福島千里にまつわるインタビュー・前編(本人編)

今年1月に引退を表明した陸上女子短距離の福島千里。2010年に出した100m11秒21、16年の200m22秒88は、今も日本記録となっている。

現在は順天堂大学大学院でコーチングを学ぶ福島に、改めて現役時代を振り返ってもらった。

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福島千里が明かすメディアの声に涙したわけ。「自分の成長と周り...の画像はこちら >>

陸上女子100m、200mで日本記録を持つ福島千里

 高校卒業2年後の2008年には100mで11秒36の日本タイ記録を出し、同年の北京五輪100mに日本女子56年ぶりとなる五輪出場を果たした福島千里(北海道ハイテクAC→セイコー、現・順天堂大大学院)。その後も100mと200mでは日本記録を何度も更新し、五輪3大会と世界選手権に4大会出場して準決勝には3回進出。10年アジア大会では日本女子初の100mと200mの2冠達成を果たし、4×100mリレーでも12年ロンドン五輪で48年ぶりの出場を実現したほか、世界選手権2回出場の原動力となり、長期にわたって日本女子スプリントの歴史を切り開いてきた。今年の1月29日に現役引退を表明した福島は「高校を卒業してから15年もやるとは思っていなかったので、ここまで辞められなかったことにびっくりしています」と笑顔で言う。

 そんな競技人生のきっかけは、参加標準記録B(11秒40)を突破して、北京五輪に出場したことだった。

「11秒36が出る前の年も調子がよかったけど、肉離れをして11秒60止まりだったので。それがなければもう少しいい記録を出せていたかもしれないけど、高校を卒業して2年目の春先に参加標準記録B(11秒40)を突破する11秒36で走ったことで、伸びる可能性を評価していただいて北京五輪に出られたのはラッキーでした。私自身、07年の冬からリレーで北京を狙おうと代表合宿にも参加していたけど、まだ漠然とした意識で世界での自分の位置がわからない状態でした。だから標準記録を破って出た五輪で、1次予選で11秒36を出せば2次予選に行けることもわかったし......。もちろんデータではわかっていたけど、それを肌で感じられたことで自分の世界での位置が明確になった。そこからはもう日本では誰も見ていない世界だったけど自分のなかでははっきりと見えたので、そこで満足しないで頑張れたのだと思います」

 福島の五輪出場は、女子短距離に大きな刺激を与えた。

福島自身も09年には100mで11秒24、200m23秒00の日本記録を出し、翌10年には11秒21と22秒89まで記録を伸ばした。その勢いに引っ張られるように、高校時代に福島と競り合っていた髙橋萌木子(平成国際大→富士通)は09年に100m11秒32と200m23秒15(ともに現・日本歴代2位)を出して2種目で福島とともに世界選手権に出場。北京五輪には出場できなかった4×100mリレーも、09年世界選手権に出場して以降、10年アジア選手権で優勝し、11年世界選手権と12年ロンドン五輪に出場と女子短距離に勢いがついた。

 だが福島自身は順調に進化し続けたなかでも、苦しいと思う一瞬があった。10年日本選手権の100mでは11秒30で優勝したが、メディアから最初にかけられたのは「残念でしたね」という言葉だった。「今の状況ではいい走りができた」と感じていた福島は、その言葉に動揺して涙を流してしまった。

そして向かい風1.4mの条件で行なわれた200mは、髙橋に0秒01競り負ける23秒57で2位に止まった。

「気持ちの波はあったけど、私は基本的にはずっと苦しいとは思わずにのびのびとやっていました。でもあの日本選手権の一瞬だけは、自分がああいうふうになると思っていなかったのでびっくりしてしまって。100mが終わってからの周囲の雰囲気や空気感、思ってもいなかった反応で、自分の成長と周りの期待が不一致になっていると思いました。それでも200mを走り、3週間後の布勢スプリントの100mでは11秒24で走った。8月にはヨーロッパ遠征にも行って9月のコンチネンタルカップにはアジア代表として出たし、11月のアジア大会では足首を捻挫して苦しかったけど2冠も獲得した。

あそこで苦しい思いをしたのは事実だったけど、予定していたレースを辞めることもなく止まらなかったので......。(北海道ハイテクACの)中村宏之先生もいい意味で背中を押してくれたので、そこに関してはすごく感謝していますし、止まることなく走り続けたからこそ今があるのだと思います」

 そんな福島に思い出に残っているレースを聞くと、こう答えた。

「記録から言えば10年の織田記念の11秒21や、11年の布勢スプリントの追い風3.4mで11秒16を出したレースですけど、よかったなと思っているのは、15年の世界選手権の予選で11秒23を出して準決勝に進んだレースです。自分の世界を見るきっかけとなった北京五輪と同じ会場で、自分の7年間の成長を実感できるタイムと戦い方。完成度の高いレースができたと思います」

 12年のロンドン五輪後も女子短距離界を牽引する存在としてレースに出場。そんな時も苦しさは感じなかったと話す。

「ロンドン五輪後は、特に14年あたりからは練習の質と量もすごく上げているので、その部分ではだいぶストイックにやっていました。その成果が15年のアジア選手権での優勝や、ヨーロッパ遠征の結果(11秒25)、世界選手権の結果(準決勝進出)だったと思っています」

 その成果は16年の200m22秒88の日本記録にもつながった。だが、これまでにない手応えを持って臨んだ16年リオデジャネイロ五輪は、直前のアメリカ合宿で太ももを痛めて100mは欠場。200mのみに出場という悔しい結果に終わった。

「リオ五輪は、そのために10何年もやってきたので、残念だったとしか言えません。あの時は100mでベストは出ると思っていたし。

決勝進出に必要な10秒台は見えなかったけど、11秒1台は確実だと思ったし、追い風が2m吹けば0台というところだったと思います。ベストを出すための身体づくりの答えが22秒88だったといえばそうだけど、それだけの準備はできていたのだと思います」

 集大成と考えてやってきたリオデジャネイロ五輪が終わったあと、福島はモチベーションを維持するために新しいことに挑戦したいと考え、「環境を変えることが自分の刺激になる」と、高校卒業から所属していた北海道ハイテクACを辞めることを決意した。

「16年までの結果も踏まえてですが、『やれることは全部やった』というのがありました。だから環境を変えるのは目的ではなく、手段だと考えました。それで1年間置いてからセイコーに入り、山縣亮太選手の活躍を見ながら身体づくりからやってみようと思って。リオでも北京でもそうでしたが、世界と比べると私は華奢なほうだったから。ただ筋肉をつければいいというわけでもないけど、AとBを知っていてAを選ぶのと、Aしか知らないでAを選ぶのでは価値がまったく違うので、陸上を続けるなら挑戦すべきだと思いました。陸上界では移籍はいろいろ言われるから、『だからダメなんだ』と言われないようにしなければいけないという、覚悟もありました」

 セイコー所属になった18年には織田記念を11秒42で制し、静岡国際の200mも23秒35で優勝。日本選手権は100m2位、200m1位でアジア大会代表になったが、その本番はアキレス腱の痛みがひどくなり、100mを走っただけで200mは棄権。リレーにも出られなかった。

「アキレス腱は17年からずっと痛かったんですが、どうしようもできなかったというのが正直なところ。東京五輪が、最後の最後で1年延びてしまった時は『どうしようか?』と思ったし、本当に痛くて苦しかったけど、会社のサポートがすごく大きかったので恩返しをしたいという気持ちもどこかにあって。『諦めない』『なんとかなる』『何とかしよう』というところはありました。20年は痛くて日本選手権にも出られなかったけど、最後は山崎一彦先生(順大コーチ)にすごくサポートしてもらい、日本選手権も走れるようにしていただいたので。東京五輪に行けなかったけど、最後の選考会の舞台には立てたし、そこまでやって100%よかったと思っています」

 福島は競技を引退する前の21年から、順大の大学院に入学した。

「16年までは陸上のためにすべてを懸けていたし、ハイテクを辞めてから『いろんなことに挑戦していきたい』と話していたけど、すべてのことが陸上につながっていたので、その考え方を変えようと思いました。アキレス腱が痛くて走れなくなってからは、『どうやったら走れるのかな』とか、『どうしてここを痛めたのかな。どうしてケガをするのかな』という、若い時には思いつかなかった発想も少なからずあったから、それを知ったうえでトレーニングができればいいかなとも思って。最後に山崎先生がそこを補ってくれていい時間を過ごせたと思うので、そういう勉強をしてみようかと思いました」

 今年から陸上部のアシスタントコーチも務めるようになった福島。今の女子短距離を見て、「10秒台を出すには筋力やパワーが必要だというのはあるけど、11秒3を出すには選択肢はいろいろあり、自分の身体をうまく使った人が行き着けるのではないかと思う。でもそこから2台となると難しいですね。私の場合は、2台に入った09~10年というよりも14~15年のアプローチが一番正解だと思っています。それ(11秒2台)を特別だと思っているから達成できないのかもしれないけど、何か違ったアプローチというか、『こうでないといけない』という技術や体力が存在する可能性は、仮説としては私のなかにはありました。ただ、それを体現するのは得意かもしれないけど、言葉にして説明する自信はちょっとないですね。言葉で説明すると、自分のイメージとは違う受け取り方をされることも絶対にあるから、それで余計に言葉にしなかったというのはあります」

 そう話す福島は、大学院の入学式の挨拶で聞いた、「研究するということは、発表まですることで完結するし、そこに意味がある」という言葉が印象に残っているという。「誰かにアウトプットするまでが勉強ということをすごく感じた」と。

 自分が経験してきたことや、発見してきたことを言葉にして伝えること。それが女子スプリンターの歴史を切り開いてきた福島が、これから目指していくところになった。

後編:「『心も体もズタズタ』現役終盤に指導したコーチが明かす、故障後の姿」はこちら>>

Profile
福島千里(ふくしま・ちさと)
1988年6月27日生まれ。北海道出身。女子100m(11秒21)、200m(22秒88)、4×100mリレー(43秒39)の日本記録保持者。オリンピックに3度出場(2008年北京大会、12年ロンドン大会、16年リオ大会)。日本選手権の100mで10年から16年で7連覇を成し遂げ、11年の世界陸上では日本女子史上初となる準決勝進出を果たした。22年1月に現役生活を引退。現在は順天堂大学大学院でコーチングを学んでいる。
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