太平洋戦争後の自然災害として、東日本大震災や阪神淡路大震災に次ぐ犠牲者数を出した伊勢湾台風。当時はまだ警察や消防などにヘリがなかったため、自衛隊と米軍が頼りでした。
見渡すかぎり一面の泥水。水没して屋根だけ浮かぶ住宅、孤島のようになった学校には多くの人が残されていました。飲み水も食料もなく、助けを待つ人々を救ったのは、自衛隊とアメリカ軍のヘリコプターでした。
このような光景は、2011(平成23)年に起きた東日本大震災での自衛隊とアメリカ軍による共同の救援活動、いわゆる「トモダチ作戦」を思わせますが、実は東日本大震災が起こる半世紀ほど前、1959(昭和34)年に起きた「伊勢湾台風」で、すでに同じような救援活動を実施していました。
いわば、この「トモダチ作戦」の元祖ともいえるような日米共同のオペレーションをふりかえってみましょう。
アメリカ海軍の空母「キアサージ」。写真は伊勢湾台風災害のあった1959年に神戸港で撮影されたもの(画像:アメリカ海軍)。
「伊勢湾台風」は、1959(昭和34)年9月26日の夕方に紀伊半島へ上陸して本州を縦断、死者・行方不明者合わせて5098名と、明治以降では最悪の被害をもたらした台風災害です。
特に大きな被害を受けたのが愛知県と三重県でした。26日夜、伊勢湾周辺の堤防を破壊した高潮が、愛知県の名古屋市南部や弥富町、飛島村、三重県の桑名市、長島町(現桑名市)などの沿岸部に襲来。突然の浸水に人々は避難する間もなく巻き込まれ、多くの命が奪われました。
まさに東日本大震災の津波を彷彿とさせますが、このような大災害にまず陸上自衛隊の守山および久居駐屯地の部隊が出動して人命救助を開始。夜が明けて浸水被害の深刻さが判明したことから、ヘリコプター部隊にも出動が要請されました。
陸海空自衛隊の新鋭ヘリが結集ヘリコプターの出動といっても、当時はまだ日本国内のヘリは限られていました。自治体が保有する防災ヘリなど皆無です。たとえば警視庁航空隊が発足したのは伊勢湾台風後の1959(昭和34)年10月、愛知県警察航空隊は1961(昭和36)年9月であり、東京消防庁航空隊に関しては1967(昭和42)年4月でした。
そのため、このときヘリコプターを組織的に運用できるのは、日本国内には自衛隊と海上保安庁しかなかったのです。こうして陸上自衛隊からはシコルスキーH-19Cとパイアセッキ(現ボーイング・バートル)V-44A、海上自衛隊からはシコルスキーHSS-1、航空自衛隊からは救難航空隊(現航空救難団)のH-19Cがそれぞれ出動し、被災地上空で活動を開始します。なお、これら自衛隊ヘリも1954(昭和29)年から順次配備が始まったものであり、陸上自衛隊のV-44Aに至っては発災と同年の1959年(昭和34)に配備されたばかりの新型機でした。

伊勢湾台風で救助活動に用いられた自衛隊のヘリコプター(リタイ屋の梅作画)。
かくして、自衛隊はこれらヘリコプターをはじめ最大で100個部隊、1万2000名を現地へ投入し、創設以来、最大となる災害派遣活動(当時)を行ったのです。
被災地は広範囲にわたって深く浸水しているため、自動車での進入は不可能な状況でした。一方、ボートは低速で積載量も限られています。
自衛隊はまず状況偵察、次いで救援物資の空輸を開始します。愛知県北部の航空自衛隊小牧基地と名古屋市内にある陸上自衛隊の守山駐屯地を拠点とし、名古屋市役所そばと名城公園などに臨時ヘリポートを設置して、飲料水、おにぎり、乾パン、キャラメル、衣類、ロウソク、ちり紙などのピストン輸送を行います。さらに、取り残された人々の救助、救急患者の搬送、医務官の派遣、消毒薬の空中散布など、あらゆる作業にヘリコプターを多用しました。
米軍、ヘリオペレーションを自衛隊に全委託自衛隊に続いてアメリカ陸海空軍と海兵隊のヘリコプターも参加します。機種はシコルスキーH-34やパイアセッキH-21B、パイアセッキHUPなどで、たまたま名古屋に寄港中だった海軍のエセックス級空母「キアサージ」がアメリカ軍の中心的な役割を果たしたようです。
驚くことにアメリカ軍は、約20機のヘリすべてを「日本で使ってくれ」とばかりに自衛隊の指揮下に預けます。そこで当時、小牧基地に所在していた航空自衛隊第3航空団の副司令が指揮官となり、英語が堪能な航空自衛隊ジェット戦闘機パイロットが通訳としてアメリカ軍ヘリコプターに同乗する形で、日米共同での救助活動が実施されました。

高波と台風で冠水した当時の三重県内の様子(画像:三重県)。
なかでも特筆すべきは孤立地域の集団避難です。長期間にわたり水が引かない地域の住民を避難させるというこの「作戦」に、日米合わせて40機のヘリと海上自衛隊の揚陸艇などが参加。10月2日から4日にかけて7000名もの被災者を救出しています。
自衛隊のヘリコプターを使った救助活動は、「1年分の作業を1週間でおこなった」と形容されるほど大変なものでした。ただ、その結果、当時の記録映像や報道写真には自衛隊とアメリカ軍のヘリコプターが大きく映し出されており、貢献度の高さが伺えます。
そのなかで、ある部隊では、自費で買ったお菓子を子供に配るために繰り返し飛行したと言い伝えられています。アメリカ軍でも「子供が気の毒で見ていられない」とお菓子を買おうとしたもののドルでは買えず、義援金を寄付するシーンが記録されていました。
時代が違っても、困っている人に手を差し伸べようとする気持ちに変わりはないのでしょう。災害大国である日本。もしもの時の備えと助けてくれる「トモダチ」は大事にしたいものと、改めて筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)は思います。
※一部修正しました(4月5日22時00分)。