7月27日、ノエビアスタジアム神戸。ヴィッセル神戸がバルセロナを迎えた試合後、表彰式が行なわれていた。

ピッチ脇に佇むアンドレス・イニエスタ(35歳)は、誰よりも質素で飾り気もなかった。裸足にサンダル。細身で、そのふくらはぎは杖のように細い。後ろに手を組み、ゆったりした立ち姿は、世界有数のサッカー選手というより小さなお寺の住職のようにも映る。黄色のビブスは8番だった。

イニエスタが人生初のバルサ戦で示した人間性。「自分は幸運」の画像はこちら >>

バルセロナ守備陣に切り込むアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)

 セレモニーが終わると、ひとつの現象が起きた。


 世界に冠たるバルサの選手たちがこぞって列をなし、イニエスタに挨拶をしに向かう。ひとりひとり、順番を守りながら、言葉を交わし、抱き合い、礼を尽くした。それはスターのサイン会、あるいは寺社に参拝する光景にも近かった。最後に元チームメイトであるセルジ・ロベルトは記念撮影をせがみ、イニエスタはにっこりとツーショットで収まっていた。

 やはり、イニエスタはイニエスタである。まさに、それを感じさせる夜だった。


 イニエスタは16シーズンにわたって、バルサひと筋でプレーしている。下部組織のラ・マシアで育ったことを考えれば、”バルサの権化”と言っても過言ではない。UEFAチャンピオンズリーグ4回、リーガ・エスパニョーラ9回、スペイン国王杯6回、FIFAクラブワールドカップ4回と、あらゆるタイトルを手にし、その間、スペイン代表としてワールドカップ、欧州選手権も制覇した。

 英雄的な足跡を残したイニエスタが、バルサを相手に戦ったとき、どのような感覚になったのだろうか。

「バルサを相手に戦うということは、奇妙で不思議な感覚だったよ」

 人生初のバルサ戦後、イニエスタはスペイン人報道陣の質問にそう答えている。

「仲間ではなく、敵だからね。
でも、楽しむことができたし、雰囲気を味わえたと思う。いったん試合が始まったら、いろんなことは忘れて、いいプレーをすることだけを心がけた。神戸のプレーも悪くはなかったと思う。スペシャルな日になったね。とても満足しているよ」

 この日、前半の45分間に出場したイニエスタは、いつものように”マジックアワー”を作り出している。彼がボールを触るたびに、プレーが旋回する。

適切なプレーを選択し、十分に敵を引きつけているから、味方のパスの受け手も楽なのだろう。また、敵のほころびを見破る戦術眼も高い。自陣から左足でスルーパスを右サイドの裏へ通すなど、バルサの高いラインを翻弄した。

 そしてイニエスタ自身、決定機を作っている。序盤、ダビド・ビジャの足元に鋭いパスを送るが、これがわずかに合わず、相手ボールになる。その瞬間だった。
イニエスタは出足の早い守備でボールを奪い返し、自身でシュートを放っている。ボールはわずかにゴール左へ逸れたが、場内を沸かせた。

 大げさに言えば、イニエスタひとりでバルサと互角に戦っていたような印象だった。事実、前半は0-0と健闘。神戸は押し込まれ続けたものの、イニエスタがカウンターから際どいで好機を作っている。

「(バルサ退団を)後悔は少しも感じなかった」

 イニエスタはその胸中を明かしている。


「バルサでもっとプレーしたいという気持ちが強かったら、よかったのかもしれないし、バルサの選手としてヴィッセルの選手たちを相手にプレーできたら、それも悪くなかったんだろう。でも、バルサでの僕の時間は去ってしまった。今は、違った形でフットボールを楽しみたい」

 イニエスタは静かな声で言った。試合後、バルサの選手たちからユニフォームを預かったという。リュックは満タン。自分というより、チームメイトに渡すためだという。

「自分はバルサというクラブでプレーする幸運があった。でも、チームメイトは違うから」

 イニエスタは説明したが、その謙虚さと優しさが彼の人間性で、それがプレーの深淵をもたらしてきたのだ。

 今後、イニエスタのような選手は出てくるのか。 スペインの名将で、神戸でイニエスタを指導したフアン・マヌエル・リージョに聞いたことがある。

「ほとんど不可能だ。アンドレスはそれほどの領域にいる」

 イニエスタは不世出の選手と言えるだろう。Jリーグは、イニエスタという伝説を迎えているのだ。

「試合の前日に家族は到着した。どうにか、試合に間に合ったよ。おかげでみんなが揃って、完璧な1日になった」

 イニエスタは穏やかな表情で語っている。

 結局、試合は0-2でバルサが勝利した。下部組織ラ・マシアの出身者、カルラス・ペレスの2ゴールだった。

「イニエスタのような選手と戦えるのは特別な気持ちだ」

 勝利の殊勲者であるペレスは、後輩としての敬意を忘れなかった。

 しかし、イニエスタは今を生きる。神戸はリーグ戦3連敗、15位と降格圏内で喘ぐ。バルサ時代には考えられない日々だろう。元バルサのDFトーマス・フェルメーレンを加えたチームは巻き返せるか。

 祝祭は終わったが、熱気に似た蒸し暑さはなかなか収まらなかった。