JR山手線や京阪線など、大都市圏の鉄道では混雑緩和を図るべく、ドア数の多い通勤電車「多扉車」が導入されました。輸送面では画期的でしたが、近年設置が相次ぐホームドアとの兼ね合いで、まもなく見納めとなります。
通常、1両あたり片側3か所または4か所のドアがついている通勤電車。ひと昔前まで首都圏の様々な路線で、5ドアや6ドアの「多扉車」が組み込まれていましたが、ここ10年で次々と引退が進み、JR東日本では中央・総武線各駅停車からまもなく姿を消す予定です。多扉車はどのようにして誕生し、なぜ消えることになったのでしょうか。
まずは通勤電車のドアの歴史を振り返ってみましょう。初期の電車は外と客室内が直接つながっておらず、車両の両端にデッキにつながるドアが設置されていました。言葉にするとややこしいですが、これは現在の特急車両や新幹線車両と同様のスタイルです。
JR山手線に導入された6ドア車。写真は試運転時のもの(1990年3月、伊藤真悟撮影)。
ところが鉄道利用者が増加するにつれ、狭いデッキを介した乗降では時間を要するようになってきます。そこで都市部の電車では、まず客室の中央にドアを設置した3ドア車が登場。やがてデッキを省略してドアから直接車内に乗り込む現在のスタイルが確立しました。
長らく3ドアが標準の時代が続きますが、軍需工場への通勤輸送が急増した戦時中、混雑緩和を目的として鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に初めて4ドア車が登場。
戦後、鉄道利用者はさらに増加し、鉄道各社は列車の増発や車両の長編成化を進めますが、設備的な投資が限界に達すると、再び車両構造の工夫に目が向けられるようになります。
京阪線に5ドア、首都圏では山手線や横浜線に6ドアそのなかで、1両あたり約19mの3ドア車を使っていた京阪電鉄が1970(昭和45)年に導入したのが、5ドア車の5000系電車でした。ラッシュ時の混雑緩和を目的に、車内のなかほどにいる乗客の乗降時間を短縮するため、各ドアのあいだにひとつずつドアを追加したのです。
ただ、ここで問題となったのがラッシュ時以外のサービス低下です。これまで座席だったところにドアを設置するため、座席定員が大幅に減少してしまいます。そこで日中時間帯は追加した2ドアを締め切り、ドア上部に格納した座席を下ろして座席定員を増やすというユニークな構造を採用しました。
全車両が5ドア車である京阪5000系(2019年12月、乗りものニュース編集部撮影)。
首都圏に“多扉車ブーム”が訪れるのはバブル期のことでした。好景気を背景に急激に利用者が増加して、都心部の鉄道の混雑が激化。各社が対応に追われるなかで再び多扉車に注目が集まりました。
営団地下鉄(現・東京メトロ)は1990(平成2)年から1992(平成4)年にかけて、日比谷線の混雑を緩和するために、前後2両を5ドアとした03系電車を12編成製造。
続いてJR山手線も1991(平成3)年から、それまでの10両編成から11両編成に増強するにあたり、最も混雑する10号車に6ドア車1両を追加しました。この6ドア車は、ラッシュ時は座席を収納し、すべてを立ち席とする究極の通勤車両として登場したため、乗客からは不満の声が上がりましたが、乗降時間の短縮には効果を発揮したため、やがて横浜線や京浜東北線、埼京線などの路線に広がっていきました。
ホームドア整備に伴い消滅する多扉車京王帝都電鉄(現・京王電鉄)も1991(平成3)年、20m車体ながら全車両を5ドアとした6000系電車の増備車を導入しました。東急電鉄も2005(平成17)年から5000系電車に6ドア車を組み込んでいます。
1970年代の京阪電鉄と1990年代の多扉車が異なったのは、京王6000系5ドア車を除き、多扉車が編成のすべてではなく、特に混雑する一部の車両に限定して導入されたという点です。京阪5000系のような座席格納型多扉車は車両製造コストが高く、座席切換えの手間も要するため、京阪電鉄も含めてその後、製造されることはありませんでした。

東急田園都市線を走る5000系。もともとは6ドア車を組み込んだ編成だったが、ホームドアの整備に伴い、4ドア車に置き換えられた(2016年5月、大藤碩哉撮影)。
2010年代に入ると多扉車に受難の時代がやってきます。ホームドアの普及です。ホームドアを設置するとホーム上の開口部が限られてしまうことから、ドアの位置が異なる多扉車に対応することができません。
ただ、混雑緩和のために導入した多扉車を撤去できるようになった背景には、新線の整備や湘南新宿ライン、上野東京ラインなど新たな直通運転の開始などにより、都心の通勤電車の混雑率が緩和傾向にあるということも見逃してはなりません。緊急避難的に誕生した多扉車は、その役割を終えて歴史のなかに消えていくことになったのです。