今月のゲストはシンガーソングライターで俳優のKさんです。
最上階10階にある 『エグゼクティブ オーシャンビュー テラス スイート 1007号室』で東京湾を眺めながら、お話伺います。
Kさん、今回番組に出ることを友人に伝えると“似てるよね”と言われたそう。
K:ジャンル的には、もしかしたら同じ括りかもしれないですよね(笑)
要:たしかに!Kさんもちょっと面長ですもんね、黒髪で、、、
近藤:お二人とも、鼻がシュッとしていらっしゃる!
要:奥二重ですか?一重ですか?
K:奥二重です!
要:あぁ!じゃあたどれば(出身が)同じかもしれないですね!(笑)
要潤は1981年生まれ。Kさんは83年生まれなので、同世代です!
40代に突入したKさん、何か変化は感じられているのでしょうか?
K:20代に戻ったような感じがちょっとしてて。いろんなものへの好奇心は30代よりは生まれてるような気がしますけどね。でもまだ3ヶ月ぐらいしか経ってないので(笑)これから色々と知りたいと思っています(笑)
学生時代に組んでいたバンドの名前は…アイアンローズ!?
音楽好きで、アーティストになりたかったというお父様の元で育ったKさん。
家の中ではいつもElton JohnやThe Beatlesが流れており、昔から音楽が身近にありました。
Kさんといえばピアノ!ピアノとの出会いのきっかけとは、、、?
K:高校1年生の時に、エルトン・ジョンがテレビで弾き語りをやっているのを見て。当時バンドブームで、ギターを弾いてる子がすごく多くて、、、だから“ピアノを弾ける男子”っていう、これだけでモテるな!と思って(笑)
要・近藤:あはははは
K:それがきっかけで(笑)その後、教会に通い出して、そこにピアノを弾ける子が何人かいたので、音符の読み方とかを教えてもらったりっていうのが、スタートですね。
ピアノを始めたKさんですが、音楽を志していたお父さんだからこそ、“音楽を仕事にする”という事には反対されていました。
そのため許可されていた“教会に行く”ことで、毎週日曜日に人前で演奏をしたり、演奏のために、友人と集まってバンドの練習をしていました。
この経験が、本格的に音楽に携わりたいと思うきっかけとなり、フェスティバルに出演したり、自分たちでレコーディングをするようになりました。
要:オリジナルの曲をやっていたんですか?
K:はい、カバー曲もやっていましたが、自分たちで曲も作っていました。ただ、バンドメンバーの音楽の好みは様々で、、、それぞれ好きな曲を選んだり書いたりしていたので、すごくピュアな曲を演奏していたんですよね(笑)ちなみにバンドの名前を付けたのは、超ハードロックが好きな子だったので、、、バンド名はアイアンローズだったんですけど(笑)
要:強そう!(笑)ヘビメタやってそう(笑)
近藤:ギャップですね(笑)
要:やっぱり人気だったんでしょう?
K:その、学校の学園祭とか、そういうのには出させてもらってましたね。
要・近藤:いやいやいや(笑)

いざ、日本の芸能界へ!兵役の中で得たものとは?
Kさんは2004年に韓国でデビューしましたが、韓国のルールでは、ある程度の年齢に達すると兵役に就かなければなりません。
Kさんが当時目指していたのは、音楽業界の裏方、作曲家・編曲家だったため、このまま歌手活動を一度止めて軍隊へ行くか、裏方になるのか…悩んでいました。
まさにその時、日本でピアノを弾くシンガーソングライターを探しているという話を聞き、オーディションに参加した事が、日本の芸能界に入ったきっかけとなります。
K:2004年の韓国の活動をしながらオーディション話を聞いて、 行ってみたい!と。落ちたら戻ってくればいいかっていうくらいだったんですけど、、、
要:兵役は、その時行かなくてよかったんですか?
K:海外に出て生活をすれば28歳までは行かなくて大丈夫なんですよね。 そういうルールもあって、、、兵役へは、28歳のときに行きました。
Kさんは兵役中に、戦うための訓練の他、色々なものを体験しました。
みんなでテントを作って隠れたり、40キロの荷物を背負って100キロ歩く、、、大変な時には、約マイナス15度の中、外1週間生活したこともあったそう…!
多くの人は学生時代に、大学を休学して兵役に就くことが多いため、一番年上だったKさん。当時は10歳下の先輩に怒られたり、社会に出るとなかなかできない体験をしたと、振り返っていました。
K:僕はアーミーバンドに入ったので、慰問公演とかにも行ったりしたんですけど。自分たちでケーブル繋いで、楽器を運んで、お客さんの前で前説をして…ずっとアーティストをやっていたので、誰かに世話をしてもらう環境が当たり前だったので、すごく良い経験ができたなと思ってますね。

実践の中で覚えた日本語”寿司”と”お寿司”は別物だと勘違いしていた過去も!
2004年、オーディションを経て日本にやってきたKさん。
最初は日本語を一言も話せなかったため、生活の中の実践で、覚えていったそうです。
近藤:当時間違えて覚えていた日本語ありました?
K:ありますよ!よく“お入りください”って言われるじゃないですか。
要・近藤:あはははは(笑)
K:当時はガラケーで、調べようがないので、、、結構苦労してましたね(笑)だから人の話を良く聞くようにしてました。会話をするようにしてたり、、、用はないけど、楽器屋さんに電話して、楽器について聞いてみたり(笑)

そんなKさんは2005年3月にTBS系ドラマ『H2~君といた日々』の主題歌「Over…」でデビュー。
立て続けに2005年11月のフジテレビ系ドラマ『1リットルの涙』の主題歌『Only Human』が大ヒット!
ただKさんが作詞・作曲をつとめるのは、もう少し先でした。
K:韓国では作曲をやってたんですけど、、、日本で出すという時に、言葉の壁があって。日本語の歌詞がうまく書けない、あとメロディーも韓国と、日本のメロディのニュアンスだったりが違って、なかなか自分の言葉で伝えきれなくて。制作の最後の段階までたどり着かなかったっていう部分がありますね。
要:ニュアンスが違うんですか!
K:今はだいぶ共有していると思うので、あまりないんですけど。当時は“日本っぽい”“韓国っぽい”メロディーがはっきりとわかれていて、なかなかどう伝えればよいのか、コミュニケーションが取れなくて葛藤がありましたね。でももう、自分の中で修業するというイメージがあったので!気持ちよく歌わせていただきました!
現在は素敵な日本語の歌詞を書く、Kさん。意外にもハングルは苦手だそうで、、、?
K:僕ね、ハングルで歌詞書けないんですよ、歌詞は日本来てからなので!(笑)
要:え!!ハングル語忘れちゃったんですか??
K:それに近いものがありますよね(笑)
要・近藤:あはははは(笑)
K:それぐらい、表現をどうすればいいのかとか、どういう言葉が響くのかとか、、、
要:そうなんですか!1回ハングルで考えて日本語に変換するとかじゃないんですね!
K:そうじゃないんです!直に日本語で考えてるので、、、それが早く日本語を覚えた要因だったかもしれないですね(笑)

1人でなんでもできるように…!槇原敬之さんの言葉に影響を受けて、、、
人と話すことを大切にしてきたKさん。特に心に残っていることはあるのでしょうか。
K:僕の“すごい”知り合いのミュージシャン、、、槇原敬之さんと、デビューしてしばらく経ってから、ご飯食べに行かせてもらったことあるんですよ。
要:すごいですね!!
K:その時に、色んな話をしている中で、、、『もし急に明日、あなたをサポートしてくれるスタッフが全員いなくなったらどうなる?』っていうことを、食事会で言ってくれて。要は曲が書けて、詩が書けてアレンジができてレコーディングできて、、、今でいう配信ができてっていうものが1人できるのかって言われたことがあったんです。
要:槇原さんに?
K:はい。その時は『できないですね』と言って終わったんですけど、その後、帰ってから考えてみたら“俺、一人でなにもできないな”って思って。そこから割と曲作りとか、、、人に甘えず自分でできるところまでやってみようっていう風になりましたね。
今週は、ここまで!
来週からは、Kさんとの公開収録の模様をお届けします!お楽しみに。
