東京23区内にあって、利用者が少なくたった8年しか存続しなかった私鉄路線が、京成白鬚線です。墨田区内の1.4kmという短い鉄路の跡は、いまやほとんど残っていません。

何のための路線だったのでしょうか。

戦前に開通し廃止された白鬚線

 東京23区内の大手私鉄路線で、たった8年しか存続しなかったものがあります。京成電鉄の「白鬚(しらひげ)線」です。

 場所は現在の墨田区。押上線 京成曳舟~八広間にあった向島駅を起点に北西へ、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)を東向島駅の北側でまたぎ、隅田川に架かる白鬚橋の東詰付近にあった白鬚駅に至る1.4kmほどの路線でした。1928(昭和3)年に開業するも、1936(昭和11)年に廃止されています。

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昭和初期、現役当時の白鬚駅。京成電鉄に唯一残る白鬚線の写真だという(画像:京成電鉄)。

 周辺は下町の住宅街で、線路跡は宅地化されたといわれ、現地はもちろん、地図上でもそのルートを追うことは困難なほど。起点であった押上線の向島駅も、戦時中の休止を経て廃止されており、線路が高架化された今では、当時の面影を思い浮かべることすら難しいかもしれません。

 開業当初は押上~白鬚間の直通運転も行われたものの、利用者は少なく、線内の折り返し運転になったとされます。短い路線であるうえに目ぼしい観光地などなく、終点の白鬚駅に接続する路線もなかったため、利用が少ないのも頷けるところです。

 では、どのような意図をもって開設された路線だったのでしょうか。

白鬚線に見る京成の苦悩

 白鬚線が計画された大正時代、京成線の本線は現在の押上線でした。押上を起点に千葉方面を結んでいましたが、より都心部への乗り入れを画策して、浅草や上野などへ路線を延伸する申請を国に行い、そのなかで唯一許可を得て建設に至ったのが白鬚線でした。

 白鬚から先は隅田川を越え、荒川区の三ノ輪橋で現在の都電荒川線、当時の王子電気軌道と連絡することを目指していました。さらに日暮里方面へ路線を延伸する計画もありました。

 ただ白鬚線開通後、日暮里~筑波間などの建設免許を取得していた筑波高速度電気鉄道が、京成に合併を持ち掛けます。同社は免許を取得したものの資金面から開通の目途が立っていなったそうですが、もともと鉄道を建設する気がなく、取得した免許を他社に売却する投機目的の会社だったともいわれます。それはともかく、京成にとっては願ってもないチャンスだったのかもしれません。

存続期間たった8年「京成白鬚線」何だったのか? 東京の下町から消えた鉄路

京成押上線の京成曳舟~八広間、かつて白鬚線が分岐していた箇所付近。高架化は2015年完成(乗りものニュース編集部撮影)。

 とんとん拍子に話が進んだのか、京成は1930(昭和5)年に筑波高速度電気鉄道を合併し、白鬚線開通からわずか3年後の翌1931(昭和6)年に青砥~日暮里間を、1933(昭和8)年には日暮里~上野公園(現・京成上野)間を開通させます。これが現在の京成本線であり、東京から郊外へ延びる私鉄としては初めて、山手線の内側への乗り入れを実現しました。

 こうして都心乗り入れを果たしたことで、白鬚線は存在価値を失ってしまい、早々に廃止されました。なお戦後、京成押上線は都営地下鉄浅草線の開通とともに、日本初となる郊外私鉄と地下鉄との相互直通運転を開始し、京成線は都心側が上野発着と、地下鉄浅草線直通のダブルルートとなって現在に至ります。

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