島根県と鳥取県境にまたがる湖「中海」の上を、「江島大橋」がまたぎ越えています。アプローチの急勾配は軽自動車のCMで「ベタ踏み坂」と表現され有名になりましたが、実は「前身の橋」も存在した、地域にとって不可欠な橋です。

タントを軽自動車1位に押し上げた「ベタ踏み坂」実際そこまでキツくない?

「業界ではこれを『ベタ踏み坂』と呼ぶ」

 2013(平成25)年末から放送されたダイハツ「タントカスタム」のテレビCMでは、島根県松江市の江島と鳥取県境港市の境をまたぐ「江島大橋」の島根県側がロケ地となり、俳優の豊川悦司さんが発した「ベタ踏み坂」という言葉が、坂をなす橋の通称として一挙に広まりました。

 乗用車のアクセルペダルを限界まで踏み込まないと登れないほどの急坂でも、この軽自動車ならラクラク、という内容への反響は凄まじく、翌年上半期に「タント」ブランドが達成した軽自動車部門の新車販売台数1位という快挙にも大きく貢献したといえるでしょう。

 橋が坂になった理由は、この橋がまたぐ汽水湖「中海」を行き交うタンカーやコンテナ船にあります。湖の南岸にあたる島根県安来市の工業地帯へ向かうこれらの船は、5000トン級の大型も多く、水面から橋桁下部までの高さを50m近く確保する必要があり、結果として片方の坂道が急な「ベタ踏み坂」が生まれたのです。

 島根県側の橋の入り口となる「江島」は約1km四方の小さな島ですが、CMが放送されていた時期には、急増した訪問客向けの臨時駐車場が設置されるなど一時的に賑わいを見せたそうです。

「ベタ踏み坂」なぜできた? 湖の上45mで県境またぐ橋 背景...の画像はこちら >>

ベタ踏み坂こと江島大橋。デジタルズームなどを使って撮ると圧縮効果が働き、「ベタ踏み坂」に見える(宮武和多哉撮影)。

 しかし、この坂はそこまで勾配が急というわけではなく、タントカスタム11台分もの重量がある大型観光バスさえラクラクと登っています。実はCM撮影やポスターで見る急坂は、遠くから望遠レンズなどを用いて撮影することで、景色が圧縮されて坂道などが急に見える錯覚効果の一種「圧縮効果」によるもの。手持ちのスマートフォンで撮影しただけでは普通の坂道となってしまいます。

 地元のタクシー運転手の方によると、ポスター撮影などは江島大橋の2kmほど南西にある大根島の湖岸から行われることが多く、稀に米子空港にて「あの場所まで行って、2時間たったら迎えに来て!」と行き先を告げる、バズーカ砲のようなレンズ(焦点距離2000mm相当)を抱えたカメラマンが乗ってくるのだそうです。

ベタ踏み坂の「前身の橋」とは? 古くからつながっていた島根と鳥取

 PCラーメン橋という型式の橋では日本一の長さを誇る江島大橋、開通は2004(平成16)年のことですが、実は「前身」とも言える別の橋が存在しました。

 江島大橋の開通前、江島と境港のあいだには、中海と境水道を仕切る「中浦水門」があり、その上が橋になっていました。船が通過する際は橋が跳ね上がる仕組みでしたが、そのたびにクルマは数分待たされるうえ、橋の重量制限が厳しく、大型トラックは迂回を余儀なくされていました。島根県側で江島とつながっている大根島の日本庭園「由志園」に向かう観光バスなどは、「乗客は全員降りて徒歩、バスのみ通過」という場合もあったのだとか。

 国際港である境港や、米子空港を拠点とする観光バスにとっては、いつでも通れる橋が切実に求められていたところ、国の事業として推進されていた中海の淡水化計画が中止になったことで水門が不要になります。そこで江島大橋が造られることとなり、その完成後に水門は撤去されました。

「ベタ踏み坂」なぜできた? 湖の上45mで県境またぐ橋 背景に「前身の橋」と航路の歴史

江島大橋を上る米子空港連絡バス(宮武和多哉撮影)。

 水門が造られたのは1970年代のことでしたが、島根県松江市(旧・八束町)に属する大根島・江島と鳥取県境港市は、大根島から境港への高校入学が許されるなど、もともと深いつながりがありました。大根島出身の球児が甲子園出場通算10回の強豪・境高校野球部の選手として甲子園に出場した際は、9回終了時点でノーヒット・ノーランという「大根島のエース」の快投に両地域が盛り上がる、ということもあったとか。

 このように、広大な中海を隔てた地域どうしのつながりが深かったのには理由があります。かつては中海全体に多くの航路があり、湖全体が重要な移動ルートだったからです。

橋を渡るバス路線のルーツは「船」

 中海やその西側にある宍道湖(しんじこ)周辺は、江戸時代から数多くの渡し船が存在しました。明治末期になると、松江市・京橋を本拠地として宍道湖や出雲に向かう「西航路」、中海を抜けて大根島・境港・美保関方面に向かう「東航路」をメインに、幾多の航路がふたつの湖を駈け抜け、一畑電鉄(現・一畑電車)や官有の鉄道と競争を繰り広げていたそうです。

 道路も未発達だった当時、湖をいく船は、速くて多くのモノを運べる乗りものだったのです。第2時世界大戦後も湖岸の道路事情はなかなか改善されず、中海沿岸の地域は昭和30年代前半まで、周辺の交通を船に頼っていましたが、その後は道路の整備によって航路は減少します。最後まで残った松江~大根島航路も、橋に役目を譲るかたちで1980(昭和55)年に姿を消しました。

 中海や宍道湖周辺で展開されていた航路の一部はバスに引き継がれ、松江から美保関方面へ向かう「万原線」、江島大橋を経て境港へ向かう「松江境港シャトルバス」など、一畑バスの幹線として、いまも通勤・通学を支え続けています。

「ベタ踏み坂」なぜできた? 湖の上45mで県境またぐ橋 背景に「前身の橋」と航路の歴史

江島大橋は自転車や歩行者も多い(宮武和多哉撮影)。

 ちなみに「ベタ踏み坂」こと江島大橋は、通勤や買い物のために自転車で登る人もいるなど、地元の方は想像以上にこの橋を使いこなしているようです。橋は中央部で歩道が広くなっており、坂を登り切った人々の格好の休憩所となっています。せっかくベタ踏み坂を訪れたのであれば、中海や宍道湖の周辺を走るバスにも乗車し、汽船が行き交っていた頃に思いを馳せるのも良いでしょう。

編集部おすすめ