日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
中村憲剛×佐藤寿人
第11回「日本サッカー向上委員会」@前編
1980年生まれの中村憲剛と、1982年生まれの佐藤寿人。2020年シーズンかぎりでユニフォームを脱いだふたりのレジェンドは、現役時代から仲がいい。
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---- おふたりがワールドカップを初めて見たのは、いつの大会ですか?中村 僕は1986年のメキシコ大会ですね。リアルタイムではないですけど、小学校の低学年の頃にメキシコ大会の総集編のビデオテープを買ってもらって、本当に繰り返し何回も、何回も見ていました。もう、あの大会はマラドーナでね。
佐藤 僕は1990年のイタリア大会。あの頃は『キャプテン翼』の影響で、カール・ハインツ・シュナイダーがいた西ドイツが好きだったんですよ。双子の兄の勇人はブラジルが好きで、それぞれの枕に僕は西ドイツの国旗、兄はブラジルの国旗を書いて、寝ていたのを覚えています。
実際の選手だと、クリンスマンとかマテウスが好きでしたね。
中村 情報を得られるのは『ダイヤモンドサッカー』とか『サッカーマガジン』くらいしかなかったからね。
佐藤 映像はほとんど見られなかったですよね。
中村 生ではまず見られなかったし、基本はビデオだよね。どこで手に入れたのかは覚えていないけど、擦り切れるくらい見ていたなぁ。
佐藤 僕は小学校の時、クラブの監督がミラノダービーの映像を手に入れて、観賞会を開いてくれたんですよ。そこで初めてミランの試合を見たんです。「オランダトリオ」のカッコよさに衝撃を受けて、それ以来、ミラニスタになりました。
中村 日本人にとってワールドカップがより身近に感じられるようになったのは、1994年のアメリカ大会からなんでしょうね。1993年にJリーグが始まって気運が高まり、その年に「ドーハの悲劇」がありましたから。僕は中1くらいでしたけど、リアルタイムで見ていましたね。
とりあえずアメリカがめちゃくちゃ暑そうだなということと、決勝でバッジョがPKを外して立ち尽くす姿は、今でも鮮明に覚えています。優勝したブラジルには、あとに日本に来るドゥンガとかジーニョがいたことも身近に感じられるようになった要因だと思います。ただ、当時はやっぱりワールドカップは「見る」もので、「出る」ものでも「目指す」ものでもなかったですね。
---- 将来、ワールドカップに出たいという夢を持っていなかったんですか?
中村 なので、その発想にはまったくと言っていいほどならなかったですよね。日本が出られるとは思ってなかったし、そもそも当時は出る手段さえ知らなかったですから。ようやくドーハの悲劇の時に、日本もあと少しのところまできたんだなと感じましたし、Jリーグができたこともあって、ワールドカップ出場というものが徐々に現実味を帯びていったとは思います。
佐藤 僕はちょうど小6の時にドーハの悲劇があったので、小学校の卒業文集に「ワールドカップに出る」って書きましたね。
中村 俺は中1だったから、もう過ぎてた(笑)。とはいえ現実が見えてたから、中学の卒業文集にも書いてはないけど。
---- 「ジョホールバルの歓喜」の時は高校生でしたか?
中村 高2でしたね。ゴール前でパスをしてチャンスを逸したテレビのなかの岡野(雅行)さんに向けて「岡野!なんでパスしてるんだよ!」と、いち視聴者として言ってました(笑)。岡田(武史)さんも頭を抱えていましたね。
佐藤 ヒデさん(中田英寿)がインスイングでクロスを上げて、城(彰二)さんがヘディングで決めたシーンがあったじゃないですか。僕は当時ジェフのユースにいたんですけど、あの形をずっと練習してましたよ。あの時はもう城さんはマリノスに移籍していましたけど、前の年までジェフにいたから、身近な存在ではありましたね。
中村 それはかなりリアルだなぁ。俺はそういう立ち位置にはいなかったから、全然身近じゃなかった。普通の高校生だったから。そういう意味では、寿人は早くからワールドカップというものを身近に感じられていたわけだよね。
---- 今からちょうど20年前の2002年に日韓ワールドカップが開催されましたが、おふたりはどのようにこの大会を見ていたんですか。
中村 僕は大学4年生でしたね。
佐藤 もう、フロンターレに入ることは決まっていたんですか?
中村 いや、あの大会をやっている時はまだ決まってなくて、ちょうど練習参加していたくらい。僕の曖昧な記憶なんですが、当時、岡山一成さんが在籍していたんですけど、練習が始まる前に石?(信弘)監督が「今日、オカはワールドカップを見て行っているから」って言うんですよ。「えっ、練習休んでいいの? Jリーグって融通利くんだな」と思いながら練習に参加してました(笑)。
佐藤 僕はあの年、当時J2だったセレッソにいましたね。J1は4月いっぱいで中断になったけど、J2は大会が開幕する直前の5月中旬まで開催されていたんですね。
その時、等々力でフロンターレ戦があって、ベンチ外でスタンド観戦になったんです。するとその試合で(大久保)嘉人が退場になって、セレッソのサポーターから「あいつに何とか言ってくれ!」と、なぜか僕が怒られるという。だから、日韓ワールドカップというと、その思い出が強く残ってますね(笑)。
中村 セレッソには、ワールドカップメンバーの森島(寛晃)さんと西澤(明訓)さんがいたよね。
佐藤 そうです。森島さんと西澤さんがいて、ユン(ジョンファン)さんも韓国代表に選ばれていました。だからワールドカップを身近に感じることができたんですね。大会前はトレーニングマッチも組まれていて、どこかの国とやったんですよ。それこそ関西でキャンプを張っていたチュニジアとやったかもしれない。覚えてないですけど(笑)。
中村 ずっと身近にあるな! まったく身近になかった人間からしたら、超うらやましい!
佐藤 でも、次の年にベガルタに移籍したんですけど、イタリアは仙台でキャンプをやっていたんで、ベガルタはアズーリと試合しているんですね。それがうらやましくて、もう1年早く仙台に行っていればよかったなと(笑)。
---- 大会自体は、どのような想いで見ていたんですか?
中村 もう、いちファン・いちサポーターですよ。
佐藤 僕もプロではありましたけど、いちファンでしたね。ただ、チケットを取れるよと言われていたんですけど、当時はセレッソで試合に出られていなかったこともあって、スタジアムで見ることに対するモチベーションがなく、結局会場には行かなかったんですよ。今思えば、行っておけばよかったなと思いますけど。
中村 こっちは、どんな手を使ってでもチケットがほしかったのに、結局手に入らなかった......。まあ、お金もなかったんですけど(苦笑)。
---- いちファンとして見たなかで、一番印象に残っていることはなんですか?
中村 やっぱり、日本vsベルギー戦ですね。あのインパクトは強烈でした。(鈴木)隆行さんのつま先ゴールと、イナさん(稲本潤一)のドリブル突破ですね。
佐藤 イナさんはすごかったですね。あそこで、あのプレーをするのかと。
中村 僕と年齢がひとつしか変わらないのに、なんだこいつ、スゲーって、思いましたよ(苦笑)。
佐藤 あとはワイドショーとかでも特集されていて、サッカーがお茶の間に入ってきた。そこでワールドカップの影響力の大きさを感じましたね。ふだんサッカーを見ていなかった人が、急にサッカーを語り出すんですよ。知らない人も「イナモト」って言っていましたしね。
中村 リアルタイムで見られたのもよかったよね。もう1回、日本で開催してほしい。この年齢でもう一回味わってみたいな。当時大学生だった僕は、日本が勝った時、渋谷のスクランブル交差点を埋め尽くす若者みたいなはしゃぎ方を、寮のある八王子でしていましたから(笑)。
>>中編につづく>>「タマーダのあとがマキじゃなくて...」
【profile】
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに入団。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞。日本代表・通算68試合6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。
佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、セレッソ大阪→ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。日本代表・通算31試合4得点。ポジション=FW。身長170cm、体重71kg。