世界中の人が集まる“眠らない街”新宿歌舞伎町に、鉄道の廃線跡があります。その跡をたどっていくと、鉄道ファン目線でさらに“エモい物件”がありました。

ゴールデンガイに見守られる廃線跡

 新宿歌舞伎町の一画に、鉄道の廃線跡を活用した空間があります。それは、靖国通りの新宿区役所前交差点から斜めに延びている脇道で、新宿遊歩道公園「四季の路」を名乗ります。ビルとビルのあいだを貫く石畳が敷かれた小道は、樹木も多く、繁華街に貴重な緑の空間をつくりだしています。

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四季の路は新宿区役所前交差点の脇から始まる(乗りものニュース編集部撮影)。

 さらに進むと、右側には「ゴールデンガイ」というド派手な浮世絵風の男の看板が。小さな飲食店が密集し、文化人が夜な夜な集うともいわれる「新宿ゴールデン街」の入口です。コロナ禍も明け、外国人の姿が多いのも印象的でした。

 ゴールデン街を横目に、遊歩道はさらにカーブを描いてビルの裏を貫きます。やがて遊歩道を抜け一般道路となりますが、そのまま歩道を進むと、明治通りの新宿六丁目交差点に出ます。

 交差点の反対側には日清食品の本社ビルが見えます。そこから続く「文化センター通り」もまた、かつての廃線跡です。

 この廃線の正体は、飯田橋方面へ延びていた「都電角筈(つのはず)線」。

大正時代に開通し、1970(昭和45)年に廃止されています。先ほどの「四季の路」の入口から、文化センター通りの坂を上った抜弁天通りの「東大久保」電停までは、道路上を走る併用軌道ではなく、専用線上を走る「専用軌道」でした。それが廃止された後に遊歩道や道路へと転用されています。

 ただし、四季の路から新宿六丁目交差点、かつての電停でいえば「新田裏」までは、戦後に明治通り経由のルートが併用軌道で開通したことで、四季の路の旧線は大久保車庫への回送線のように使われていました。

 その大久保車庫の跡地が、文化センター通りにある新宿文化センターです。脇の都営アパートの位置には車庫と本線をつなぐ引き込み線が通っていたといいます。

 歩みを進めます。文化センターの先で、文化センター通りは急に細くなります。この先で、線路でないもうひとつの“失われたもの”の痕跡を目の当たりにしました。

あれ、歩道と車道で高さが違う!

 文化センターの先で文化センター通りは新宿方向の一方通行路になり、クルマ1台分の車道と両側の歩道で構成される道に。左側(北側)の歩道を歩き、ゆるやかなカーブを進むと、車道との間にだんだん“段差”ができていきます。

 そのまま車道と右側の歩道は上り坂となっていくのに対し、左側の歩道の高さは変わらず、その高低差はどんどん拡大していきます。

 左側はもはや歩道でもなくなり、横の民家と車道の擁壁との間が人ひとり分くらいの幅の箇所も。その先で左側の道は突如としてコンクリート舗装の斜路へ切り替わり、急な上り勾配で車道と同じ高さになったあと、少し坂を上ると抜弁天通りに出ました。ここがかつての専用軌道の終端です。

 先ほどの、車道に比べて低かった左側の歩道、そこは「蟹川」という暗渠化された川の上といわれます。

新宿歌舞伎町の「廃線」って? 小道に隠されていた鉄道の記憶 その先はもっとエモかった
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かつての専用軌道の終端部。抜弁天通り付近から文化センター通りの坂下を望む(乗りものニュース編集部撮影)。

 蟹川は西武新宿駅付近から歌舞伎町の繁華街を横断し、文化センター通りの途中からさらに北へ進路を変え、最終的に神田川へ流れていました。都電の専用軌道は、その川筋に沿っていたそうです。周囲の地形も、この川筋に沿って谷となっていて、抜弁天通りと川筋との高低差を緩やかにすべく、線路が一部、擁壁で嵩上げされていたと考えられます。

 蟹川の跡は今ではほとんど判別できませんが、線路が道路となった今も、この擁壁と川筋との高低差は変わっていないのかもしれません。

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