リオ五輪代表のリベロ
佐藤あり紗インタビュー 前編

 バレーボールにおける守備専門のポジション、リベロ。1990年代後半から採用され、身長が低い選手がトップレベルで活躍することが増えたが、リオ五輪の女子バレー日本代表でリベロを務めた佐藤あり紗もそのひとりだ。

宮城県の名門・古川学園ではアタッカーとして全国大会にも出場した佐藤が、大学で迎えた転機と、その後のオンピックに向けた戦いについて語った。

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2016年のリオ五輪にリベロで出場した佐藤あり紗 photo by Sakamoto Kiyoshi

――バレーを始められたきっかけから教えてください。

「母がママさんバレーをやっていたのと、6つ上の姉がスポーツ少年団でバレーボールをしていたのがきっかけです。最初に『バレーボールって楽しい』と思ったのは、幼稚園の時に母と一緒に体育館に行って、サーブを打ってみたらそれが入った時ですね。ママさんたちに褒めてもらって、『バレーボールをやりたいな』と。実際に始めたのは小学校2年生からです」

――バレーボール一家だったんですか?

「父だけがやっていなくて、姉も高校までプレーしていました。

双子の姪っ子と、甥っ子もバレーをやっているので、佐藤家はバレーボールを中心に回っています(笑)」

――高校では地元・宮城県の強豪である古川学園で、ライトアタッカーとしてプレーしていました。当時の春高バレーはまだ3年生が出られませんでしたが、1年生の2006年大会から2年連続で出場(結果はどちらも2回戦敗退)しています。その時のことは覚えていますか?

「他の大会と比べると会場も大きく、たくさんの方が応援に来てくれました。春高バレーは高校生にとって憧れの場。小学生の頃から古川学園が春高バレーに出ているのをテレビで見ていたので、自分もその舞台で試合ができたのはすごく嬉しかったです」

「バレーは2015年でやめようと…」それでも佐藤あり紗がリオ五輪に出場した理由

現在は、リガーレ仙台の選手兼監督を務めている photo by Matsunaga Koki

――高校時代の活躍が、東北福祉大学の当時の監督で、元日本代表でもある佐藤伊知子さん(現同バレー部の部長)の目に留まったんですよね。

「古川学園の監督の勧めもあって、東北福祉大に進学しました。

私は保育士になりたかったので、本当は違う大学も考えていたんですが......今では福祉大に入ってよかったと思っています。アンダーカテゴリーの日本代表に選ばれたのも、大学でリベロに転向してからだったので」

――リベロになったのは、佐藤監督の勧めですか?

「いえ、自分の判断でした。大学のチームの中で私は小柄(166cm)で、その中で存在感を示すにはどうしたらいいかを考えた末に、得意としていた守備を専門とするリベロになろうと決意したんです。それが大学2年生の、10月か11月だったと思います。それ以降は、スパイク練習には入らないで守備練習ばかりしました。

 でも、監督に『リベロとして起用してください』と言ったわけではありません。

当然、チームにはもともとリベロの選手がいましたから、特別扱いをしてもらうような行動をとるのは違うと思っていました。あくまでアタッカーという立場で守備面をアピールして、その結果、監督に認めてもらえてリベロに転向することができました」

――大学卒業後、日立リヴァーレにもリベロとして入団し、1年目の2013年に初めてシニアの日本代表に選ばれました。2012年ロンドン五輪の翌年で、日本代表が新たな選手を試そうとしていた時期ですね。

「いろいろとタイミングと運に恵まれて、選出していただけたのかな、と思います」

――シニア代表での初試合は?

「2013年の8月に地元の仙台で開催された、ワールドグランプリ仙台大会ですね。その時も、いろんな事情が噛み合っての招集で、代表チームに合流したのも試合の3、4日ぐらい前でしたから、やはり運の力です。その年度の日本代表が発表される時点では、登録メンバーが40人くらいいるので、大会のメンバーに呼ばれた時は『まさか自分が?』という気持ちでした。

 最初はとても嬉しかったのですが、『私が仙台出身だからなのかな』とも思うようになって。その大会で起用されたのは3試合しかなかったですし、それ以降も代表で起用してもらえるように、『最後までボールを追いかけること、自分ができることをすべてやる』ことを自分に課しました」

――その結果、同年11月のワールドグランドチャンピオンズカップ(グラチャン)にも出場して、ベストリベロ賞にも輝きました。大々的にテレビで放映された大会での活躍で、周囲の反応も変わったんじゃないでしょうか。

「そうですね。仙台で代表デビューした際も、SNSや、テレビなどを通してプレーを紹介してもらったんですが、グラチャンでさらに認知してもらい、応援のメッセージもたくさんいただきました。『一生懸命頑張って結果を出すことによって、いろんな人をハッピーにできる』ということを感じた大会でしたね」

――2014年10月の世界選手権にも出場しましたが、翌年は代表を辞退していますね。

「2014年の年末に膝のケガをしたことが大きな理由です。バレーは2015年でやめようとも決めていました。だから膝を『しっかり治そう』ということもなく、テーピングをして、だましだましやっていて。バレーボールをやめたい、離れたいということは、チームメイト、スタッフ、家族にも話していました」

――それでも、リオ五輪イヤーの2016年には再び代表に名を連ねます。

「その時はすごく悩みました。でも、オリンピックがある年に代表に選んでもらえた時に、今まで自分を支えてくれた方々への恩返しは、オリンピックという舞台でバレーをすることなんじゃないかと思い直して......。

それで頑張ろうという気持ちになりました」

――同年5月に行なわれた世界最終予選(OQT)で、出場権を獲得した時のことは覚えていますか?

「そのイタリア戦は2セットを取ればよかったみたいなのですが、いざ獲得した瞬間は、選手はわかっていませんでした。『試合は終わってないのに、なんか会場が騒がしいな』と(笑)。徐々に状況を理解していきましたが、細かい計算にとらわれず、『1点を積み重ねてとにかく勝つ』という意識が高かったんだと思います」

――OQTに出場できるメンバーは14人で、その後ワールドグランプリがあり、オリンピックに向けて12人に絞られるわけですが、そこも意識しましたか?

「すごく意識しました。チームメイトだけどライバルでもあるので、自分が出ていない試合で他の選手が活躍していると、少し複雑な気持ちになっていたのが正直なところです。それまで日立リヴァーレではレギュラーとして出場していましたし、試合に出ていない時の気持ちの保ち方も難しかったです。

 ワールドグランプリが終わるまでは12人のメンバーがわからないですし、ひとり選手が違うだけでも連携の形などがまったく変わるので、チーム力を高めるという点では時間が足りなかったように感じました」

――リオ五輪の結果は5位タイ。オリンピックの本番では、「海外チームの選手たちが、他の大会とは目の色を変えてくる」とよく聞きますが、いかがでしたか?

「まったく違いましたね。他の大会とは別のチームと戦っているようでした。チームとしてもいろいろ対策をして、私自身は男性スタッフにサーブやスパイクを打ってもらうなど準備をしていましたが、反省する点が多かった大会でした」

(後編につづく)