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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第2回 権藤博・後編 (前編から読む>>)

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。

だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていたことを忘れてはならない。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。前編に続き、今ではありえない連投と勝利数をやってのけた権藤博さんの証言を伝える。

権藤、権藤、雨、権藤の回想。完投した翌日に150キロなんて出ない
1961年10月3日、国鉄戦を完封勝ちした権藤博。なんとシーズン12度目の完封だった 写真=共同通信

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 35勝を挙げた1961年当時、権藤さんの球種は真っすぐ、カーブ、シンカー、落ちるシュート。真っすぐは145キロ以上、出ていたそうだ。

「いや、以前、昔のニュースのフィルム映像を分析したら、149が出てるって。

これは、ちゃんとした人が分析してますから」

 ご本人があえて訂正を入れたあたり、スピードにはかなりのこだわりがあったのだろう。表情も口調も真剣そのものだった。

「でも、それも5月か6月までですよ。中何日かで投げてる間だけ。あれだけ投げて、150近くなんか出ないっすよ。ははっ」

 取材を開始してから初めての笑みが広がった。

てっきり、球が速かったから35勝もできたのだと想像していた。

「無理ですよ。中4日とか休んでて、それで『イゲーッ!』ていうなら出るけど、ははっ、完投した翌日なんて、スピードなんか出っこない。せいぜい142~143じゃないですかね」

 本当は常時150キロを投げたかった、というふうにも聞こえる。それでも142キロ出ていたとは、肩の回復力とスタミナのおかげか。

「いや、あの時代の試合時間の短さもあるんです。

今は平均でも3時間を超えるでしょ? 当時は2時間かからなかったね。で、完投するにはだいたい100球から130球ぐらい投げるわけですけど、それを2時間かけて投げるのと、3時間かけて投げるのでは、それはもう、疲れは1時間ぶん、5割増しですよ。やっぱり、ベンチでずーっと考える時間っていうのは、すごい疲れるわけですから」

 試合時間による疲労度の違い。これはまったく頭になく意外だし、ゆえに納得がいく。

「いいピッチャーはみんな、テンポがいいわけですよ。もう、稲尾(和久)さんでも、金田(正一)さんでも、藤田(元司)さんでも、大洋の秋山(登)さんでも、阪神の村山(実)、小山(正明)にしても、捕ったら投げ、捕ったら投げっていう姿が自信にあふれてるんです。

『モタモタ投げるなんて、おまえ、自信がないからだろ』みたいな風潮があって。だから、『じゃあ、捕って投げる速さも負けないぞ』みたいな。ね?」

 想像するとおかしい。当時のエースたちはそういうところでもお互いに競っていたのか。

「いやまあ、競うのは気持ちのなかでね。だいたい、『おりゃあ、ツーナッシングからでもいぐ! 勝負!』っつったらね、そのほうが頭はシャープになるわけですよ。

で、あの頃は、ベンチに帰ってくる、相手のピッチャーもいい。となれば、ものの5分でマウンドに出ていく。また自分も5分で仕留めて帰ってくる。だから、いつも思ってたのは、よし、今日は1時間45分から2時間の間に仕留めよう、それ以上、超えたら負けるなぁ、ということですよ。よっぽど、延長にならない限り、1時間45分から2時間の間で仕留めなきゃいかん、と僕は思ってましたね」

「ピッチャーが天下の時代」をこれほど実感できる話もない。野球は時間で終わるスポーツではないが、しかしその時代は、投手が時間を目安にして、ゲームを支配できていたのだ。

「で、あれだけ投げるもんですから、やられるもんならもう早くやられて、1日か2日かでまたいくぞーと。そのかわり、5回過ぎたからには負けるわけにはいかん、と思うわけですよ。でも、やられるなら、んなもん、今日はいか~ん、や~めた、みたいな。まあ、本当にやめるわけじゃないけど、あの頃、3点取られりゃ終わりですからね」

権藤、権藤、雨、権藤の回想。完投した翌日に150キロなんて出ない
権藤さんは取材時も、おなじみのポーズだった

「3点取られりゃ終わり」とは、"投高打低"の時代、打線による挽回が期待できなかったことを意味する。61年だけを見ても、優勝した巨人のチーム打率は2割2分台でリーグワースト。反対にチーム防御率は軒並み2点台で悪くても3点台前半。さらに同年の個人打撃成績を見ると、セ・リーグの3割打者は3人しかいない。ただし、首位打者=長嶋茂雄の数字は3割5分を超え、突出している。

「長嶋さんはどこ投げてもダメ。真ん中投げると、しまったぁと思ったのに内野フライなのに、いいとこ投げた~と思ったら、アゴ出しながらでも片手で打っちゃう。ホント、目が3つぐらいついてんじゃないか、アゴ上がってるけど、耳の横に目がついてんじゃないかっていうぐらい。あれは困ったね」

 長嶋といえば王貞治との対戦も気になるが、61年は一本足打法になる前の年だ。

「まだかわいいもんです。カーブ投げたらクルッと回って尻餅ついてるぐらい。で、次の年から一本足になってボコボコ打たれましたけど、王はいいコースにいけばフェンスの手前で止まると計算できた。それが長嶋さんはまったく計算が立たない。その点でいちばん困る、嫌なバッターだったわけです」

 計算が立たない打者はどう打ち取っていたのか。タイミングを外すしかないのだろうか。

「外す~なんていうよりも、結局、自分の持ってる球を力いっぱい投げれば、外れてしまうわけです。真っすぐと同じように腕を振って投げるとカーブがドローッと落ちる、というふうに。だから、2年目にちょっとバテてきたときには、真っすぐのスピードを変えるとかはやりました。今で言うチェンジアップですけど、握りは変えないです。困り果てた上で、真っすぐで抜く球を覚えたんですね。

 やっぱり、バッターにとっていちばん嫌なのは、スピードを抜かれることですから。真っすぐとわかってて、真っすぐがこない。カーブとかスライダーは緩急であるけれど、軌道が曲がるからバッターはタメられる。でも、チェンジアップは真っすぐの軌道でくるから遠近感とスピード感を計り知れないわけですよ」

 いかに力を抑えながら、打者を打ち取るか。それがそのときのテーマだったようだ。

「2年目のある時期、もう腹を決めたんです。バテバテだし、どうしようもないし、なに投げても通用しない。よし、緩い真っすぐで真ん中いってみぃ、と思ったら、見事にバットの先っぽでハマったわけです。スライダーもその頃ですね。ノンプロのときから投げてはいたんですけど、もう、ちょっと肩痛かったですから、ファウル、ファウルで粘られるときにスライダーをかける。でも、スライダーでもなんでも、私に言わせれば、球なんてのは、なに投げるにしても簡単だと」

 権藤さんはそう言って、ボールを握るしぐさをした。とっさに持参していたボールを差し出すと、スッと手に取り、真っすぐ、スライダー、カーブの握りを丁寧に説明してくれた。僕はその長い指に見入りながら、30勝を挙げた2年目ですでに肩を痛めていたことを思い返した。ならば1年目が終わって迎えたオフ、肩をはじめとする体のケアはどうしていたのだろう。

「それがね、なんにもするな、休めっていわれたんで、使った筋肉が固まってる。ほぐれるのに5月ぐらいまでかかったんです。だから今、肩痛めた選手によく言うんですけど、オフの間に肩を動かして、キャッチボールとかやっておきなさいと。そうしないと、表面上の筋肉は変わらないですけど、中の小さい筋肉、そのへんの部分の伸び縮みが悪くなる。そこへ引っかかって痛いんです」

 肩を休ませるだけでは、肩の筋肉にとってよくない。その事実を踏まえた2年目のオフ、痛み始めていた肩は改善に向かっていたという。

「わりかし肩はよかったんです。でも、そこが僕の、稲尾さんとかと違うところで。エンジンが違うというか、体全体の馬力がなかったんでしょう。だから、本来なら徐々にモデルチェンジすべきだったかもわかりませんね。少しずつ腕を下げるとか。

 だけど、やっぱり、入った年の、いちっばん、いい放り方で投げたいっていうのがあるわけですよ。それだけ肩を使って、消耗してきてんのに。まあ、若いのもあるし、経験もないし、コーチにもそういうことを教える人がいないわけですよ。2年連続30勝してるピッチャーに、言える人はいないわけですよ。ね?」

 コーチの指導はもう必要ない、と思われるだけの結果。しかし実際には、それだけの結果を残したからこそ、適切な指導が必要だったのだ。

「だから結局、自分で『こんなはずじゃなーい!』って言ってる間に、だんだん腕の回りが悪くなる。以前は大きくしなって曲がってたのがね。それで肩を痛めてるのに力でいこうとするから、腕の振りと球がくるのが同じになる。球は、いってるのにやられる、みたいな。そうすると今度、コーナーを狙う。ボールになる。そのうち、いつでもストライクを取れると思ってた自分のリズムが失われていく」

 いわば、悪循環のような状態で、10勝、6勝と成績が下がっていったということか。

「一口に10勝なんて、これがいちばん、いかんとこなんだけど、ひとつひとつの積み重ねが35勝になってるのに、たった10勝か~! と思ったときには、勝ったような気がしなかったもんね。そうなってる自分がまず、いかんわけですよ。なんだ、10勝か......、オレは最低でも20はできるのにその半分しかできない......。一回落ちたら、そこから這い上がっていかなきゃいかんのに、最低でも20を追いかけてるから、逆に次の年、6勝になってしまうし。10勝でも6勝でも、ひとつひとつの勝ったなかには、30勝当時と変わらないような球も投げてたんですよ」

 意外な言葉にハッとした。考えてみれば、すべての球の質が悪くて勝てるわけがないのだが、30勝とのギャップですべてが悪いように思い込んでしまっていた。いい球はあったのだ。

「それをいつも出そう、と思うけど、出なくなってる自分に気づかない。一度に3つも4つも勝てないのに、欲ばっかりかいてる。だから苦しい。肩も痛いのに無理させる。ただ勝ちたいと思ってガンガン力入れるから、ますます肩は痛くなる......。  でもね、そのときの経験が、後々の野球人生でいちばん身になっているのは確かなんです。肩を痛めてすごい苦しかったことがあるから、監督として優勝争いしてても、あのときの苦しみからすればどうってことないなと。それに、選手の痛みをわかってあげられて、選手を思いやれた。だから、30勝したとか、そんなのは、なんのあれにもならないんですよ」

 35勝、30勝、2年で65勝という数字があってこそ指導者としての人生もあり、今の権藤さんもあるのだとずっと思っていた。

「むしろ10勝、6勝があって今があるんです。30勝なんて、ただみんなが、すごいなぁ、っていうだけのことであって」

 権藤さんはそう言って、残っていたアイスティーをスッと飲み干した。2年で65勝を挙げた本人にしか言えない言葉が続く。そしてその経験から、「肩は消耗品」という持論が生まれている。

「本当に消耗品ですよ。バッターは道具を使って打つでしょ? 両手を使って棒切れを持って。ヘタすりゃ両打席、スイッチヒッターもいるけど、ピッチャーは右で投げたら左で投げて、右足で投げて、左足で投げてっていうわけにはいかないですよね? おんなじとこばっかり使うわけじゃないですか。だから終わったらアイシングして。強力な打撲したみたいなもんですから。毛細血管が切れてそこに血液が集中するから、それを防ぐために冷やしてるわけだから。だったらやっぱり、大事に使わないと」

 消耗品だからこそ、焦って無理に投げたり、無駄に投げたりしてはいけない。

「ほかのところから、じわじわ強くして、肩に負担がかからないよう、練習は考えなきゃいかん、ということです。で、指導者、特にアマチュアの人はうまくなるための道をつけてあげる。選手本人に対する方向性をしっかり説明することのほうが、技術を教えることよりも、僕は大切だと思いますね」

 そんな権藤さんは現在のプロの投手たちをどう見ているのか。

「やっぱり、自分の強力な個性を出す。それで戦い続ける。まず、戦うっていうこと。投げさせられてる? 投げてる? そんなもんじゃないのに、バッターに見下ろされてる。だから打高投低っていわれるけど、今年やっと、いいピッチャーが出てきた。この前のプレーオフ(2006年パ・リーグ第2ステージ)でも、ダルビッシュと斉藤が素晴らしい球を投げてましたね」

「ピッチャーが天下の時代」とはいかないまでも、真のエースが12人いる日本プロ野球になってほしい。

「そうだね。それでまた、バッターもがんばってね」

 権藤さんはそう言って、再びボールを手に取った。

「このボール。これ、武器なんですね。こっちのほうが絶対有利なんですよ。だから、ピッチャーはこれからも大変だけど、相手の武器である棒切れに負けないように戦わないと。『バーカ野郎、あんまり打ったら当てにいくぞ~!』ぐらいの。それが戦い。やっちゃいかんけど、それぐらいの気持ちを持ち続けなきゃいかん、ということです」

(2006年10月15日・取材)

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