ありえない軌道で変化した「幻のナックルボーラー」三浦清弘の魔...の画像はこちら >>

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第9回 三浦清弘・後編 (前編から読む>>)

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。元号は令和となり、昭和は遠い過去になろうとしている。

個性あふれる「昭和プロ野球人」が残した貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。

 今も"日本で唯一、本物のナックルボールの使い手だった"といわれる三浦清弘さんから"魔球の出自"が明かされた前編に続き、後編では鶴岡一人監督のもと最強を誇った当時の南海ホークス、そして投手も捕手も制御できないがゆえに"幻"となりがちなナックルボールへの思いが語られていく。

ありえない軌道で変化した「幻のナックルボーラー」三浦清弘の魔球
1966年、南海のリーグ3連覇を祝う(左から)三浦清弘、渡辺泰輔、野村克也、皆川睦男(写真=共同通信)

* * *

 人並み外れて大きい掌(てのひら)を生かし、ボールに爪を立てて投じられる三浦清弘さん(元・南海ほか)のナックルボール。だが、あまりに不規則で大きく変化するためキャッチャーが捕球できず、試合で決め球に使うには難しいところもあったようだ。

「そやね。野村(克也)さん、なっかなか、サインを出さんのです。
で、出したら立ち上がるんです。ボールを叩き落とそうってね。そしたら、バッターは全部わかるわけでしょ? でも、わかっても僕のナックルは打てんねん」

 スピードがあって制御不能で、捕手が中腰になって構える──。[フォークボールの元祖]杉下茂さんに聞いた話と似通っている。杉下さんは「本来のフォークボールはナックルの一種」と言い、「キャッチャーが中腰になって、相手にわかっても打たれなかった」とも言っていた。

「うん。
だいたいね、ナックルは上に上がるような感じがする。で、フォークは必ず落ちる。だからキャッチャーも捕りやすい。だけど、ナックルはね、フワッファッ、ブワーッと行くような......。一口で言えんわね」


 再び手にしたボールの縫い目に爪が立てられ、そこに視線が落とされている。「近鉄の西本幸雄さんの話もあるでしょ?」と、取材に同席していた西嘉(にし よし)氏が尋ねた。



「あぁ、はっは。あれは日生球場か。当時はサードコーチに監督が出とった。で、僕が持ったら、ナックルの握りが見えるんですよね。それで投げようとしたときに、西本さんが『おいっ、ナックルやぞー!』ってバッターに大きな声で言うわけ。でも、オレ、言われても何ともないから。
次、ほうるとき、西本さんに『いきますよ』って握りを見せた。それでも打たれんかった」

「じゃあ、三浦さんのナックル、バッターに1回も打たれたことないんですか?」

「あるよ。1回......いや2回ある。1回はオープン戦で、ヤクルトの、名も知れんような外人ですわ。無茶振りするヤツ。バッとほったら、ビャーッと振って、たまたま当たったんやろね。
ホームラン。そう、外人いえばね、ロッテにアルトマンっておったでしょ? 大リーグから来た、すごいバッター。あれにようほっとって、空振り三振を取ったよ。

 ほんで『日本に三浦っちゅうピッチャーがおって、ナックルがすごい。アメリカに連れて帰りたい』ってラジオで言うてたらしい。『そのかわり、ナックル以外は打たれるから、ほうらさんでいい』と。
ははっ」

 西氏のおかげで図らずも、三浦さんのナックルに対する客観的な評価がわかった。「ナックル以外は投げなくてもいい」というアルトマンの言葉を真に受ければ、すなわち「ナックルボーラーとしてメジャーで通用した」と言い換えることもできそうだが......。

「それと、打たれたんは張本(勲)。あれね、最初ほったら空振りしよった。そしたらワシに向かってね、あいつが片目つぶるわけ。で、人差し指をこうして自分のほうに曲げて、もう1球ほうってくれって。ほんで、ほうったら、ショートの上にポーンとヒットを打たれた。あれ、黙ーってほうっとったら、合わせにこれないわね」


 少々アルコールが入っているからか、抑えた記憶も、打たれた思い出も、常に笑い交じりで語っている。58年、巨人とのオープン戦で新人の長嶋茂雄にナックルを投げ、顔面付近にいったボールが外角低めに決まり、見逃し三振に仕留めた話も披露された。三浦さん自身、プロ2年目のことだから、多用はしないまでも早くからナックルを投げていたわけだ。では、17勝を挙げた62年も武器として使えていたのだろうか。

「いやいや、17勝のときは鶴岡さんが長いこと一軍でほうらしてくれたから。それまではね、2~3イニング、ピタッと抑えても、次の日、また二軍や。上がったり下がったりの繰り返しやった。で、ワシはさすがに頭きて、ふくれとったんやろな。あるとき、鶴岡さんに『ちょっと来い』言われて」

 ずっと手にしていたボールがテーブルに置かれた。口調がやや荒くなっていた。

「鶴岡さんが『お前、オレの気持ちがわからんのか』って言った。ワシは『わからん』と答えたのね。そしたら『女房、子供おる選手が一軍におる。お前が上がってきたら落ちてクビや。したら、どうすんねん。辛抱せえ』と。それ聞いて、安心した。実力はワシのほうが上やのに使われんワケがようわかった。まぁ、それも強いチームやからできること。弱いチームにはできん」

 三浦さんが入団した57年から17勝を挙げる62年までの6年間、南海は2位以上をキープ。59年に日本一、61年にはリーグ優勝を果たしている。鶴岡監督にすれば、このメンバーで勝てるという計算があるなかで、選手の生活面も考えながら采配していたということか。

「そうそう。だから『親分、親分』と呼ばれた。でも、ワシら、ひとつも『親分』なんて思わない。ふふっ。あの人が生きとるときから言うとるもんな、ほかの選手も。『ナニが親分だよ』っつって。まぁ、それは奥にいろいろあるからね」


 思わぬところから、義理と人情を重んじたという鶴岡監督の本分が実感できた。と同時に、三浦さんが当初から期待されていたことも感じ取れた。考えてみれば、ナックルへの興味に引っ張られ過ぎて、そもそもはどういう投手だったのか、まだ何も聞けていない。「三浦さんの基本はシュート、スライダーだった」と村上さんから聞いていたが。

「そう、変化球でね。最初はワシも速かったんよ。けど、勝ち出してからは変化球ほうるようになって、球も遅うなった。あすこに蝶々がおるでしょ? ボールにとまりそうな。これ、あの人が貼ったんです」

 三浦さんが経営する、ふぐ料理店『三浦屋』に飾られた現役時代の写真に貼られた蝶のシールのようなもの。蝶がとまるほど遅いボール、という意味のようだが、ニヤニヤと笑っている西氏が貼ったらしい。ここまで西氏は絶妙の間で質問を挟み、合いの手を入れてくれて、相当な野球好きで知識も豊富な方と察していたが、三浦さんの写真にいたずらできるほど親密な間柄だったとは......。

「蝶々かトンボがとまるようなボールって、稲尾さんが言うたんでしょ?」と西氏が尋ねると、三浦さんは「おぉ、あのときのキャンプでな」と返し、2人で記憶を手繰り寄せていく。その対話によると、南海時代の72年、三浦さんは野村捕手兼監督からキャプテンに指名されるも、のちに監督対選手で確執があって退団を決意。

 すると、同郷で縁の深い太平洋の稲尾和久監督に請われて73年に移籍。春季キャンプの紅白戦に三浦さんが登板する。そこで主力打者が軒並み打てなかったため、「こんな蝶々かトンボがとまるようなボール、打てんのか!」と監督が怒鳴ったのだという。

ありえない軌道で変化した「幻のナックルボーラー」三浦清弘の魔球
三浦さんの店に飾られた現役時代の写真。蝶のシールが見える


 稲尾監督の言葉に三浦さんは腹を立てたそうだが、太平洋でもキャプテンに指名されたという話を聞いて、リーダーシップを発揮していた選手像が浮かび上がる。両監督とも、選手のまとめ役として頼りになると考えたのだろう。

「太平洋ではいちばん年上やったし、野村さんはワシを好きやったんやろな。だから、ワシが南海を辞めたあとも『こいつ、オレに反抗して裏切った』とか言いながら、よくしてくれた。で、野村さんのことを悪く言う者もおるけど、あんないいリードする人、ほかにおらん。あの、高めのスライダーとかシュートとか。その大事さが野村さんのリードでようわかった。

 低めにほうったらいかん、ということじゃなくて、強打者ほど高めが効くちゅうこと。張本もそれで相当、抑えたんやけど、高めでも顔の辺りにいったら誰も振らんわね。ちょうど、腰のちょっと上辺りを通ると、いちばんグッと詰まってフライになる。さっき、『コーチにも教わったことない』言うたけど、これだけは野村さんに教えられたね」

 それにしても、低めに変化球を投げるのが当たり前、という練習を積んできたなかで、高めに要求されてすぐ投げられるものなのだろうか。

「僕は投げた。コントロールがいいから。それができんピッチャーはプロじゃない。そういう面では、村上(雅則)もいいピッチャーだったけど、コントロールがもうひとつだったかな。しかしボールには威力があった。今度、あいつに会うたら言うとってください。『威力のピッチャーや』と。ワシは技のピッチャー」

 変化球を巧みに操り、制球力のよさで打者を牛耳る「技のピッチャー」。いかにも、蝶が貼られた写真の脇には〈巧投、熱投 一五○勝 後援会一同〉と毛筆で書いてある。150勝?

「実際には132勝。それをね、後援会の会長さんが『150勝って書いておこう』と。見ても誰もわからんからって。はは。しかし、今思うとね、ナックルをもうちょっとほうっとったら、200勝しとる」


 顔中にいたずらっぽい笑みが広がっている。どこかへ揺れ落ちていたナックルが、急に舞い戻ってきた。やはり、三浦さんにとって武器になり得るボールだったのだろう。

「自分としたら、自信あったんですよ。ただ、野村さんが捕れんかっただけで。あの、決まったときの、すごい揺れ方......。だから今、もうちょっとナックルをね、ブンブンほうってみたかったなぁと思う」

 投げたい意思があっても投げられなかったボール──。ふと、[幻のナックルボーラー]という言葉が思い浮かんだ。ただ、投手としての特徴とナックルとは、相容れない部分があるような気もする。コントロールがよかった三浦さんとすれば、制御できないナックルは異質な球種であって、必ずしも頼れるボールにはならなかったはずだ。

「そうよ。ナックルだけで勝とうと思ったら大間違い。やっぱり、スライダー、シュートでいったから勝てたと思う。だけどね、たまに決まるから、ついほうってしまう。で、バッターがびっくりする顔見るの、楽しいし。

 だから遊び球やね、ナックルは。勝ってるとき、余裕のあるときしかほうらない。決め球になったときもあるけど、本当に困ったときにはほうらん。だって、ピンチで、ランナーがサードにおったら、ほうれんでしょ? 野村さんがパスボールして1点入るんやから。はっはっは」

 何か話がまとめに入りかけているようだったが、「この写真は3年目ですよね?」と西氏が言ったのを契機に、話は59年の日本シリーズ初登板の思い出へとつながった。正面の鴨居に掲げられたそのパネルには日本一達成後の南海ナインが写り、鶴岡監督に度胸のよさを見込まれて抜擢されたという、当時21歳の三浦さんも写真中央で笑っている。

 初登板は、南海が初戦を取って迎えた第2戦。巨人2点リードで迎えた2回、二番手で登板した三浦さんはピンチを切り抜け、4回まで無失点に抑える。4回裏に南海が4点を取って逆転し、勝利投手のチャンスも巡ってきた矢先、鶴岡監督に交代を告げられた。


「鶴岡さんがオレの肩に手を回した。そんなん、オレ、初めてや。で、『三浦、ようほうってくれた。杉浦に代わってくれ』と。それでスギさんが勝って、4連勝になった。でもオレ、あと1イニングほうったら勝利投手や。そしたら、あの、4連投4連勝の伝説はない」

 鶴岡監督率いる南海は、それまで日本シリーズで巨人と4度対戦、すべて敗れていた。「巨人に勝ったことない鶴岡さん。怖いな、と思うてたんでしょう。で、絶対もう杉浦だと。その年、杉浦さんは38勝ですからね」と、西さんが簡潔に解説してくれた。三浦さんは西氏のほうを向いたまま話を続けた。

「逆に言うたら、あの伝説はオレがつくった。スギさん、ウチの店に来てそういう話になって、『あのときの4連投すごいですね』って言われると、『いやいや、あれは三浦が代わってくれたからできた』と言う。ただ、オレのおらんとこではね、『ありがとうございます』って言うてたはずよ。間違いない」
 
 エースがつくった球史に残る伝説の裏に、度胸のいい若手投手の好投があった。ただ、三浦さんは、実際には裏も表もない、ということを言っている。そして、その豪快な話しぶりから、打者を抑えるためにひたすら〈熱投〉する姿がリアルに想像できた。

 夫人に「そろそろ、お食事しましょうか?」と言われ時計を見ると、7時を回っている。座敷席には三組のお客さんがいて、店内はにぎやかになっていた。西氏が立ち上がって、「じゃあ、僕、そろそろ帰りますわ。村上さんによろしく」と言った。僕が挨拶をすると、三浦さんは「どうもどうも、西さん、気ぃつけてな」と見送り、自ら厨房に入って生ビールを注いだ。

 戻ってきた三浦さんが「あの人、南海ファンでね、今はソフトバンク。もう、すごいよ。なんでも知っとる」と言い終わらないうちに、夫人からパンフレットのようなものを手渡された。表紙には三浦さんのサイン、緑色で〈Hawks〉のロゴと背番号〈34〉が配され、裏表紙には7枚の投球フォーム写真がデザインされている。


 中身は新聞と野球雑誌に掲載された三浦さんの記事。西氏が自力で作成したそうで、お客さんに配っているという。「ウチにしょっちゅう来てくれるんよ」と、三浦さんはお店あっての縁を強調したが、西氏ほど親切で熱いファンもなかなかいないと思わされる。第一、そうした形で応援される往年の名選手に会うのは初めてだ。

 ざっと各記事に目を通すと、ナックルについても触れてある一方、入団時に浅黒い肌で痩せていたために"ガンジー"とあだ名されたこと、柔軟で強靭なヒジがスポーツ医学の研究対象になったこと、さらには30年ほど前にお店を開いた経緯に至るまで、僕自身、事前に調べがつかなかった内容で充満している。これらすべてを把握している西氏を、今日の取材のために三浦さんが呼び寄せたことにようやく気づかされた。

「さ、食べて! ふぐなんか食べる機会ないやろ? で、もう聞くことない? 今回、ナックルの話で来たと思うけど、野球のことやったら、なんでも聞いてください」

 ひれ酒とてっさに始まり、三浦さんに食べ方の指導を受けながら恐縮しつつ、ふぐ料理をいただいた。その間、ピッチングのことを改めて聞くなかで南海のチームカラーが語られ、現役引退後のコーチ、スカウト経験から高校野球にまで話が広がった。雑炊が用意された頃には対話も雑談めいたが、再びナックルが話題に上がると、三浦さんはまじまじと僕の目を見て言った。

「村上には連絡できるの? ちょっと、コールしてみよ。あいつと話すの久しぶりや」

 僕は即座に携帯電話を取り出した。村上さんの番号にたどり着いたところで顔を上げると、大きな掌が目の前にあった──。

「マサ、わかるか。オレじゃ。三浦や。今日な、わざわざ東京から取材に来て、ナックルの話、したけどな、お前、オレとキャッチボールして当てんかったか? そうか。柴田か。しかし、よう言うてくれた。ナックルはオレが日本一、世界一やと。はっはっは。いや、ありがとう、ありがとう。ちょっと待って、今代わるから」

(2009年9月25日・取材)

◆連載第10回を読む>>