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9月8日(金)放送後記
「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。
今週評論した映画は、『オオカミの家』(2023年8月19日公開)です。
宇多丸:ささあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは日本では8月19日から劇場公開されているこの作品、『オオカミの家』。
チリの二人組監督、クリストバル・レオンさんとホアキン・コシーニャさんが、チリに実在したコミューン「コロニア・ディグニダ」に着想を得て製作した、ストップモーション・アニメーション。チリ南部にある集落から脱走し、森の中の一軒家で二匹の子豚と出会った少女マリアが見た、悪夢のような出来事を描く。アリ・アスターが製作総指揮に名を連ねた短編、『骨』と同時上映でございます。今日はこの『骨』と並べて……『骨』も非常に重要な作品なんで、私は時評していきたいと思います。
ということで、この『オオカミの家』と『骨』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。とはいえ、東京でも青山のイメージフォーラムでやっているというだけで、連日満員ですけれども、拡大公開している作品じゃないんで。なので、これはかなり来てる方だと思います。
賛否の比率は、褒める意見が9割以上。非常に評価が高い。主な褒める意見は、「常に流動的に変化するアニメーションがすごい。こんな映像を見たことがない」「作品の背後にある歴史的な事実を調べ、より深く理解できた」「見終わった後、とにかく疲れた」などがございました。一方、否定的な意見は、「映像はすごいがストーリーが難解で意味がわからなかった」などがございました。でもこれもまあ、そういうご意見ももちろん当然というか、はっきり言って、実験映画なんで。まあ「退屈だった」とか「つまらなく感じた」という人がいるのは全然、当然なんで。別にそれ自体は、全然しょうがない作品だと思います。
常に画面上で何かが蠢き変化し続ける、唯一無二の密度(リスナーメール)
ということで、褒めてる方から行きますね。ラジオネーム「レインウォッチャー」さん。がっつり読ませていただきます。
「今年ベスト候補の一本です! 何はなくとも、まずはアニメーションの表現それ自体に圧倒されました。常に画面上のどこかで何かが蠢き、変化し続ける唯一無二の密度が迫ってくる。
主人公のマリアは「私はオオカミじゃない」と子ブタを安心させ、保護し、育てようとします。しかし、彼女の子ブタ、つまりは我が子たちへの接し方には、無意識のうちに支配的な傾向を孕んでいることが徐々にわかってきます。たとえば、中盤にとあるショッキングなイベントが起こった後、マリアはアナとペドロを『一様に美しく作り変える』のです。この思想はいわば全体主義のミニチュアであり、マリアが拒絶したはずの例のコミューンで根付いてしまったものだと考えられます。一度心に根を張った先入観や世界観といった枠組みは、環境が変わっても容易には拭い去れない…ということですね。
今作は確かに個別具体的な史実に基づく作品でありながら、本質としては普遍的にあり得る事象、たとえば虐待の世代間連鎖のようなものにもタッチしているといえるでしょう。それ故に、観る人のバックグラウンドや当日のコンディション等によっては封じていたかった記憶をこじ開けてしまうかもしれず、すこし注意が必要かもしれません」。この劇場用パンフでもね、そういうトラウマがあるような人はちょっと観ない方がいいかも、みたいなことは書かれていたりしましたね。
「外からささやく声はマリアに度々問います、「お前の家は何でできてる?」と。
一方、ちょっとダメだったという方。「たくや・かんだ」さんです。「『オオカミの家』観てきました。映像はたしかにすごいがその衝撃で引き付けられたのは前半部分だけ。ストーリーがあまりに抽象的というか退屈で、しかしその退屈さが幾度となく繰り返される衝撃的な映像技術と密接に関連してそうなのが厄介。「今まで見たことのない作品」というのは確かですが、少なくともわたしはおもしろくはなかったです。
映像も音響もすごいことをやっているのはわかるんですが、あまりに芸術性の高い作品でテーマをしっかり理解するまでには至らずという感じでした。この作品が日本でヒットするってなんか驚異的・・。」っていう。まあね、もちろん局所的ヒットではありますが。はい。
実物大の部屋を使って公開制作されたインスタレーション作品、その圧倒的映像体験!
ということで『オオカミの家』と短編『骨』、私も青山のイメージフォーラムで二回、観てまいりました。とにかく僕が観た回も満席で。本当に、若い方を中心に、めちゃくちゃ入ってる!というね。まあお目が高い、という感じじゃないでしょうかね。
ということで、クリストバル・レオンさんとホアキン・コシーニャさんという、チリのストップモーションアニメーション作家チーム。まず、2007年の短編『Lucia』、2008年の『Luis』というので世界的に評価された。これ、どちらも4分ぐらいの作品で、今はYouTubeなどでも簡単に観られるので、ぜひご覧いただきたいですけれども。これ、観ればすぐわかるようにですね、二本とも完全に、今回日本でようやく公開された2018年の長編『オオカミの家』と直結する、手法と主題の作品ですね。
ざっくり言えば、ある部屋……それも、ミニチュアではなくて、本当の大きさの部屋の中が、ストップモーションアニメーション、コマ撮りによって、絶え間なく変化していく様子を見せる、ということですね。ひと続きのワンカットで……ワンカットって言ってもね、コマ撮りなんで、ある意味全部「カット」しているんだけども(笑)、ひと続きのショットで見せていく、という。
それもですね、その中で、たとえば人型の何かが動くとか、あるいは家具が動くとか、そういう立体物だけではなくてですね、たとえば、壁に元々かかっていた絵の中の何かが動き出して、どんどん外にはみ出てきたりとか。
そんな風に、二次元上の動く画がまた別の三次元的な奥行きを感じさせたりする、っていうのは、たとえばプロジェクションマッピングとかね、そういうものを見た時に我々が感じるあの感覚とも近いものがある、とは言えるかもしれないけど……とにかく、あるひとつの部屋の、あらゆる細部が絶え間なく変化していって、観るものの空間感覚とか、現実把握能力というのかな、現実感みたいなものを失調させていく、みたいな。そういう作品なんですね。
そしてそれは、とある外部からの強い抑圧やトラウマによって病んでしまった、一人の子供の内面そのものを表している、という短編『Lucia』、そして『Luis』、さらに今回の長編『オオカミの家』……まあざっくり言えばそういう、ある種の連作ですね。完全に続いてる三つ、というかね。手法も語っていることも同じ作品と言えます。
あつさえこの『オオカミの家』はですね、その制作プロセスを、チリ国内外の美術館とか様々な展示会場で公開しながら、何年にもわたって作り続けていったという、まあインスタレーション作品でもあるんですね。つまり、まごうことなきアートムービー、芸術作品、実験映画です、っていうことなんですよね。
ということでですね、この後にいろんな背景とかを言っていきますけども、でも、とりあえずは何より、やっぱりその、圧倒的にまがまがしくフレッシュな映像表現そのものっていうものに、まずは理屈抜きでヤラれまくっていただきたい。それを全身で浴びていただきたい、という感じですね。かつて、ヤン・シュヴァンクマイエルとかクエイ兄弟のダークなストップモーションアニメーションというのがね、日本でも、ミニシアターではありますが、ヒットとかしました、人気ありましたけども、そういうのを既に見慣れた人でも、確実に、「こんなの、見たことない!」ってなるはずの、驚異的映像体験となることは間違いない。これ、保証いたします、という感じです。
実は色濃く織り込まれているチリの歴史的・政治的文脈、劇場パンフから学べます!
一方でですね、今回公開された2018年の『オオカミの家』と、それを観て非常に絶賛し、自分の『Beau Is Afraid』という新作にもこのクリストバル・レオンさんとホアキン・コシーニャさんを呼んで、非常に重要なアニメパートを任せたという、アリ・アスター……皆さんご存知『ヘレディタリー』とか『ミッドサマー』のアリ・アスター製作総指揮による、2021年の『骨』という。『オオカミの家』と『骨』、このどちらもですね、現実の、特にやっぱりチリの政治、歴史、事件などを、踏まえて作られている作品でもありまして。
もちろんですね、「◯◯のことがわかってないと△△という作品は理解できないはず」的な物言いを、あんまりマウンティーに振りかざすのもどうかとは思うし……そういう「知識」と、作品を本当に「理解する」ってことは、実は似て非なるものだ、っていう風にも思う。逆に、たとえばね、後ほど言いますが、「ああ、これはコロニア・ディグニダの話なのね」……で、その知識を得たがために、そこで「見切った」気になっちゃって、考えることをやめちゃったりしたら、それは映像を観ていろいろ考えてる人よりも理解は浅く止まる、ってこともありうると私は思うので。一概にその、知識がマスト、みたいな言い方はあんまりしたくないけど。
ただまあとはいえ、ある程度の知識を後からでも入れると、「ああ、なるほど!」となるところ大、な作品なのも確かなので、一応その部分の話をしていきますけど。というのは、逆に言うとその「映像のすごさ」みたいなものは、実際に観てもらう以外に……さっき僕が一生懸命説明しましたけど、あれ以上の説明の仕方はできないので(笑)。ちょっとその背景の方をね、やっぱり多めに説明しますけど。
特にですね、劇場では先に上映される、14分の短編『骨』の方がですね、実はかなりがっつり、チリの政治史というのが関係している、反映されている作品で、ということですね……なんてことを言っていますけど、恥ずかしながら僕もこの、劇場用パンフレットの皆さんの解説を読んで初めて知ったことばっかりだったので。ぶっちゃけ、劇場パンフレット……これ、素晴らしいパンフレットなんで、これを買って読めばいいっていう話ではあるんですけれども(笑)。
まずですね、この『骨』という作品、「2023年にチリで発掘された、1901年に作られたと思しき世界初のストップモーションアニメーション」……っていう「設定」ね。これ、嘘ですよ?っていう設定。いわゆる「ファウンド・フッテージ物」風の設定がされているわけです。それで中では何をしてるか?っていうと、骨から死者を蘇らせる、という内容なんですよね。
で、これはですね、パンフの中にある、この番組にも以前にご出演いただいた土居伸彰さんの解説によればですね、ラディスラフ・スタレヴィッチという最初期のアニメーション作家の人がいます。この人が作った、たとえば1912年の『カメラマンの復讐』という作品とか、1913年の『アリとキリギリス』という作品などがですね、昆虫が動くストップモーションアニメーションなんですけど、あまりにリアルなので、昆虫の死体を使って撮影されたと思われていた、という歴史的逸話を踏まえたものらしいんですね。これ、もうこの時点でね、「さすが土居さん、勉強になる~!」って感じだったりしますし。
『骨』の歴史的人物たちが象徴する、チリの過去と現在、そして未来とは?
さらに同じくパンフ中でですね、ラテンアメリカ映画研究の新谷和輝さんという方の解説によればですね、作中、バラバラの体のパーツがね、ギクシャクと組み合わされて……っていう、もういかにも、ものすごくアリ・アスター作品っぽい(笑)、『ヘレディタリー』とか『ミッドサマー』とかで毎回やってる、アリ・アスターっぽい!っていう感じのかたちで蘇る、二人の男性がいます。
一人は、ディエゴ・ポルタレス。1833年にチリ憲法を制定して、ものすごく中央集権的な、強権的な保守体制をチリに定着させた、歴史的な政治家。もう一人は、ハイメ・グスマンっていう人。だいぶ後の時代の人で、後ほど言う『オオカミの家』の歴史的背景でもある、1970年代から80年代のアウグスト・ピノチェト独裁軍事政権……これ、聞いたことある人、いますね? ピノチェト軍事政権のブレーンとして、1980年版の憲法を起草した学者でもあり、政治家でもあった人で。
この二人を蘇らせる語り手は、コンスタンサ・ノルデンフリーツという女性で。さっき言ったポルタレスの長年の恋人だったんだけども、生前は彼女の希望に反して、結婚もできず、三人の子供も認知されず、全く養育してもらえなかった、というような人。で、劇中ですね、署名が消された後に焼かれる婚姻証明書、っていうのがありますね。そこにある1837年8月31日というのは、さっき言ったノルデンフリーツさんとポルタレスの死後に、その子供たちが、国家によってようやく認知された日付……要するに後付けで「ちゃんとしてますよ」みたいなこと言い出した日付なんですね。で、それらが全てまさしく「白紙に戻される」、という話なんですけども。
これはつまりですね、チリを長年支配してきた、マッチョな、専制的な政治体制というその欺瞞がですね、これまでないがしろにされ、踏みつけにされてきた弱者側によって、明るみに出された後に、刷新される……ということを、おそらくは象徴しているのではないか。折しも本作が制作されていた時期、2019年頃のチリというのは、「社会の爆発」と呼ばれる史上最大級の社会運動の最中で、進歩的な新憲法の制定に向けて、政局がすごく激変していた時代で。そういう時代の機運というのが込められたのがこの、『骨』という作品なんですね、実はね。
ところがですね、これがその後、ガブリエル・ボリッチさんという人が新大統領になって、新憲法草案を出すんだけど、国民投票で大差で否決されちゃって。で、奇しくもこの劇中、フィルムが発掘されたとされる2023年現在は、再び右派が力を握っている、という状態……そんなこんなを全て、私はさっき言ったようにパンフの新谷和輝さんによる解説から、遅まきながら知った次第なんです。ありがとうございます、という感じなんですけども。
いずれにせよ、こういうことですね。だから結局ね、その『骨』の先の現実は、皮肉なことになっていっちゃうんだけども……製作順は逆ながら、『オオカミの家』がこの『骨』の後にこの日本では上映されているわけです。それによって、要は「権力による抑圧を内面化してしまってきた人間は、なかなかそこから脱することができない」という『オオカミの家』の不気味な着地というのが、残念ながら、より普遍的な政治的寓意をもって響くようにもなってしまっている、というような気がしますね。
あと、この『骨』という作品は、『オオカミの家』とかとは違って、基本的にフィックスなんですね。固定画面。で、なおかつ途中に、操り人形のところとか、なんか仮面かぶって踊ってるところとか、「アニメじゃないパート」とかもすごい無造作に入ってきたりして……それがより、なんていうか、「実在するファウンド・フッテージ」感っていうか、実在感。なんていうか、すごい「無造作に作られてる」感、みたいな感じが、余計に気持ちが悪い!みたいな感じで。これはこれで、この二人のチームのね、新境地と言えるんじゃないでしょうかね。
実在した「洗脳と拷問の楽園」
ということでですね、今度はその『オオカミの家』、74分の長編の話をしますけれども。こちらは、既にご存知の方も多い通りですね、チリに実在した「コロニア・ディグニダ」というカルトコミューン。結構最近、1960年代から90年代いっぱい……というか、今も名前を変えて存続もしてるんだけれども、というそのコロニア・ディグニダ。そこから脱出した少女の話で。
コロニア・ディグニダが、いかに暴力的で歪んだ、抑圧的組織であり施設だったか、ということに関して……しかもそれが、時のピノチェト政権など公権力とも癒着することで、どれだけ更に強固なものになってしまっていたか、ということについては、近年、先ほどもね、金曜パートナーの山本匠晃さんにもお話しましたけど、エマ・ワトソン主演の『コロニア』とか、あとは日本では今年公開された『コロニアの子供たち』といった劇映画。あるいは、Netflixで見られるドキュメンタリーシリーズで『コロニア・ディグニダ:チリに隠された洗脳と拷問の楽園』など……日本を含め世界的にも、ようやくそういう作品で知られるようになってきた。まあ、ご覧になった方も多いと思います。
とにかく、パウル・シェーファーという、ナチス残党にして常習的な児童への性的虐待者が、チリに流れ着いて作り上げた、表向き規律正しいキリスト教コミューン……だからこれ、劇場パンフでですね、『怖い絵』シリーズでおなじみの中野京子さんが指摘されているように、壁に書かれているこの窓がですね、最初は十字架で、それがハーケンクロイツに一瞬なって、窓になる。これが、コロニア・ディグニダの本質を図像的に暗示している、っていう。そういうことだったりするわけですね。でも、表面上は規律正しい……「ああさすがドイツ人、非常に規律正しくて、すごく不毛の地だったのをちゃんと耕して、ああ大したもんだ」って、一応チリの人たちも評価してたりしたみたいなんだけども。あと、病院を作ったりとか……そんな風に評価していたんだけども。
内実は、パウル・シェーファーによる恒常的な児童性虐待……これはちょっと時節柄、どうしても私は、ジャニー喜多川氏の性加害っていうのを連想せざるを得ないような感じもありましたけどね。もう本当に、なんていうか組織的な問題としてそれがあった、という。あとはその、拷問とか強制労働、果ては兵器の密造まで、さっき言ったように公権力との癒着の中でやってきた、というとんでもない組織であり施設なわけですけども。
本当にあった! 呪いのストップモーションアニメ
で、『骨』同様、こちらも実在したファウンド・フッテージ……見つかったフィルムというか、元々あった本当のフィルム、というテイを取っている。こちらはなんと、「コロニア・ディグニダがかつて作ったプロパガンダフィルム」という設定。
で、これによって、このファウンド・フッテージ的な設定を持つことによって、これは『骨』もそうなんですけど、ものすごい「アウトサイダーアート感」が出る、というかですね。要は、我々から見れば常軌を逸した人が、しかし本人的にはそれが普通だと思っている、その主観的思考を、客観的フィルター抜きで、そのままの、むき出しの状態で見せられる……「変なことをやろう」とか「怖がらせよう」と思ってやってるわけじゃないのに、やっぱりこれ、変だし怖いです!っていう感じ。意図的じゃないからこそ怖い感じ、というか。あるいは、こちらの世間的、もっといえば「映画的常識」を、これはいつでもはみ出しうるフィルムだ、っていう感じがするあたり。これが全編に満ちているわけですね。この緊張感であり、不安というのが。
それがどのように映像で表現されているか?ということに関しては、もう先ほども何度も言いました、私が頑張って言葉で説明しようとしたのを……実際に観てもらえれば、「ああ、宇多丸、頑張って説明しようとしてたな」って言ってもらえると思うけど(笑)。とはいえ、あれが限界というか、あなた自身の目で逐一目撃して、ギョギョギョッ!となっていただく以外に、「本当に理解」していただく方法はないので。まあ、それは当然のことですし。あと、先ほど山本匠晃さんも指摘していた通り、声、音の演出も、始終やっぱり、油断ならないものがあるし。それ自体が不安にさせるものがあったりする、という見事な演出だったりするんですが。
ひとつ言えるのは、ストップモーションアニメーションという、つまりその、現実には存在しない、本来静止しているコマとコマの間にしか生起しない……つまり(コマの)一個一個は、死んだ時間なんです。一個一個は死んだ時間が、連続させられることによって命を得る、という、映画の中だけに息づく時間と空間。そこに描かれた、ある病んだ内面の追体験、みたいな……つまりそれって、本当の「呪いの映像」なんですよね。「ホントの『呪いの映像』じゃん、これ!」みたいな。私、以前にアリ・アスターを『ヘレディタリー』で評した時に、「世界を本当に呪おうとしている作品だ」って言ってましたけども、これぞ!っていうかね。このフレーズがぴったりくる作品でして。
支配・抑圧を長らく内面化してしまい逃れられない……我々、他人事か?
そして、ここが一番重要です。暴力的支配・抑圧から逃れた少女が、そことは隔絶された安全な密室、まあ心の中の象徴でもあるでしょうけども、そこでなんとか平穏な暮らし、平穏な心というのを築こうとしていくんだけども……やっぱり常にこちらを見ている、おそらくは主人公マリアにとって既に内面化されきってしまった、パウル・シェーファー=コロニアの監視の目。あるいは、絶えずこちらを洗脳してくるかのような、猫なで声。「♪マ~リ~ア~」みたいなあの声は、結局彼女の内側から追い出すことができない。湧き上がってきてしまうし……これ、先ほどのメールにもあった通り、なんなら彼女が保護・養育しているはずの、下の世代のアナとペドロにも、その負の思考形式というのは、無意識に押し付けられ、受け継がれていってしまう(※宇多丸補足:あるいは、飢えや欠乏といった切迫した現実の前に、“守っている”つもりだった対象は、容易に“より強い側”になびいてしまったりもする)。
で、最終的には、力による支配や抑圧っていうのに、のっぴきならなくなった主人公マリアは、結局もう一回……元に戻ってしまう。支配や抑圧を受け入れて、その一部となることが、結局のところ彼女や彼らが平穏を得る唯一の道なのだ、という……まさにコロニア・ディグニダのファシズムプロパガンダ作品を模した本作にふさわしい、恐ろしい着地をしていくわけですね。そこで、ふとですね、最後のセリフ、「お前も世話してやろうか?」って、唐突に観客にこう、問いかけてくるわけですよ。
ここに至って……たとえばですよ、「権力による支配・抑圧を長年内面化してきて、まさしく“寄らば大樹”的思考が身に付いてしまった人々」。って、これは作者はもちろん、チリの国家とか国民というのを想定して、まずは作品を作っているわけだけど……今、僕が読み上げた文って、他人事とは思えませんよね?
日本人……全体主義的なるものとの親和性が、歴史的に見れば、残念ながら明らかに高いと言わざるを得ない我々日本人を含め、パウル・シェーファーと思われるオオカミの誘い、その恐ろしさというものが、やっぱりすごく、普遍的な射程を持ってるわけですよね。要するに、長いものに巻かれちゃって、支配とか抑圧に身を任せちゃって……私も「木」の一部になって(※宇多丸補足:という象徴的表現が劇中終盤に出てくるのです)、そのコロニアに、みんなを迎える側になった方が楽かも?っていう考え方。だって、一党支配的な政治体制が続いて、何度やってもそこに戻っちゃって……改革しようとしても、なんか戻っちゃう。それって、どうでしょうね? 他人事ですかね? 私は最後、こっちに呼びかけられた時に……だからつまり、これはコロニア・ディグニダという特定の歴史的な史実を背景にしているが、僕たちの話でもある、ということに気づき。慄然とさせられたわけですね。
マリアの精神のありよう、それを我々は、異様・異常と言えるのか? あるいは、日本で言えば『骨』で登場する人物たちは、一体誰に当たるのか? などなど、そういうことを考えると、この圧倒的映像体験というのが、より意義深いことにもなるんじゃないでしょうか、と思います。
とにかく、好き嫌いは大変分かれる作品なのは間違いないとは思いますけれども……実験映画でもありますんでね。なんですが、なんにせよこの恐るべき映像体験、まずはちょっと浴びて、ヤラれていただくという意味で、間違いなく今年必見の一本だと思います。ぜひぜひ劇場で、ウォッチしてください!