2011年夏の甲子園優勝投手・吉永健太朗インタビュー後編
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甲子園のヒーロー吉永健太朗はなぜプロに進めなかったのか。「い...の画像はこちら >>

日大三高のエースとして2011年夏の甲子園を制した吉永健太朗さん

プロ志望届を出さなかった理由

 甲子園優勝後、高校ジャパンに選ばれた吉永健太朗さんは、アジア野球選手権に出場し、最優秀防御率勝を獲得した。

 本人いわく「まったく打たれる気がしなかった」というほどの出来だった。当然、プロ行きも噂されたが、吉永さんはプロ志望届を提出せず、早稲田大学に進学した。

ドラフト上位指名も夢ではなかったが、なぜ吉永さんはプロへ進まなかったのだろうか。

「じつは球威の上がった高校2年くらいからフォームが不安定になり、肩への負担が大きくなってしまったんです。結果、ケガがすごく増えてしまって、痛みのある状態で投げることもありました。この状態だとプロでやっていくには、まだ未熟だなと思い大学へ進むことを決めました」

 フォームの再現性も乏しければ、フィジカルも足りない。吉永さんは「4年後のドラフト1位」を目指し、早大でレベルアップを目指した。大学1年の時に早くも春のリーグで4勝し、ベストナイン、最優秀防御率投手に選出された。
上々のスタートを切ったと思われたが、そんな表向きの成績とは裏腹に吉永さんの心中は複雑だった。

「いい結果が出てしまっていた、というのが正直なところです。まったく投げていてしっくりこなかったし、フォーム自体もハマっていませんでしたね......」

焦りで見失ってしまった方向性

 気持ちよく腕が振れず、思うようなボールがいかないジレンマ。吉永さんは試行錯誤を繰り返すが、理想からは乖離するばかりで、その後も納得のいく結果を残すことができなかった。なぜ、負のスパイラルに陥ってしまったのだろうか。

「いろんな要素が考えられると思うのですが、高校時代は実戦がメインだったのでフォームがよかろうが悪かろうが考えている暇はありませんでした。しかし、大学生になると、自分で考える時間が増えますし、細かい部分が気になってしまい、いろいろと手を加えてしまったのがいけなかったかもしれません」

 吉永さんは小さくうなずきながら続ける。



「ドラフト1位でプロにいくために大学にきたんだろって思いもありましたし、現状維持のままでは評価につながらないという不安もありました。そういったこともあり、考え方が少し間違った方向に行ってしまったのかもしれません......」

甲子園のヒーロー吉永健太朗はなぜプロに進めなかったのか。「いろいろと手を加えてしまったのがいけなかった」

早大時代の吉永さん。ケガやフォームの固定に苦しんだ

 自分で考えて試行錯誤し実践することは決して悪いことではない。が、ピッチャーは繊細な生きものだ。時にフォームを見失ってしまい、いい時の自分に戻ろうとしても、フィジカルや可動域が変わっていることもあり、結果どんどん形が崩れていってしまうことがある。再現性を取り戻すことも含め、非常に緻密で高度な作業が必要となる。


「一番調子のよかった高校時代のアジア選手権で投げていた時の自分を追い求めてしまったのが、振り返ってみれば悪かったのかもしれません。自分に納得できず、だんだん不安になっていってしまって......」

 自戒を込め、吉永さんは言う。

「小手先に走らず、仮に結果が出なくても自分のやっていることの方向性が正しいと思えることのほうが大切だったかもしれません」

逆境にも心を支えた高校時代の経験

 大学時代の後半はケガもあり、思うような結果を残せぬまま卒業を迎えることになった。そこで声掛けてくれたのが、JR東日本の堀井哲也監督(当時)だった。堀井監督は大学1年の時に吉永さんが選出された社会人ジャパンのコーチを務めており、それが縁でことあるごとに吉永さんを気にとめてくれていた存在だった。

 心機一転、リスタートとなる社会人生活だったが、ここでもまた塗炭(とたん)の苦しみを味わうことになる。野球の神様は、時に非情だ。



 1年目のオフに堀井監督から打者転向を勧められたが、ピッチャーも続けるという条件で同意をした。そして2年目の3月のオープン戦、走者として帰塁した際、頭から突っ込み右肩を亜脱臼し、靭帯の一部を断裂してしまう。早い復帰を目指し保存治療を試みるが、状態が上がらず秋に手術を行なった。術後は肩が動かない状態で痛みもひどく、投げられるようになるイメージは湧かなかった。

 それから1年間はリハビリのため野球部を休部。永遠とも思えるような厳しくつらい時間を過ごすことになる。
投手として生命線の右肩の負傷。相次ぐ厳しい仕打ちに吉永さんの心は折れなかったのだろうか。

「たとえば高校時代の冬合宿だったり、これまでつらい経験をたくさんしてきました。そこで気持ちの保ち方は培ってきたので、心折れることなく精神をコントロールすることができたと思います。頑張りすぎないようにって」

 吉永さんから「とにかく野球が好きだ」という想いがにじみ出る。

「あとは高校の時に日本一になり、大舞台に立ち、大歓声の前でプレーできた経験はすごく大きかったと思います。
もう一度ああいった舞台で野球がしたいという思いが強かったですし、優勝の経験がなかったらちょっと頑張れなかったかもしれませんね」

 一般人には想像のできない風景を目の当たりし体感したことが不屈の源泉となった。

 1年後、リハビリを終えた吉永さんは復帰を果たす。あらためて投手一本で勝負することを誓い、地方大会など公式戦でマウンドに上がった。本来の姿とは言えないものの、驚くべきことにマックス144キロまで球威を取り戻した。

 だが、その年(2019年)の暮に、吉永さんはチームから勇退を言い渡された。いわゆる引退勧告である。

「所属3年を超えると、どの選手にも勇退の可能性が出てくるので覚悟はしていました。だから悔いのないようにプレーしようって。ただ実際、勇退を言い渡された時の喪失感は大きかったです。野球しかやってこなかったので、野球人生が終わってどこに向かっていくのか、まったくイメージが湧きませんでした」

 当然だ。野球がすべての人生であり、現実を受け入れるのはあまりにも無念だった。だが、前に進むためには割りきることも必要だ。しばらく経つと吉永さんは冷静に自分自身を見つめることができたという。

「実際、自分の体のことは自分が一番よくわかっていて、これからさらに状態が上がるかと言われたら、もう限界かもと多少なりとも感じてはいたんです。それに子どもが生まれるタイミングでしたし、もう自分ひとりだけの人生ではないと思い、これからは社会人として働いていこうという考えに至りました」

甲子園のヒーロー吉永健太朗はなぜプロに進めなかったのか。「いろいろと手を加えてしまったのがいけなかった」

現在、JR東日本の駅員として働き一児の父親の吉永さん(写真=JR東日本提供)

球児たちに伝えたいこと

 高校時代に強烈な光を放ちながらも、幾度も行方を阻まれ、ついには夢見たプロの世界にはたどり着くことはできなかった。だが、この決断に後悔はないと吉永さんは言った。

 野球をする多くの子どもたちが甲子園やプロを夢見ているが、自身の経験や反省からなにかアドバイスできることはあるだろうか。

「僕はフォームでずっと悩んできました。今はSNSや動画で情報が溢れていますが、まずは細かいことにとらわれず、全力でやることを意識してもらいたいですね。なにかうまくいかないからと、すぐ調べて、小手先で修正しようとすると結局いい方向には転びません。それが僕は痛いほど理解した、一番伝えたいところです。僕と同じような思いをする人が少しでも減ってくれたらいいなと思います」

 よくも悪くもたくさんの経験ができた野球人生。今は勝負の世界から離れ、やりがいのある仕事に就き、家族と過ごす幸せな時間を享受している。

 最後に、「なにかやりたいこと、夢見ていることはありますか?」と尋ねると、吉永さんはしばし考え微笑みながら言った。

「これは親のエゴかもしれませんが、できることなら子どもにとっていい経験ができるものを提供してあげたいなと思っています。えっ、野球ですか? まだ2歳ですからわからないですけど、もちろん本人がやりたいと言ってくれたら、いいアドバイスはできると思いますよ。楽しみにしています」

 どうやら吉永さんの夢は、途絶えることなくまだ可能性を残しているようだ。立場を変えて、いつかあの大舞台へーー。

(終わり)

【プロフィール】
吉永健太朗 よしなが・けんたろう 
1993年、東京都生まれ。2011年「第93回全国高等学校野球選手権大会」に日大三高のエース投手として出場し、優勝。その後、早稲田大、JR東日本で野球を続け、2019年に引退。現在は、JR東日本社員として駅員業務を担っている。