二式複座戦闘機「屠龍」は、欧州での双発戦闘機人気に触発されて川崎航空機が開発した旧日本陸軍の双発戦闘機でした。初期こそ実戦には耐えられないとされますが、戦局の変化により日の目を見ることになります。
1941(昭和16)年9月に試作一号機が完成した二式複座戦闘機「屠龍」は、欧州での双発戦闘機人気に触発されて川崎航空機が開発した旧日本陸軍の双発戦闘機でした。しかし、太平洋戦争が始まった後の1942(昭和17)年に制式採用となった同機は、世界中の多くの双発戦闘機と同様に正面きっての単発戦闘機との戦闘は困難と判断され、後方に下げられます。
戦後アメリカ軍で調査される二式複座戦闘機「屠龍」(画像:アメリカ空軍)。
ですが、そこで役目は終わらず日本が劣勢になって以降、その真価を発揮します。敵の大型機相手にフィリピンで防空戦を繰り広げ、その活躍ぶりから「屠龍」という愛称を与えられます。
また、B-29が本土に飛来するようになると、2基エンジン搭載したことによる上昇力の高さ、機首の37mm機関砲や20mmの機関砲、さらに、大型爆撃機相手の戦訓で取り付けられた、胴体から斜め上に伸びる20mm斜め銃が有効だと判断され、B-29迎撃を念頭に置いた機体として運用が始まります。
しかし、当時の基準ではありえないほど超高高度を飛び、防御火器も豊富にあったB-29相手だと、「屠龍」でも攻撃のチャンスはそれほどありませんでした。
同機でB-29と戦えるパイロットは最精鋭B-29を撃墜するためには、有利な位置や高度で遭遇できるように、地上施設の協力は不可欠でした。そのため、地上からサーチライトや高射砲の支援を得るために、無線電話による緊密な協同体制が作ることが重要で、それらの情報を処理しつつ、B-29に肉薄し攻撃することができるという、かなり錬度の高い操縦員が求められました。
特に山口県下関市小月飛行場に駐屯する「屠龍」が配備された第12飛行師団隷下の第4戦隊は、対B-29の本土防空部隊としては日本一の精鋭部隊と称され、B-29を多数撃墜した樫出勇大尉を筆頭に多くのエース・パイロットを輩出しました。
一方で、「屠龍」の搭乗員はときに、B-29を“ぶつけてでも止めろ”といわれました。文字通り、体当たりしてB-29を撃墜せよということです。
しかし、それは特攻のようにパイロットの命を引き換えに戦果をあげる必死の攻撃ではなく、故意に敵にぶつける直前や直後に機体を放棄し脱出する「エアラミング」と呼ばれる戦法で、当時ドイツ軍も行っていたものでした。「屠龍」の搭乗員は練度が高く貴重なため、簡単に失うことができません。体当たりした場合でも、落下傘などでどうにかして脱出すること求められていました。
飛行する二式複座戦闘機「屠龍」(画像:パブリックドメイン)。
戦争も最終盤となると、B-29にP-51「マスタング」が護衛につくこととなり、「屠龍」単独でも昼間の戦闘は自殺行為になります。それでも、夜間においてはレーダー未搭載で目視に頼らざるを得ない状態にも関わらず、終戦まで戦い続けました。