山深く、厳しい自然が広がる「奥会津」。そこを流れる只見川の小さな渡し船が近年復活し、観光スポットとしてにわかに注目されています。
福島県西部、会津地方の山間地域「奥会津」は日本有数の豪雪地帯で、日本屈指の秘境ともいわれる地域のひとつ。只見川に沿ってJR只見線が走っていますが、途中の駅もほとんどが小さな無人駅です。そのような無人駅のひとつである早戸駅(福島県三島町)から徒歩10分のところに船着き場があり、そこから出ている手漕ぎの渡し船が、近年メディアなどで取り上げられ、にわかに注目を集めています。
霧が立ち込める只見川をゆく「霧幻峡の渡し」(加藤桐子撮影)。
この船は「霧幻峡の渡し」と呼ばれています。名前の通り、夏の夕方から早朝にかけては只見川に濃い川霧が発生し、その水面を10人乗りの小さな船が滑るように進んでいくという、幻想的でフォトジェニックな光景が人気の理由です。もちろん天候にもよりますが、朝、日が昇って気温が上がってくると川霧は次第に晴れ、水面は鏡のように山々を映し出します。かつてはもっと流れが早かったそうなのですが、只見川に11基のダムが建設されたことにより、水深が深く、緩やかな流れになったのだとか。
そんな川を船は対岸を目指して進んでいきますが、対岸にあるのは、廃村となった三更(みふけ)という集落の跡。いまは誰も暮らす人のいない場所です。
渡し船はかつて、三更集落の人々の重要な交通手段でした。街道や鉄道を利用するには対岸に渡らなければならず、陸路では大変な遠回りとなったためです。毎日の仕事や通学に渡し船は欠かせず、集落のすべての家に船がありました。専門の船頭などもおらず、小学校に入る前の幼い子も自分で船を漕いでいたといいます。
三更集落には江戸時代に人が住み始め、およそ250年に渡って静かな暮らしを営んでいました。集落は全部で10戸ほどでしたが、1953(昭和24)年にこの近くで硫黄鉱山の採掘が始まると、鉱山で働く人々で集落は大変賑わうようになりました。しかし、採掘開始から7年後には鉱山が閉山。運営していた事業会社も解散したため、鉱山跡は放置されてしまいます。
放置された採掘跡の穴には雨などの水が溜まり、付近の山は陥没や崩落を繰り返します。ついには「ブナ坂大崩壊」と呼ばれる大きな土砂崩れが起き、集落は土砂に埋め尽くされ、三更集落の人々は、この地からの移転を余儀なくされてしまったのです。それは1964(昭和39)年のことでした。
渡し船とセットの廃村ツアー、パワースポットとしても人気に廃村とともに渡し船はその役目を終え、姿を消しました。
かつての三更集落の風景をよみがえらせた霧幻峡の渡し。現在は4月下旬~11月下旬の土休日に予約制で運航されており、約15分間の船旅とともに、三更集落の跡地を巡るツアーが開催されています。
三更集落跡は、いまも廃村前の面影をところどころに残しているのです。霧幻庵とも呼ばれる旧山田邸宅は、雪国の典型的な家屋の造りである曲り屋で、太い柱は煤で黒光りし、長い年月を感じさせます。ツアーの際にはこうした古民家で休憩もできるほか、鉱山跡の見学では三更集落の歴史が垣間見られます。
さらに、この三更集落が誕生したおよそ300年前より人々の信仰を集めている大山祇(おおやまつみ)神社や、子宝と安産、子供の成長を願う人々が多く訪れていたといわれる霧幻峡子安観音、只見川を見下ろす場所に1944(昭和19)年に建立された霧幻地蔵も残されており、変わらず集落跡を守り続けています。これらは、「ブナ坂大崩壊」を含む度重なる災害を免れたことから、最近ではパワースポットとして人気が集まっているとか。

櫂(かい)を使う昔ながらの和船で運航される(加藤桐子撮影)。
近年、メディアなどに取り上げられるようになったとはいえ、近くの会津若松に住む人ですら、霧幻峡の渡しの存在を知らないという人が多いそうです。
※記事制作協力:風来堂、加藤桐子