある程度身を任せている……ある程度「賭けている」というのかな、そこから生じる居心地の良さ、風通しの良さ、っていう違いがあると思う。つまり、ギッチギチに計算した『燃ゆる女の肖像』、これが完成度高くてすごいのは間違いないんですけど、それとは違うアプローチというか。その姉妹のキャスティングも含めて、二人のあの自然な感じに賭けているところが、この映画の方向性だし、魅力の部分でもある。違う魅力の部分、っていうことですよね。 

それでいて、前述した通り実はやっぱり、何度も言いますが、クロスワードパズルのごとき周到な計算が……要所要所で「えっ、ということはやっぱり……」とか、「ああ、これはやっぱりあそこの変奏じゃん」とか、「ああ、あそこのあれがここで回収されたじゃん」とか、そういうものが出てくるということで。油断ならない。

端的に言うと、このひらがな三文字。「さ・す・が」!

あとですね、油断ならないといえば、たとえば音の演出とかもね。あの、「現在の家」に帰ってきた時ほど……あれはなんだろう? 空調なんですかね? 「ゴーッ……」っていう音が、ずっとしていて。なんならあっち(現在の家)の方が現実じゃないっぽく見えたりとかね。あとはあの、「ロールプレイ」ですね。二人でなんかミステリー物みたいのを演じてみせる、ロールプレイで生じるまた二重三重の比喩的な面白さであるとか。これ、言い出すと本当にキリがないわけですが。

いろいろあって、セラピー的プロセスを経たこの娘と母の関係。最後にどう変化していくのか? この着地も含めて、やはり見事でございました。『トムボーイ』と並んで、セリーヌ・シアマ……彼女はつまり、フェミニズム的な視点で、っていうようなこともありますけども、『トムボーイ』と並んで、子供映画系譜でもまあ、すごいレベルの傑作をまたまた生んでるな、という感じでございます。端的に言うと、このひらがな三文字です。「さ・す・が」!でございました。

本当に、『ユリイカ』の論考の数々が勉強になりましたんで。こう、面白かったけどピンと来なかったな、という方はこれ、ちょっといくつか論考を読むと、かなりまた入ってくるんじゃないでしょうか。私の本日のこれも、ある種の補助線になれば幸いでございます。セリーヌ・シアマ、まだまだ注目せねばならぬ作家なのは間違いないところかと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

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