昭和初期、国民自らが献金を募って軍用機を軍に納める「献納機」運動が盛り上がりました。だれがどの軍用機を「献納」したか、ひと目でわかるようにマーキングされた機体が多数記録されています。

なぜ人々はお金を出したのでしょうか。

満州事変を契機に始まった「献納機」

 日本の軍用機の写真を見ていると、たまにデカデカと和文でマーキングされた機体があることに気が付きます。これらの多くは国民の献金によって軍に納入された「献納機」と呼ばれるもので、戦前に国民がどのように軍と関わっていたかを見ることができます。

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1942年8月26日に東部ニューギニアのブナ基地上空で米戦闘機と交戦し、被弾して着陸後に放置された海軍の報国872号(零戦三二型)。献納者は興亜報国団の常任委員だった方義錫(画像:アメリカ海軍)。

 戦争にはとにかくお金がかかります。

平時なら軍事予算でまかなわれるのですが、戦争が長引けばそれ以上に費用が必要になります。政府は戦時国債などを発行して軍事費を調達し、軍艦や戦車、航空機など兵器を生産します。

 日露戦争以降、大きな戦争を経験しなかった日本でしたが、明治時代末期に航空機が日本でも導入され、軍用として使われるようになりました。昭和に入ると満州事変(1931~32年)をきっかけに戦争の時代へ突入します。昭和初期はそれまで輸入していた航空機が国産に移行し始めた時期です。国民にも軍用機が馴染みのあるものとなっていきました。

 国民が軍事費のために献金する動きは日清戦争(1894~1895年)の頃からありました。しかしその動きが本格化し、式典が大々的に行われるようになったのは昭和に入ってからのことです。

 1931(昭和6)年9月に満州事変が勃発すると、旧陸軍は国民からの献金をドイツとフランスから輸入した「あいこく1号、2号」という爆撃機の購入費に充て、1932(昭和7)年1月10日に東京の代々木練兵場(現在の代々木公園)でそれらの命名式を行いました。これが献納機の始まりです。

ブームを巻き起こした「献納機」運動

 自分たちの寄付金で軍用機が購入されるというやり方は宣伝効果が高く、「献納機」を目的とした献金の気運に火がつくことになりました。献納された軍用機は旧陸軍では「愛国号」、旧海軍では「報国号」と名付けられ、通し番号と献納者の名前が機体に書かれました。

 機種は爆撃機から偵察機、戦闘機など多岐にわたり、献納者も各種組合や職場、保険会社や新聞社の募金、投資で財を成した篤志家、さらには子供たちがお小遣いを出し合って献金したという形のものまでありました。

戦時下の国民はなぜ「献納機」に熱狂したか 職場で 募金で 子供の小遣いで…軍用機を献納

1933年3月10日に代々木練兵場で命名式が行われた「愛国69号」。富国徴兵保険相互会社(現フコク生命)が献納した陸軍の九一式戦闘機(時実雅信所蔵)。

「献納機」の命名式は国民的イベントに

「献納機」が完成すると命名式でお披露目されます。式典には陸海軍の大臣などを始めとした軍関係者や献納者の代表、それに大勢の観客が参列、会場では記念グッズや絵葉書などが販売されるため、その命名式はちょっとしたイベントのようなものでした。

 このように大々的に行われることから、「献納機」の命名式は新聞でも報道され、瞬く間に国民のあいだで関心が高まります。

この動きは朝鮮半島や満洲、台湾にも波及するとともに、国民の戦意高揚にひと役買っていました。

 実際のところ、民間からの献金は鉄兜を始め各種兵器の調達にも充てられていたものの、それらに比べると「献納機」は華やかでわかりやすい形であったため、特に注目されたといえるでしょう。

 「献納機」がどのくらい造られたかは、多くの史料が失われており正確な数字はわかっていません。通し番号は太平洋戦争末期までにおよそ陸軍が約7000、海軍が約6000を超えています。しかし通し番号どおりの機数はなく、実際はもっと少なくて、陸海軍それぞれが5000機ぐらいではないかと推察されています。

 当時の国民と戦争の関わりを象徴する「献納機」、そして献納した人々の名前は戦後ほとんど忘れ去られて、歴史の片隅に写真として残っています。