<冬季五輪名シーン>第2回
1998年長野五輪スキージャンプ・原田雅彦

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いよいよ2月4日からスタートする北京五輪。開幕を前に、過去の冬季五輪で躍動した日本代表の姿を振り返ろう。

あの名シーンをもう一度、プレイバック!

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原田雅彦、長野五輪で金メダル獲得前にあった大スランプ。フォー...の画像はこちら >>

長野五輪ジャンプ団体で悲願の金メダルを獲得し、涙する原田雅彦

【「やったよ、やったよー」】

 1998年2月15日、長野五輪スキージャンプ・ラージヒル男子個人。1本目では3位にも13.6点差の6位だった原田雅彦は、2本目で最長不倒距離の136mを飛び、1本目トップで原田と21.8点差だったアンドレアス・ビドヘルツル(オーストリア)を0.1点抑えて銅メダルを獲得した。

 フラワーセレモニーが終わりミックスゾーンに来た原田に「おめでとう」と声をかけると、赤い目をした彼は抱きついてきて、「やったよ、やったよー」と悲鳴のような、か細い声で言葉を繰り返した。

 このシーズンのワールド(W)杯で日本は、長野五輪前の17大会で原田と船木和喜が4勝ずつあげ、表彰台独占が2試合あるほど好調だった。なかでも原田は3試合あったノーマルヒルでは全勝。ラージヒルに比べて滞空時間が短いノーマルヒル。正確な技術に加えてパワーも必要だが、パワフルな踏み切りで高い飛行曲線を描く原田は結果を出し続けていた。



 2月11日に行なわれたノーマルヒル、原田の優勝は確実だと予想されていた。その期待どおりに1本目は91.5mを飛んでトップに立った。だが、1本目4位から2本目で90.5mを飛んでトップに立った船木がメダルを確定させて残りふたりとなったところで風が変わり始めた。1本目2位のヤニ・ソイニネン(フィンランド)は向かい風が強くなって少し待たされたが、89mを飛んで2位以上を確定。最後の原田もしばらく待たされ、K点付近は横風になった状態でのスタートになり、84.5mで5位まで順位を落とした。表彰台独占の期待もあった日本は、船木の銀メダルのみに終わったのだ。

「体調もトレーニング内容もよくて、十分だと手応えを感じすぎたのかもしれない。試合に入ってもどこか集中できなかったというか、金メダルだと浮足立っていたのだと思う」

 そう話す原田。小野学ヘッドコーチは「2本目も大して不利な状態ではなかったので、90mを越えられなかったのは悔しかった。1本目も普通に跳んでいれば95mに入っているはずだから、力んでしまって自然な動きができなくなっていたと思う」と分析した。

【大スランプを乗り越えて】

 1994年リレハンメル五輪ラージヒル団体のジャンプの失敗以来、ガクンと調子を落としていた原田。追い打ちをかけたのは五輪翌シーズンのW杯開幕戦で、直前に骨折した葛西紀明の代わりに出場した船木が優勝し彗星のごとく世界トップへ駆け上がったことだ。

 船木のジャンプは上半身を動かさず低く鋭く飛び出すのが持ち味。

理想形と言われたその飛び出しを意識したことで原田のジャンプは崩れてスランプに落ち込み、1995年1月からはW杯遠征メンバーからも外れた。そして、前回優勝者として出場した2月の世界選手権ノーマルヒルでは、このシーズン総合5位と好調だった岡部孝信が優勝し斎藤浩哉が2位になるなか、原田は53位と惨敗だった。

 周囲では原田について「もう終わりだろう」との雰囲気にもなっていた。低い飛び出しを意識する練習を続けるなか、「俺を船木にさせるつもりか、岡部にさせるつもりか」と、怒りを爆発させた原田は、自分のジャンプを取り戻すための取り組みを始めたのだった。

「僕は人より飛び出す位置は高いが、そのほうが脚力を生かせるし、人よりうまく体を使えている。僕が低い飛び出しをしても船木や岡部のようにはならないし、逆に、船木に僕のジャンプをマネしろといっても無理なんです」

 自分の進む道が明確になった原田。

1995年秋から復調し冬にはW杯初戦で3位になると3戦目で初優勝。シーズン終盤にも3勝を挙げて総合5位と復活した。翌シーズンは開幕から波に乗れないなか、ろっ骨を折る危機もあったが、1997年2月の世界選手権はノーマルヒル2位でラージヒル1位と、大舞台での強さを見せつけたのだ。

 船木とともに好調のままで臨んだ長野五輪だったが、原田にはこのシーズンでひとつの懸念があった。どの試合も全体的な傾向として、飛距離を伸ばすようなゲート設定になっていたことだ。船木のような低い飛行曲線を描く選手は飛距離が伸びてもランディングバーンをなめるように飛ぶために着地はしやすいが、高い飛行曲線を描く原田の場合、上から落ちるような着地になって衝撃も大きく恐怖感も出てくる。


 長野五輪もノーマルヒルは飛距離を抑え気味にしたゲート設定だったが、2月15日のラージヒルは「これ以上跳ぶと危険」と設定されたジュリーディスタンスの126mを多くの選手が越えていた。

 そうしたなかで、原田の1本目は不安が出たのか、腰が引ける踏み切りになり120mで6位という結果。1位は131mのビドヘルツル(オーストリア)で、2位は130mの岡部。原田とトップの差は21.8点で優勝を狙うには厳しくなった。

【ドラマ続きの長野五輪】

 追い込まれた原田は2本目、開き直った。ほどよい向かい風のなかで思いきり飛び出すとグングン飛距離を伸ばし、大歓声のなかで130mを大きく超えて着地した。

結果が表示されないままで競技は続行される。1本目4位の船木が132.5mを飛んでトップに立ったままで全選手が飛び終わり、電光掲示板には原田の名前はなく、船木、ソイニネン、ビドヘルツルの順番で表示された。

「あまりに飛型が悪すぎて上位に絡んでいないのかと思った。いかんと思ったけれど、自分のスーパージャンプに酔っていたから、これからどんなパフォーマンスをしようかと考えていたんです」

 原田はこう振り返る。だが、それからしばらくすると電光掲示板の上から3番目に原田の名前が掲示され、飛距離はジャンプ台記録の136mと判明した。飛距離を正確に判定するビデオ装置は135mまでしか計測できなかったため、結果が出るのが遅れたのだ。

「1回目のジャンプでメダル争いから外れかけたが、ラージヒルは何が起きるかわからないから諦めていたわけではない。2本目は自分をアピールすることだけを考えていた」

 追い詰められて開き直り、ケガの恐怖心を振り払ったからこそできたビッグジャンプ。銅メダル獲得で、追い詰められた気持ちからようやく解放された安堵感が、最後は悲鳴のようなつぶやきになったのだ。

 だが、原田にはまだドラマが待っていた。

 その2日後のラージヒル団体は、日本はW杯の国別総合順位も1位で「金は確実」と言われる状況だった。加えて、この大会最初のノーマルヒル個人は全員が9位以内で、ラージヒル個人は金と銅に加えて岡部は6位と好調を維持。ラージヒルで斎藤は2本目に進めなかったが、彼はW杯でも2位1回、3位2回と安定感のある選手。ラージヒルもあられのような細かい雪が追い風とともに降る悪条件で、彼の前後の選手はすべて飛距離を伸ばせなかった結果だった。

 ラージヒル団体の当日は、朝から激しい雪が降り、W杯なら延期か中止になるような天候だった。試合に先立つ試技は第2グループが始まってすぐに中止になるほど。それでも試合は小雪になったのをみて、予定より20分遅れで強行された。

 そんななかで日本は、2番目の斎藤が130mの大ジャンプを見せ、トップに立った。残るふたりはラージヒル個人で銅の原田と金の船木。さらに差を広げて優勝を確実すると思われた。

 しかし第3グループの途中から降雪は激しくなって飛距離を伸ばせない状態になった。最後の原田のジャンプ時は、踏み切る助走路の先端も見えない状況で、原田は79.5mに着地。観客席をおおった悲鳴は、4年前のリレハンメル五輪を思い出させた。

 このグループ、前半のロシア選手は時速90.5㎞出ていた助走速度も、原田のひとり前のドイツ選手は88.8㎞に落ち、原田はそれより遅い87.1㎞。降雪が一気にひどくなってきていて、まともに戦える状況ではなかった。それでも競技は続行され、日本の1本目は4位で終わる結果になった。

 即座に2本目が開始されたが、再び降雪が激しくなり8人飛んだところで中断。このまま中止されれば、日本の団体は4位になってしまう危機に追い込まれた。だが、間もなく天候が回復して再び競技が始まると、1番手の岡部が137mを飛んで悪い流れを一気にひっくり返し、斎藤も無難に124mを飛んでその位置を守った。

 原田の2回目は、彼にとっては少しオーバースピード気味のゲート設定だったが、思いきり飛び出すと最後までちゅうちょせずに攻め、岡部と同じ137mを飛んだ。「両足を複雑骨折してもいいから思いきりいく」と決めて挑んだからこそ、実現できたビッグジャンプだった。

 そのジャンプでつけた2位ドイツとの得点差は、飛距離に換算すれば13mほどになる24.5点。最後の船木は余裕を持ち、少し抑え気味の着実なジャンプをして優勝を決めた。

 悪条件のなかで力を出しきり、日本中を沸かせたラージヒル団体の優勝。4年越しの金メダル獲得だったが、最も目立って主役になったのは原田雅彦。それは彼が持つ、天性の運もあったのかもしれない。

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