沖縄が本土に復帰してから50年が経ちました。いまから半世紀前の沖縄はどのような状況だったのか、自衛隊に対する風当たりはどれほどだったのか、沖縄駐屯部隊を原隊とする元陸上幕僚長に話を聞きました。

聞くと見るでは大違いの沖縄の状況

 沖縄が本土に復帰してから50年を迎えたとして、2022年5月15日(日)、日本政府と沖縄県が共同で開催する記念式典が、沖縄と東京の2つの会場で同時に行われました、

 この間に沖縄県は目まぐるしく姿を変え、また自衛隊に対する県民感情も様変わりしました。沖縄県出身の自衛官もかなり増えたそうです。そこで、1974(昭和49)年に新米幹部として沖縄県の第1混成団(当時)に赴任し、現地で生活したご経験をお持ちの火箱芳文(ひばこよしふみ)元陸上幕僚長に、当時の沖縄の状況を振り返ってもらいました。

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沖縄本島で不発弾処理にあたる第15旅団の隊員(画像:陸上自衛隊)。

――沖縄赴任時、発足間もない第1混成団および沖縄出身隊員ら、そして沖縄県民と触れ合った際の率直な感想をお願いします。

 毎日、直に接するのは中隊長以下幹部や、中隊本部の陸曹、そして現場の陸曹、陸士の隊員であり、特に陸曹の人たちには、この右も左もわからない若造に対して本当に親身になって接してくれたと感じています。幹部として将来、指揮を受けることになる者へ自分の持っている戦闘戦技、訓練ノウハウや種々雑多な中隊業務を理解できるよう親身に指導してもらったのは、良き思い出です。私の原隊は第1混成団第302普通科中隊(当時)でしたが、いい雰囲気の中隊でした。

 沖縄県民との触れ合いは、外出時に隊員行きつけのスナックや沖縄料理店での店員やスタッフぐらいしかなかったものの、そうした方から「反自衛隊」といった言葉は聞いたことがありません。私が接した沖縄の皆さんは、親睦的で親切な方が多かったです。

 部隊には沖縄の方と結婚した隊員もいて、マスコミを通じて表に出る反自衛隊感情は、私が接してきた方々には微塵も感じませんでした。ゆえに沖縄のマスコミについては、自衛隊のポジティブな面は完全に無視し、かなり偏りがあるなと感じたのが正直なところです。

知られざる沖縄の偉人「桑江良逢氏」の存在

――最初の在沖陸自部隊のトップともいえる臨時第1混成群長(当時)に就任したのは、沖縄出身の故桑江良逢氏でした。氏は火箱さんの恩師といえる人だそうですが、故人についての思い出などありますか。

 桑江氏は旧日本陸軍士官学校を卒業したのち、満州(現在の中国東北部)の国境警備部勤務を経て1944(昭和19)年2月以降、西太平洋の赤道付近、メレヨン島(現在のミクロネシア連邦ウォレアイ環礁)に駐留する部隊の中隊長として終戦を迎えた方です。

 その後、1952(昭和27)年に警察予備隊へ入隊、第10普通科連隊長(滝川)や防衛大学校の訓練課長などを務めましたが、このとき、私も防大の1~2年生であったため、少しだけ接点がありました。

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陸上幕僚長時代の火箱芳文氏(火箱芳文所蔵)。

 当時、学生の間では沖縄出身で陸士を卒業し、メレヨン島で補給が途絶え草や木の根まで食べることで、死の淵をさまよいつつも生き延び終戦を迎えた苦労人と認識されていました。

 それでも桑江氏は、沖縄が日本に復帰することが決まると、配置予定の臨時第1混成群の編成基幹要員になり、熊本で編成に関する諸業務を開始。1972(昭和47)年3月1日に臨時第1混成群長になったのです。

 第1混成群に限らないのですが、新編部隊というのは各部隊から差し出された要員によって編成されます。要員を差し出してくれる他部隊は、いくら新編部隊が重要な意味合いを持っているからといっても、優秀な隊員を出してくれるわけではありません。場合によっては、能力的、あるいは性格的に手のかかるもの、要は厄介な人員をあてがってくることもあるのです。ゆえに、部隊においては団結、規律、士気が極めて重要になりますが、新編当初は寄せ集めであり、その点で不十分なことは否めません。

 そのため、新編時は指揮官の統率が極めて重要になるといえるでしょう。終戦から27年ぶりに本土復帰する沖縄は、旧軍への極めて悪い感情に加え、戦後27年間にわたるアメリカ軍のイメージもあり、県民の反自衛隊・反米軍感情が盛んなところでした。

故郷の沖縄を護るために奮闘

 このような場所に自ら希望して行こうと思う自衛隊員はまずいません。しかし、困難な状況のなか、桑江氏は第1混成群長、そして第1混成団副団長、さらには第1混成団長としてさまざまな対応にあたり、移駐直後から始まった「沖縄派兵反対デモへの対処」「住民登録保留問題」「不発弾処理」「急患空輸支援」「遺骨収集支援」「車両の右側通行問題」「沖縄での訓練実施問題」などを的確に処理して、見事なまでに全隊員の心を一つにして沖縄の陸自部隊の礎を築かれた方です。

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北熊本駐屯地で行われた臨時第1混成群の創隊式の様子。群旗を授与するヘルメット姿の壇上の隊員(向かって右)が桑江良逢臨時第1混成群長(画像:陸上自衛隊)。

 桑江氏は沖縄出身のため、沖縄戦では祖母、母、弟の家族全員と多数の親戚縁者、知人、友人が亡くなり、さらに満州時代の上司、同僚、部下などの多くが散っていったそうです。ゆえに、沖縄は桑江氏にとって「聖地」「聖域」であり、ここを守護するのが沖縄部隊指揮官の務めと受け止めたとも聞いています。

 また連隊長経験者が、後に群長になるのも極めて異例のことです。なぜなら、部隊規模を比べた場合、混成群は連隊よりも格下だからです。そのため、周囲にはかなり反対の意見もあったようですが、あえて沖縄の部隊指揮官を希望したことからも桑江氏の祖国防衛と沖縄への強い想いを感じざるを得ません。

 私が感じた桑江氏は、体格は小柄だが、豪放磊落、謙虚、誠実な人柄で、話しぶりはユーモアに富んでおり、万人が認める尊敬すべき大きな魅力を感じる大人(たいじん)でした。

 首里(現那覇市北東部)にあった泡盛のつくり酒屋の生まれと聞いていますが、泡盛を飲む姿が実に美しく、家に呼ばれ奥様の手料理を頂きながら軍隊勤務、自衛隊勤務での逸話を聞くことは実に楽しかったのを覚えています。

 まさに将帥たる部隊指揮官であり、真の軍人でした。私は将来、桑江氏のような男、指揮官になりたいと思い、部隊勤務を続けました。

沖縄における自衛隊イメージの変わりよう

――沖縄県内からの入隊者はこの50年で通算1万人近くにまでなりました。また郷土部隊である第15旅団の県内出身者は現在、全体の4割ほどにまでなったといいます。この点はどう捉えられますか。

 自衛隊が沖縄に配置された直後から、本土では「自衛隊派兵反対」、沖縄では「人殺し! 自衛隊帰れ」といった内容で度々行われてきた抗議デモは、年を経るごとに徐々に減っていき、復興は著しく進みました。2010(平成22)年3月、陸幕長として沖縄を訪れた時の沖縄の変わり様には目を見張るものがありました。

 今では反米軍を叫ぶ人こそいるものの、反自衛隊を前面に出して叫ぶ人はほとんどいなくなっているようです。これは、まさに自衛隊が沖縄に定着した証左だといえるでしょう。

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陸上自衛隊幹部学校の学生時(1尉)、現地戦術を実地で行う火箱芳文(指さす人物)氏(火箱芳文所蔵)。

 当時、隊員には沖縄出身者もいましたが、中には親戚に対して自衛隊に入隊していることを隠しているというものもいました。

自衛隊に入隊したことがバレると親戚中の恥といわれるので隠していますという隊員のハナシも聞いたことがあります。

 それが、半世紀の間に大きく変わったのです。復帰直後の沖縄では、今まで自衛隊や自衛官に接したこともなければ、同じ軍隊的組織という意味から旧日本軍とダブらせたり、また戦後27年間にわたる米軍統治の負のイメージから、自衛隊にあまり良い印象を抱かない県民が多かったのも事実です。

 しかし、沖縄所在の自衛官らによる真摯な活動、具体的には急患空輸や、不発弾処理など沖縄県に対するひたむきな貢献により、県民に「自衛隊は頼りになる」というイメージが浸透したことで、自衛官に対する気持ちが溶解していったものと考えます。

 それが自衛隊内における沖縄出身者の増加につながったのだと思います。大変すばらしいことであり、今後、ますます入隊者が増加し郷土の守りは自分たちの手で、と考える若者が増えることを願っています。

沖縄部隊OBとして南西諸島防衛を憂う

――これからの在沖縄自衛隊部隊の将来への展望や想いなどを、第1混成団OBとして一言お願いします。

 私が自衛隊に入隊した頃はソ連(当時)の北海道への侵攻の蓋然性が強いと言われていた時期で、在道部隊が最前線部隊であるという認識が強くありました。しかし1991(平成3)年のソ連邦崩壊で冷戦が終結、アメリカの1極体制になったのち、テロとの戦い、そして中国の台頭やロシアの復活などにより、結局、世界から対立はなくなるどころか、かえって米欧日等の民主主義国家と、中露北鮮等の専制主義国家の対立は深まっています。

 我が国を取り巻く安全保障環境は、核兵器を保有するロシア、中国、北朝鮮といった国々に囲まれる一方、アメリカの軍事力の相対的後退によって、今までで一番厳しい状況にあるといえるでしょう。

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航空自衛隊のYS-11輸送機から降り、沖縄入りした臨時第1混成群の隊員たち(画像:陸上自衛隊)。

 中国は巨大な軍事力を背景として、力による現状変更の試みを平気で実施できる国であるとともに、台湾併合は習近平国家主席の最終目標ともいわれています。

「台湾有事は日本の有事」と言われるのは、万一、台湾有事が起きたら南西諸島エリアは戦域に完全に入ってしまうからです。

 現在、南西地域防衛のため陸上自衛隊は南西地域に部隊を新編、拠点を拡大し、南西防衛態勢を強化しており、今後、この地域を担任する第15旅団に課せられた役割は現実味を帯びてきているといえるでしょう。それとともに南西地域における陸海空自衛隊の統合化も推進しておくべきです。その上で、日米の共同訓練を沖縄で頻繁に実施することも必要になるでしょう。

 沖縄部隊のOBとして、また沖縄を心から愛した桑江良逢氏の意図を具現する意味からも、沖縄を含む南西地域の防衛態勢を強化し同地域への侵略を抑止することが、まず必要だと考えます。沖縄に中国の侵略を許してはなりません。自衛隊には侵略に対処し、県民保護のための備えが必要です。「平和」と唱えるだけで何も手を打たないと、平和が破られたときに対処できないでしょう。

 第1混成団の伝統を受け継ぐ第15旅団の発展を心から応援していきたいと思っています。

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