大船渡線は一ノ関~盛間を結ぶJRのローカル線。このうち山間部を通る一ノ関~気仙沼間は、一部の区間で遠回りしています。
東北地方の鉄道路線図を眺めると、JR大船渡線のルートが大きく遠回りしているのが気になります。
一ノ関駅で発車を待つ大船渡線の列車(2006年7月、草町義和撮影)。
大船渡線は、岩手県一関市の一ノ関駅から宮城県気仙沼市の気仙沼駅を経て大船渡市の盛駅に至る、JR東日本のローカル線です。一ノ関~気仙沼間は山間部を通りますが、太平洋沿いの気仙沼~盛間は2011(平成23)年3月に発生した東日本大震災の影響で運休中。バス高速輸送システム(BRT)による代行バスが運転されています。
山間部のルートは東西を横断していますが、なぜか陸中門崎~千厩間は北の方へ大きく遠回りしています。この区間の営業キロは26.1km。直線ルートで結んだ場合の約3倍もの長さです。といっても、鉄道建設の障害になるような大きな山などが直線ルート上にあるわけではありません。なぜ遠回りしているのでしょうか。
大船渡線は1918(大正7)年に計画されましたが、当初は陸中門崎~千厩間で遠回りする予定はありませんでした。
この結果、国政の場で摺沢経由を求める声が強くなり、大船渡線の計画は摺沢を経由するルートに変わりました。しかし、変更後のルートは千厩や気仙沼には立ち寄らず、大船渡に直接向かうことになります。このため、今度は千厩の住民が動きました。当時の野党だった憲政会の協力を受け、ルート変更を求める運動を展開。1924(大正13)年に憲政会が第一党になったのを機に、大船渡線は千厩を経由するルートに再び変更されました。
『東スポ』前身紙がローカル線の建設を批判ただ、大船渡線はこの時点で一ノ関~摺沢間の工事が完成間近でした。この状態で直線ルートの計画に戻せば、陸中門崎~摺沢間の工事が無駄になってしまいます。そこで、摺沢から千厩に向かい、そこから先は最初に計画された通りのルートで建設されることになりました。

気仙沼駅の運賃表。路線図はデフォルメされているため、大船渡線の「遠回りルート」は描かれていない(2013年9月、草町義和撮影)。
これにより、陸中門崎~千厩間は遠回りに。そのルートの形が鍋のつるに似ていることから「鍋鉉(なべづる)線」と呼ばれています。ちなみに、1992(平成4)年には一般公募により「ドラゴンレール」という愛称が付けられました。この愛称を提案した気仙沼市の小学生(当時)は、命名の理由としてルートが竜のようにくねくねと曲がっていることを挙げていました。
このように、政治力をバックに鉄道を誘致した例は古くから存在しました。なかには大船渡線のように、政権交代の影響でルートが変更されたり、工事の中止と再開が繰り返されたりした路線もあります。
こうした状況を批判的にみるマスコミも、当時から存在しました。『東京スポーツ』の前身である『やまと新聞』は1914(大正3)年2月2日、鉄道を題材にした社説で「将来有望なる線路は勿論之を敷設すべき」としつつ「党人の我田引鉄の為め、地方にのみ鉄道を延長することは、大に警戒するを要す」と述べ、政治に左右されるローカル線の建設に懸念を示しました。
「我田引鉄」とは、「我田引水」(自分の田んぼにだけ水を引き入れる→他人のことを考えず、自分の都合のいいように行動する)にちなんだ造語。「自分の票田に鉄道を敷く」という意味です。
【地図】大きく遠回りする大船渡線のルート

大船渡線のルート。山間部の陸中門崎~千厩間は大きく遠回りしている(国土地理院地図を加工)。