日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第17回
「運」をつかんだ男が躍動した熱狂の日韓W杯~戸田和幸(3)

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 日韓W杯グループHを首位で通過した日本の、決勝トーナメント1回戦の相手はグループC2位のトルコと決まった。

 W杯初勝利を挙げ、グループリーグ突破を果たし、チームに課せられ、選手たちも自覚していたミッションはともにクリアした。

ここからは一発勝負のトーナメント戦となるが、戸田和幸はチームが非常に落ちついていることを感じていた。

「グループリーグを突破した達成感があったと思いますし、自信もついたと思います。だからといって、(チーム内に)緩んだ空気はなかったですね。妥協なく、真っ直ぐにさらに上を目指す感じで、雰囲気はとてもよかったと思います」

 チームは戦いの舞台となる仙台に移動した。試合前のミーティングが始まり、そこで発表されたのは、グループリーグとは異なるシステムとスタメンだった。それまでのシステムは3-4-1-2だったが、その日は3-4-2-1に変更。

西澤明訓の1トップ、その下に三都主アレサンドロ中田英寿が配置された。

「試合に向かう準備段階で、その起用について選手は知らなかった。試合前のミーティングで初めて聞いたんで、全員びっくりしていましたね。ある意味、こっちがサプライズ的な感じでした。

 アレックス(三都主)の左サイドでのスタメン起用は驚きでしたけど、親善試合でもプレーしていたので、なくはないですし、それまでの代表活動のなかで左にアレックスを置いてもいけると考えたのかもしれない。あとは、西澤さんのコンディションがどうだったのか、というのはありましたけど、これは監督の決断ですからね。

この時には代表チームのメカニズムが出来上がっていたので、選手を入れ替えてもいけると思ったのではないでしょうか」

 だが、この"奇策"は吉とは出なかった。

 雨のなか、日本は前半12分にCKから失点。負けたら終わりのトーナメント戦でいきなり追い込まれたが、戸田はこの時、まだ時間的には余裕があると冷静に考えていた。

「国際試合で先制されることはよくあることじゃないですか。確かに先に点をとられて全体的に空気が重くなってしまったけど、試合はこれからだ、と思っていました」

 トルシエ監督率いる当時の日本代表は、2トップの鈴木隆行と柳沢敦が前から猛烈にプレッシングをかけ、中盤以降の選手もそれに連動してボールを奪い、ショートカウンターからゴールを奪うのが主な攻撃パターンだった。

 ところが、トルコは先制したことで守備を固め、カウンター狙いに徹してきた。

その分、日本はこれまでの試合とは異なり、ボールを長く保持できるようになったが、逆に攻撃がギクシャクしていた。

「(日本は)ボールを保持しながら、攻めあぐねていた。僕はその際、『(2000年の)アジアカップを思い出せよ』と思っていました。あの時はボールを保持して攻め、圧倒的な強さを見せて優勝した。つまり、ボールを保持して攻めることができていたわけじゃないですか。それができるチームだし、その流れを思い出せば、と思っていましたね。

 あと、もうひとつは今だから言えることですが、僕を代えればよかったんですよ」

 戸田は、冷静な口調でそう言った。

「ボールを保持できていたし、そこからもう一歩先に進んで点をとるためには、自分を下げて攻撃的な選手を入れるべきでした。ベンチには森島(寛晃)さん、(小笠原)満男、福西(崇史)もいた。

 僕は、自分が試合に出ても勝てないと意味がないと思っていたし、トルコ戦は(僕を)代えることで点をとれる可能性があった。僕が監督なら、たとえ2点目をとられるリスクがあっても(点を)とりにいきます。だから、自分は点をとるためには"いらない"と思いました」

トルシエ監督が奇策に出た日韓W杯のトルコ戦。戸田和幸は「今だ...の画像はこちら >>

 戸田は、日本の守備の砦だった。

トルシエ監督は絶大な信頼を置いており、大会中、稲本を途中で代えることがあっても、戸田をベンチに下げることはなかった。

 日本は後半、鈴木隆行を投入して2トップに戻したが、流れをとり戻すことはできなかった。日本はそのまま0-1で敗れ、熱病のように盛り上がったW杯の旅に終止符が打たれた。

「トルコはいいチームでしたし、いいレベルの選手がそろっていた。決して組みやすしと舐めていたわけではないんですけど......。負けたことで、W杯が終わった悔しさと寂しさがありました。

 ただ僕は、このW杯で日本が"何ができたか"ということのほうが大事だと思っていました。その意味では(W杯で)初勝利を挙げて、初めてグループリーグを突破して、日本のみなさんに喜んでもらえたのは大きかったと思います」

 敗れた悔しさを抱えながらも、戸田は同時に、ようやく体を休められることに少し安堵していた。全4試合にフル出場。持てる力をすべて出しきってプレーしていたので、Jリーグの戦いとは比べものにならないほど疲労が蓄積されていたからだ。

「正直、トルコに勝ったとしても『次、いけるかな』『無理かもな』っていうぐらい疲労度が大きかったですね。そのくらいW杯の舞台は普段以上の力が必要になるし、その力を出してしまうんです。トルコ戦で2トップの柳沢と隆行さんが代わったけど、それまでの試合を思い出すと、とてつもなくハードワークしていたので、身体的なコンディションも考慮しての交代だったのかなと思います」

 W杯での戦いを終えると、戸田はすぐに赤いモヒカンから丸刈りにした。それでも、街で声をかけられる機会が増えた。また、戸田のもとにはテレビ出演や取材依頼が殺到した。

「W杯の影響の大きさを改めて感じました。取材や、テレビのバラエティー番組などの出演依頼も多くいただいたのですが、『ニュースステーション』の出演とCM2本以外はすべて、お断りしました。自分がどういう選手なのかを忘れないようにしないといけないですし、『調子に乗るな』って自分で思っていたので。(自分は)バラエティー番組に出てペラペラと喋るのは違うな、と。そういう意味では当時、かなり硬派だったのかなぁと思います」

 戸田は、休む間もなく所属の清水エスパルスに合流したが、すぐに体の異変を感じた。オーバーワーク症候群と診断され、しばらくの間休養を余儀なくされた。その時、W杯のトルコ戦後に「次の試合は無理かもしない」と感じたことが、「間違いではなかったんだ」と改めて思ったという。

 2002年W杯を戦った選手の多くはまだ若く、トルコ戦に敗れた直後から次のドイツW杯で「この悔しさを晴らす」という言葉を口々にした。その後、日本代表の指揮官はジーコ監督となって、指導もスタイルも一変した。

 戸田は当時、4年後のドイツW杯をどう見ていたのだろうか。

「ドイツW杯はまったく視野に入っていなかったです。それでも翌年、(イングランドの)プレミアリーグに行けたので、(気持ちは)W杯に向かったんですけど、(自分は)ジーコさんからはずっと批判されていたんですよ。『戸田のような選手はいらない』って言われたりして。

 それに、明神(智和)とかも呼ばれなかった。僕は、明神はいい選手だと思っていたけど、そういう選手を呼ばないことで、監督の考えていることはだいたいわかる。だから、代表に入るのは簡単じゃないなって思っていました。もちろん、代表でプレーしたい気持ちはありましたけど、その当時、僕にとっては海外での日常の戦いのほうが大事でしたね」

 2003年にプレミアリーグのトッテナムに移籍した戸田は、その翌年にはオランダのデン・ハーグへ。その後、2004年のセカンドステージから清水に復帰した。日本代表ではトルコ戦のあと、試合に出ることはなかった。

 2013年に現役を引退。サッカー解説者として活躍するなか、慶応大、一橋大のコーチや監督を歴任した。そして今年1月からは、東京都1部リーグのSHIBUYA CITY FCのテクニカルダイレクター兼コーチに就任。関東リーグへの昇格を目指して、チームを指導している。そこでは当然、現役時代の経験が生かされている。

「自分のポジションをボランチに変えられたことは、今も100%納得していないけど、自分の物差しだけで見ていると、意外と見誤ることがあるし、隠れた可能性があることを知れた。だから、今の選手には『自分で自分の可能性を決めないほうがいいよ』と伝えています」

 日本中が熱狂した日韓W杯。その戦いに向けて、最後にお鉢が回ってきたところから、戸田の人生は大きく転換した。自分の知らない世界に身を任せてみると、チャンスが転がってきた。

「あの時、自分にとってはいい巡り合わせだったのかもしれないですね」

 日本代表のトルシエ監督が守備強化にシフトしたタイミングと、がっちりかみ合った戸田のボランチ転向。そういった"運"もまた、選手が成長していくために大事なことだ。

 その運をつかんだ先に訪れた日韓W杯は、プレーヤーとして自らの可能性を開花させた戸田和幸のショータイムになった。

トルシエ監督が奇策に出た日韓W杯のトルコ戦。戸田和幸は「今だから言えるが、自分を代えればよかった」
戸田和幸(とだ・かずゆき)
1977年12月30日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高を卒業後、清水エスパルス入り。主力選手として活躍した。各世代別代表でも奮闘し、1993年U-17世界選手権、1997年ワールドユースに出場。2001年には日本代表入りを果たし、2002年W杯に出場した。W杯後は海外へ。イングランドのトッテナム、オランダのデン・ハーグでプレー。2004年に古巣の清水に復帰するも、2005年には東京ヴェルディに移籍。以降、サンフレッチェ広島ジェフユナイテッド千葉などでプレーし、2013年シーズン限りで現役を引退。現在は、東京都社会人リーグのSHIBUYA CITY FCのテクニカルダイレクター兼コーチを務める。