のちに明治元年(1868年)となる年の四月三日、流山(千葉県)に駐屯していた近藤勇率いる新選組は、二〇〇名以上の隊士を擁しながら、日光街道の越谷宿(埼玉県)まで進軍してきた新政府軍の斥候隊に急襲されるや、ほとんど戦わずに恭順の意を示した。



 助命されると思っていた勇は出頭に応じたが、坂本龍馬を新選組に殺されたと勘違いしていた土佐藩出身の谷干城らが強硬に処刑を主張し、新政府軍の本営(中山道板橋宿)に送られ、二五日に斬首された。

京で攘夷志士を震え上がらせた新選組局長の最後としてはあっけなかった。



 しかも、新選組と決別した元隊士の永倉新八によると、幕府から甲府で一〇万石の大名になることを約束された勇が甲陽鎮撫に失敗したため、あらためて甲府城を攻め取ろうとしたという。流山進軍の目的が大名になりたいという私欲だとするなら晩節を汚したともいえる。



 以上の解釈でいいのだろうか。あらためて当時の勇の心中を察してみたい。



 まず、甲陽鎮撫に失敗して勇が江戸へ帰ってきた時点に立ち戻ってみよう。

彼は和泉橋(千代田区秋葉原)の医学所で療養していたが、三月一三日、水戸街道に沿う五兵衛新田(足立区綾瀬)の名主の協力を得て、その屋敷に入って屯所とした。そこに続々と新政府に反発する者らが集まり、また、新選組はそこで黒色火薬の製造に必要な材料を大量に買い入れた。つまり武器や人員を整えているのである。そして五兵衛新田では手狭となったために四月二日未明、流山へ屯所を移した。こうみてくると勇はヤル気満々で新政府軍とやりあう覚悟だったようにみえる。



 しかし、彼が五兵衛新田入りしたのは、江戸城無血開城の方針が新政府と幕府間で確認される前日。

そのころの幕臣勝海舟の書状に「船橋・松戸・流山あたり、江(戸)脱走の者ども多数あい集まり居り候」とあり、水戸街道沿いに、新政府に恭順を決めた幕府への不満分子が集合した情勢を警戒していた。



 さらに勇が「会津の城を枕に討死を遂げる」として新政府軍への抗戦及び会津行きを主張する永倉と決裂した際、「拙者は、さようなわたくしの決議には加盟いたさぬ」と言っている。当時、勇は正式な幕臣となっていた。したがって幕臣としての立場から永倉に同意しかねたわけであり、勝と同じく、新政府軍との講和がまとまるかどうかの大事な時に流山あたりで不満分子が勝手な行動をして、その妨げになるのを警戒したのではなかろうか。



 近藤の狙いは、五兵衛新田に不平分子を集めるだけ集め、流山へ進軍後、新政府軍に出頭することによって、新選組や不満分子を空中分解させることだったといえないだろうか。



跡部蛮(あとべ・ばん)歴史研究家・博士(文学)。
1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。