京浜急行電鉄は東京の京浜地域、羽田空港、神奈川の横浜市内、三浦半島の浦賀、逗子、久里浜、三崎口方面を結ぶ大手私鉄で、愛称は「京急」です。軌間1435mmの標準軌を採用。
大師線は全線が神奈川県川崎市内にあり、距離は京急川崎~小島新田間の4.5km。線路はカーブや踏切が多く、多摩川下流域に沿って京浜工業地帯にあるJR貨物川崎貨物駅至近の小島新田駅までを結びます。優等列車はなく、4両編成の1000形電車の普通列車が往復しています。今回は、小型機からの空撮で、この4両編成の赤い電車を紹介します。
大師線の沿線には、古より人々に親しまれてきた関東三大厄除大師のひとつ「川崎大師」こと平間寺(へいけんじ)があります。この川崎大師への参拝客を鉄道で輸送をしようと、19世紀末の1899(明治32)年に川崎(1902年「六郷橋」に改称。現在の川崎駅や京急川崎駅とは別駅)~川崎大師間の「大師電気鉄道」が開業。さっそく参拝客輸送に大活躍し、開業からわずか3か月後、社名を「京浜電気鉄道」と改名しました。
やがて京浜電気鉄道は大森(東京)方面や神奈川方面へと路線網を延ばし、120年前の1905(明治38)年に、神奈川停車場前(現・神奈川)駅まで達しました。その後は東京急行電鉄(東急)へと合併し、戦後の1948(昭和23)年に分離して、現在の京浜急行電鉄となりました。京急は19世紀末から21世紀の今日まで、脈々と京浜地域の輸送を担ってきたのです。
ところで、大師電気鉄道は関東では初めて、日本でも3番目の電気鉄道として誕生しました。さらに全国に先駆けて、日本初の1435mm標準軌を採用した鉄道でもあります。
その後、京浜電気鉄道は1904(明治37)年に当時の東京市電との直通を考慮して1372mmへ改軌しました。しかし1930年代になると、三浦半島へ路線網を延ばす標準軌の湘南電気鉄道に合わせて再び1435mmへ改軌し、直通運転を開始しました。
川崎大師付近の上空から、ちょうど上り電車が見えました。川崎大師の特徴ある薬師殿が目に入り、その近くに駅があります。周囲は沿線再開発が進んで10数階建てのマンションが建ち、上空からだと川崎大師駅が隠れます。
大師線の沿線は、開業後しばらく耕作地や村が点在していましたが、多摩川河口部の一帯は明治末期から工業地帯化が進み、太平洋戦争前には工場が多く占めました。工場のなかには、1909(明治42)年に操業を開始した日本初のレコード会社「日本コロムビア」本社と川崎工場もあって、大師線にはコロムビア前駅がありました。その駅は港町と改称し現存しています。
さらなる地下化でルート大幅変更へところで、大師線は明治の開業時、京急川崎~川崎大師間の線路の位置が現在と異なり、当時は旧東海道と生活道路、国道409号をなぞる道路との併用軌道でした。明治時代の地形図と現在を比較しても六郷橋付近など道路形状が変化しており、正確にはトレースできません。
当初の線形は、国道409号「大師道」と大師線が交差する「京急川崎(大)第2踏切」の箇所で直角に曲がり、大師道の併用軌道となって本町交差点で旧東海道へと左折。引き続き併用軌道となって六郷橋のたもとを“へ”の字に曲がり、現在線と並走する生活道路上に軌道がありました。
京急川崎駅は京急本線が高架化されましたが、大師線は地上ホームです。高架と地上を結ぶ線路は東側となり、多摩川に架かる六郷川橋梁(京急本線)付近の下り線から連絡線が分岐して、大師線につながっています。
さて、川崎大師駅より東側の駅は、東門前、大師橋(産業道路から改称)、小島新田と続きます。この区間は近年大きく変化し、東門前~小島新田間が2019(平成31)年に地下化されました。
大師線は4.5kmの区間に踏切が15か所存在し、周辺道路の渋滞も慢性化しています。川崎市と京急にとって踏切解消は長年の課題であり、市の資料によると1993(平成5)年に連続立体交差化事業の都市計画が決定され、その翌年に計画事業が認可。1期の(1)東門前~小島新田間と(2)鈴木町の先~東門前間、2期の京急川崎~東門前間の計3区間のうち、2期区間は国道409号と132号の地下を通る計画でした。
川崎市は社会経済状況の変化や費用対効果など検討し、2017(平成29)年に2期区間を事業中止し、1期区間は事業継続とする方針を固めました。(1)東門前~小島新田間には交通量著しい産業道路が交差し、2019(平成31)年に地下化されました。
残る(2)区間は事業継続ではあるものの、(1)区間運行開始後に新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて大規模事業の見直しと転換が迫られ、2021(令和3)年に工事着手の見送りが決まりました。
大師線は、事業継続中の地下化工事が動き出せば大きく変化しますが、4両編成の1000形が行ったり来たりする姿は当面変わらないと思います。