1980年代、高速バスの成長期には、路線の開設をめぐる様々な攻防がありました。事業者どうしの争い、国鉄の横槍、国の制度……これらを克服していった歴史は、コロナ禍で苦しむバス業界に何を問いかけるのでしょうか。

東京~長野県の高速バス 一部だけなぜか「5社共同運行」

「バスタ新宿」を起点に、京王バスが中央道方面に運行する高速バス路線は、「中央高速バス」と総称されています。富士五湖線は山梨の富士急バス(グループ会社を含む。以下同じ)、松本線なら長野のアルピコ交通といった終点側の事業者と、京王バスがそれぞれ共同運行しています。

 しかし、伊那飯田線と諏訪岡谷線だけは、多数の会社が共同運行先に名を連ねています。前者では、「終点会社」に当たる伊那バス、信南交通に加え、「中間会社」である富士急、山梨交通、アルピコ交通。後者は終点会社がアルピコ交通で、中間会社として富士急、山梨交通、さらにはジェイアールバス関東といった具合です。

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山梨交通の高速バス。新宿~諏訪岡谷線の運行に「中間会社」ながら参画している(成定竜一撮影)。

 開業順で見ると、最古参の富士五湖線と甲府線、および1989(平成元)年以降に開業した路線が起終点会社のみなのに対し、80年代半ばに開業した伊那飯田線、諏訪岡谷線には中間会社が参入しています。

 これには、高速バスの制度の歴史が関わっています。

 山梨県へ向かう富士五湖線と甲府線は、一般道経由だった急行バスを、中央道開通に伴い付け替えたものです。当時は「相互乗り入れ」という形態で、特に富士五湖線は、座席管理システムや予約センターも別々。

京王が河口湖、山中湖に発券窓口を構える一方、富士急のスタッフが京王の新宿高速バスターミナル(当時)に常駐していました。

 1982(昭和57)年、中央道が全通すると、新宿と長野県を結ぶ路線への要望が高まります。特に「伊那谷」と呼ばれる伊那飯田地区は、鉄道(国鉄飯田線)のスピードが遅く、また名古屋方面には既に高速バスが運行しており、地元の期待が大きかったと言います。

 しかし、業界内で調整が進みません。高速バスは、制度上は乗合バス(路線バス)の一部であり、当時の乗合バス事業者は、地域独占的に国から事業免許を与えられていました。地域の交通に責任を負う代わり、そのエリアに他の事業者が乗り入れないことが原則ただったのです。

「鉄道ローカル線に影響が及ぶ」国鉄の横槍

 1960年代ごろまでは、こうした地域のバス事業者間の「縄張り争い」が激しかったものの、80年代頃には境界線は落ち着いていました。ところが、高速道路の延伸が、この境界線を揺さぶります。隣県どうしと言える富士五湖線などと比べると、伊那飯田線は距離が長い分、多数の事業者のエリアをまたがって運行します。そこで、中間会社も参入する権利を主張したのです。

 中間会社は少ない便数のみを担当することで決着し、共同運行の形で運輸省(現・国土交通省)に申請すると、今度は国鉄(当時)から「待った」がかかります。長距離の旅客が高速バスに奪われると、鉄道ローカル線の通勤通学輸送の維持にも影響がおよぶ、という論理です。

しかし、運輸審議会での議論を経て、1984(昭和59)年12月、高速バスの運行開始が認められました。

 京王バス(当時は京王帝都電鉄自動車事業部)らは、次に諏訪岡谷線の開設を国に申請します。ところが、今度は、国鉄が別の形で応戦してきました。現地(下諏訪)に営業所を持っていた国鉄バスが、自ら競合路線を申請してきたのです。当時、運輸省は、複数の高速バスが同一区間で競合する「ダブル・トラック」を認めておらず調整が進みません。

 京王らは、伊那飯田線の免許を活用し、中央道上の停留所「中央道茅野」止めで暫定開業するという「荒業」まで持ち出しました。諏訪バス(現・アルピコ交通)が伊那飯田線に中間会社として参入していたことが、意外なところで役に立ったのです。その後、国鉄バスは少ない便数のみを担当する形で、5社共同運行で諏訪岡谷線が正式開業したのは1987(昭和62)年のことでした。

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アルピコ交通の高速バス。バスタ新宿にて(中島洋平撮影)。

 翌1988(昭和63)年には長野道が岡谷から松本まで開通。当然、次なる新規路線は松本線です。

この松本線は、先の2路線とは二つの点で異なる形態となりました。

 一つは、京王と松本電鉄(現・アルピコ交通)という起終点会社のみの2社共同運行で、中間会社が参入しなかった点です。阪急バスらの大阪~新見・三次線開業時の議論などを経て、「停留所を設けず通過するだけの高速バス路線は、中間会社の権利を侵害しない」とされ、起終点2社だけの申請でも路線開設を認める、という風に、運輸省の判断が変わっていたのです。

若かった高速バス業界 「武勇伝」の数々

 もう一つ、京王/松本電鉄の新宿~松本線は、分割民営化直後のジェイアールバス関東と松本電鉄が共同運行する東京駅~松本線との同日開業でした。この頃になると、運輸省は高速バスのダブル・トラックも認めるようになっていたのです(東京駅~松本線は、その後3年で廃止)。

 こう見ると、80年代半ばの約5年、高速バスの制度が猫の目のように変わったことがわかります。高速道路延伸やバブル経済による需要増加を背景に、バス事業者自身がその動きをリードしました。最初は事業者どうしの確執、その後は、「負け組」発生や共倒れを危惧する国の過保護政策をはねのけ、自由な路線開設を目指す戦いでした。

 雑誌『鉄道ジャーナル』1985(昭和60)年5月号の特集「高速バスと鉄道 列島を駆ける“高速バス”の脅威」では、交通ジャーナリストの鈴木文彦氏が、開業直後の伊那飯田線をレポートしています。

 そこには、中央道が濃霧で通行止めとなり、バスは一般道を迂回運行する一方、信南交通の社員が業務用車で途中停留所を回って乗客に対応する様子が生き生きと描かれています。この対応自体は、法令上、現在では困難ではあります。しかし、鈴木氏が「国鉄は何かを学び取る必要があるのではないだろうか」と結んでいるように、乗客の方を向いていないと言われた国鉄と対照的に、若く挑戦的だった高速バス業界の空気感が伝わってくるレポートです。

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京王の高速バス。伊那飯田線、中央道辰野にて(中島洋平撮影)。

 筆者(成定竜一:高速バスマーケティング研究所代表)が京王の新宿高速バスターミナルでアルバイトを始めたのが、大学2年生の時、1992(平成4)年です。挑戦の余韻は社内に色濃く残っており、本社や現場の管理職の皆さんから「武勇伝」を何度も聞きました。今の仕事を始めてからは、別の大手私鉄系事業者の重鎮から「『ウチのバスを並べて高速道路を封鎖してでも、隣の事業者の新路線を阻止してやる』と息巻いたもんだ」と思い出話を伺ったこともあります。

「挑戦」する事業者 受け身の事業者 コロナ禍で明暗分けるか

 高速バス業界は、その後、挑戦の機運が縮小したと筆者は感じています。2002(平成14)年以降、中小旅行会社らが募集型企画旅行の形態で都市間輸送を行う「高速ツアーバス」が認められると、「高速バスの競合が激しくなり、地域の路線バス網の維持に影響する」として、既存のバス事業者側が禁止を主張しました。しかし、この主張は以前、国鉄が高速バス伊那飯田線の開設に反発した際の論理とウリ二つだったことが象徴的です。

 そして現在、バス業界は「新型コロナ」の影響を受けて苦しんでいます。その中でも、一部の事業者は、収束後の市場を見据え準備をしています。

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東北急行バス。コロナ禍にあって東京~仙台線を増便した(中島洋平撮影)。

 需要に応じて運賃を細かく変動させるダイナミック・プライシングの導入により、輸送人員増加を見込めない中でも収益性向上を目指す京王や両備ホールディングス。基幹路線である東京~仙台線を逆に増便し、シェア奪還を狙う東北急行バス。さらには、コロナ収束後のFIT(海外からの個人旅行者)需要の回復に見越して新路線を準備中の事業者もあります。

 一方で、単純な運賃値上げや路線撤退など、受け身の対応に終始した事業者も少なくありません。コロナ禍が事業者の積極性や戦略性の有無を浮き彫りにしています。収束した後には、高速バス事業者の優劣が、より明白になるかもしれません。

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