阪急千里線が開業100周年。相互直通運転を行う大阪メトロ堺筋線の終点であり、阪急線の起点となっている天神橋筋六丁目駅は、いまでこそ地下駅ですが、かつては地上に一大ターミナルが存在。

それは「京阪の夢の跡」とも言えるものでした。

実は初モノ尽くし? スゴかった天六の駅と街

 大阪市内から北の千里ニュータウンを結ぶ阪急千里線が、2021年4月に開業100周年を迎えました。千里線の列車は大きく分けて大阪メトロ堺筋線との相互直通列車と、阪急梅田の直通列車がありますが、前者である堺筋線直通系統の列車において阪急と大阪メトロの境界をなすのが、大阪市北区にある天神橋筋六丁目駅、通称「天六(てんろく)」です。

 天六の駅は乗務員交代が行われるなど運行上の重要駅ではありますが、乗客からすれば、会社が変わったことに気づかないケースもあるかもしれません。とはいえ、平仮名にして14文字の長い駅名であるため、列車の自動放送がとても特徴的です。駅名に加えて近くにある2軒の総合病院や専門学校の広告も案内しなければならないうえ、英語放送はこの長い駅名をゆっくり・はっきりアナウンスするため、日本語の放送が、他の駅に比べてかなりの早送りに。その後は駅構内での肉声アナウンスによって「てんじんばしすじろくちょうめ、てんろく(天六)」と、ちゃんと略称を入れて案内されます。

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地下へもぐる阪急千里線、旧・天神橋駅への分岐点付近。かつては正面の病院から奥の高層マンション周辺にあった旧天神橋駅まで高架線が築かれていた(宮武和多哉撮影)。

 そんな天六は、千里線、堺筋線だけでなく大阪メトロ谷町線も乗り入れ、1日の乗降客数は乗り換えも含めて約5万人に上ります。そして地下駅の上の五叉路交差点は、かつて路面電車の大阪市電と阪神北大阪線が発着し、いまも大阪シティバスなどのバス路線が高頻度で行き交う、昔から変わらない乗り換えの要衝です。

 いまでこそ地下駅の天六ですが、1925(大正14)に「天神橋駅」として開業した当時(開業当初は仮駅)は、3面5線のホームや日本初のエスカレーターを備えた「日本初の高架上の終着駅」でした。

開業したのは阪急ではなく、京阪電気鉄道の子会社「新京阪鉄道」で、京都~大阪間を結ぶ「新京阪線」の大阪方ターミナルとしていたのです。また駅には、新京阪マーケットや大食堂を備えた駅ビル「新京阪ビルディング」も併設しました。

 この旧天神橋駅ならびに千里線が阪急電鉄の路線となったのは戦後のことです。もともと、京阪によって梅田への延伸も現実味を帯びていた天六の駅、それが地下化され、地下鉄直通となった背景には、さまざまな紆余曲折がありました。

本社まで置いたのに…天六の駅ビルは「京阪の夢の跡」?

 もともと、1921(大正10)年に現在の千里線の一部となる十三~淡路~豊津間を開業させたのは、京阪でも阪急でもなく「北大阪電気鉄道」という別の事業者でした。免許としてはさらに淡路駅から2kmほど南、現在の天六付近までを取得していましたが、淀川への架橋の目途が立たず、資金繰りに奔走しながら時間を費やすばかり。そこに目をつけたのが京阪電鉄でした。

 当時、京阪は梅田乗り入れ(京阪梅田線)を構想していました。それが政治的な問題から暗礁に乗り上げるなか、どうしても淀川の南側、せめて梅田に近い場所にターミナルを構えたい同社は、建設が進まない淡路~天六間の免許ごと北大阪電気鉄道を買収。子会社「新京阪鉄道」が建設していた現在の阪急京都線にあたる区間と一体化させて、京都(大宮)~大阪(天神橋)間の「新京阪線」を順次開業させたのです。また機会を見て天神橋~大阪市北野町(現在の「HEP FIVE」近辺)を建設すべく、免許の申請も進めていました。

 ただ、開業した新京阪線はいわゆる「昭和恐慌」と重なり、極度の不振に。

京阪は新京阪線を直営化しテコ入れを図ったものの、劇的な改善には至りませんでした。また天神橋駅周辺は、まだそれほど開発が進んでおらず、大阪方のターミナル駅として役不足だった感は否めません。

 なかなか打開策が見出せないうちに、京阪、阪急とも戦時中の「陸上交通事業統制法」による合併に巻き込まれ、戦後の1949(昭和24)年に各社が再度分離した際には、「新京阪」として建設された区間がそのまま阪急の路線に。京都・千里方面からの列車は淡路~十三間(当時は「十三線」)を経由して阪急梅田駅へ乗り入れるようになり、天神橋駅の発着は1時間に2本程度となります。やがて路線も「阪急京都線」「阪急千里線」という現在の形に再編されていきました。

「天六」はなぜフツーの駅になったのか 大阪の一大ターミナルだった天神橋筋六丁目

1969年、大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)堺筋線と阪急千里線との相互直通運転が開始(画像:阪急電鉄)。

 梅田乗り入れという目標のもと、一時期は天六の駅ビルに新京阪の本社まで置いた京阪の夢は潰え、ビルも「天六阪急ビル」に改称されています。その後、1969(昭和44)年に大阪市営地下鉄(当時)堺筋線~阪急千里線の直通運転が始まると、天神橋駅は地下化のうえ「天神橋筋六丁目駅」に改称されて現在に至ります。

風景は変わっても…オトナのパラダイス・天六

 地上の天神橋駅は廃止され、駅ビルとしての役目を終えた「天六阪急ビル」は、その後も40年以上にわたって総合ビルとしての機能を果たし続けました。1階には阪急系列のスーパーと銀行が最後まで入居し、鉄道の高架が撤去された2階の駅部分には地上から自動車用のスロープが架けられ、ホームがあった場所はトラックの搬入口として再活用されていました。

 2010(平成22)年から徐々に取り壊しが始まった天六阪急ビルの跡地には、44階建ての高層住宅「ジオタワー天六」が建設され、同時に進行した再開発によって、周囲の立ち飲み店や理髪店、5つの映画館が入居していたシネ5ビル、ひっそりと旧路線名を掲げ続けていた雀荘「新京阪倶楽部」などが次々と姿を消していきました。

 また天六交差点の人の流れも大きく変化しつつあります。

ここに発着していた路面電車(阪神北大阪線)の代替である阪神バス北大阪線も、全盛期は数分ごとに運行されていたのが、いまや週2往復のみです、

 しかし、天六阪急ビルの周辺にあった店の多くが、再開発後の区画や、ビルのすぐ南側から2.6kmにわたってアーケードが伸びる「天神橋筋商店街」周辺に分散・移転し、いまも息づいています。大阪有数の飲み屋街として名高いこのエリアは、周辺にテレビ局や芸能事務所が多いこともあり、新型コロナウィルスの影響を受けるまではさまざまな人々を見かける賑やかなエリアでもありました。

「天六」はなぜフツーの駅になったのか 大阪の一大ターミナルだった天神橋筋六丁目

在りし日の天六阪急ビル裏側、かつての高架線の終端部。2009年(宮武和多哉撮影)。

 なかには「あの喫茶店にやたら背の高いウェイターが入った!」との話を聞いて見に行ったら、翌年にその方が天満橋近辺を舞台としたTVドラマで準主役を務めていた、などということも。近年の大きな変化といえば、「天六」校区で育ったとある若手俳優が出演する某携帯会社のCMが、立ち飲み屋のテレビで流れるたびに「出た、天六のスター!」「あいつと俺は親子も同然」と言い張る人々が後を絶たないことでしょうか。

 2020年には感染症拡大の影響で中止となりましたが、毎年夏の「天神祭」では初日の名物「ギャルみこし」の会場として、アーケード中にこだまするような威勢の良い声が響き渡ります。現在はこの光景が戻るかも見通せない状況ですが、またかつてと同じように、知らない人と肩を組んで呑み明かすオトナのパラダイス・天六を楽しみたいものです。

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