太平洋戦争が始まるきっかけとなったハワイ真珠湾攻撃。一般的には旧日本海軍の空母部隊による奇襲攻撃といわれていますが、実はアメリカ軍はしっかり捉えていました。
航空機や船舶の運航において必要不可欠な電測機器となっている「レーダー」。いまやクルマにも搭載されるまでに至っていますが、今から80年前、当時最新だったこの“電子の眼”がもたらした貴重な情報を、人間の誤認によって無駄にしてしまい、その結果、大惨事に至った出来事がありました。それが太平洋戦争開戦の端緒となったパールハーバー(真珠湾)攻撃です。
1941(昭和16)年12月8日早朝、旧日本海軍の空母「赤城」を発艦した九七式艦上攻撃機の偵察員席に座るパールハーバー攻撃隊総指揮官の淵田美津夫中佐は、飛び始めてしばらくしたのち、搭載されているラジオ式方向探知機「クルシー」のスイッチを入れて、レシーバーを耳に当てました。
魚雷を抱いて空母から発艦する旧日本海軍の九七式艦上攻撃機(画像:アメリカ海軍)。
ほどなくして、ハワイのラジオ放送局KGMBが流すアメリカン・ミュージックが聞こえてきました。そこで彼は枠型空中線を少しずつ回して、電波の感度がもっとも良好な方位に固定すると、自機の飛行コースをその電波に合わせました。これで確実に、ハワイへと向かうことができます。
おまけにKGMBは、天気予報で日本軍攻撃隊にとっては貴重な、現地の気象状況を報じていました。
「本日のホノルルの天候は、雲の多い晴れ。山間部には雲がかかり、雲高は約3500フィート程度。
しかし、この放送はアメリカ本土からハワイに向けて飛行中であった、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-17「フライングフォートレス」大型爆撃機を誘導するためのものだったのです。
最新兵器レーダーが日本軍大編隊をキャッチ当時、長距離飛行でアメリカ本土から軍用機がハワイにやってくる場合、軍の要請を受けたKGMBがその強力なラジオ電波発信機を用いて、誘導電波の代わりに音楽などを1日中流し続けることがあり、この放送もそれを目的としたものでした。
同じ頃、オアフ島北端に位置するオパナ・ポイントのアメリカ陸軍仮設レーダー・ステーションに置かれたSCR-270移動式対空レーダーが、接近する日本軍攻撃隊を捉えていました。陸軍は重要なオアフ島を防衛するために、1941(昭和16)年6月にSCR-270を6基(諸説あり)持ち込んでおり、これはそのうちの1基でした。

ハワイのオパナ・ポイントに設置された陸軍仮設レーダー・ステーション(画像:アメリカ陸軍)。
SCR-270は波長2.8mのメートル波を使って、約240km先を飛行している航空機を捉えることができました。なお、このSCR-270の1運用単位は、レーダー操作室車、電源車、アンテナ本体輸送車、アンテナ塔積載車の合計4両からなる構成です。
SCR-270のレーダー画像表示器は、映画などでよく見かけるいわゆる円形の「PPIスコープ」とよばれるものではなく、「Aスコープ」といわれる表示方式でした。これはレーダーで捕捉した航空機(目標)が、スコープ上に山型の波形で表示されるものでした。
この日、日本軍攻撃隊を探知したのは、ジョセフ・ロッカードとジョージ・エリオットという2人の1等兵。先輩であるロッカードが、エリオットの訓練教育をサポートしている最中に事は起きました。
機密ゆえに伝えられなかった重要情報2人は、ほぼ北という探知方位と、Aスコープに映る画像が大編隊を示すきわめて大きなものだったので、はじめはレーダーの故障ではないかと考えました。
そこで、アンテナの向きを変えたり出力を調整したりと色々いじくってみたものの、画像は変わりません。かくして2人は、ようやくレーダーが本物の航空機の編隊を捉えたと判断しました。そしてエリオットが、画像が示された位置と時間を地図上に細かくプロットしていきます。
とうぜん2人は、上級本部であるフォート・シャフターの陸軍防空情報センターへも、有線電話で一報を入れます。しかし、あいにくこの日は日曜だったため、当番兵しかおらず、とりあえず彼に航空機編隊の接近を伝えました。

SCR-270移動式対空レーダーの全景(画像:アメリカ陸軍)。
するとその10数分後、当番兵から伝言を聞いた当直士官のカーミット・タイラー中尉が、オパナ・ポイントの2人に折り返し電話を入れてきました。そして、なんとその画像は心配する必要はないと話します。結果、以降のこの編隊の動きは放置されてしまいました。
タイラー中尉は当直士官なので、アメリカ本土からB-17の大編隊がオアフ島に飛来することを事前に知っており、オパナ・ポイントのレーダー探知は、このB-17編隊だと判断したのです。しかし秘密保持の観点から、新規のB-17部隊がハワイに駐留するようになることを、まだこの時点で下級兵には知らせられないので、単に「心配ない」としか言えませんでした。
重なり合った歴史の“タラレバ”タイラー中尉から電話でそう伝えられた後も、2人はしばらくレーダー接触とプロットを続けました。

1941年12月8日、ハワイのヒッカム飛行場に胴体が折れた状態で横たわるアメリカ陸軍のB-17「フライングフォートレス」大型爆撃機(画像:アメリカ海軍)。
しかし、2人が探知したこの編隊こそが、B-17編隊などではなく、淵田中佐が率いてきた旧日本海軍の攻撃隊だったのです。そのため、もし早めに日本による宣戦布告がなされており、アメリカ側も臨戦態勢にあれば、報告の結果は違っていたでしょう。
もしくは、この日が日曜日ではなく平日で、フォート・シャフターの陸軍防空情報センターに数多くの幕僚が詰めていてレーダー探知情報に接していれば、ひょっとしたら怪しい編隊と判断されて、パールハーバーは事前にある程度の迎撃態勢を整えることができ、被害も史実より少なくなった可能性もあったかもしれません。
アメリカにとっては最悪ともいうべき不運。日本にとってはきわめつけの幸運。これにより、旧日本海軍の空母攻撃隊は歴史上まれに見る戦果を挙げることになりました。
まさしく運命の女神の気まぐれといえるようなハナシですが、これこそが“歴史”なのだといえるでしょう。