ラグビーレフェリー・桑井亜乃さんインタビュー(前編)

 9月9日から3日間の日程で、7人制ラグビーの世界大会「ラグビーワールドカップ・セブンズ」が南アフリカ・ケープタウンで行なわれる。「サクラセブンズ」の愛称で呼ばれる7人制ラグビー女子日本代表チームの目標は、前回大会で果たせなかった「ベスト8」だ。

 過去3度ワールドカップを戦っているサクラセブンズが初めてオリンピックに出場したのは、2016年のリオデジャネイロ大会。その夢舞台に競技歴わずか4年で立って周囲を驚かせたのが、当時26歳だった桑井亜乃さんだ。突出したアスリート能力はたちまち注目の的となり、愛嬌のあるキャラクターもテレビメディアを通して人気を博した。

 あれから数年の月日を経て、昨年8月、彼女は現役引退を決意。しかしグラウンドからは離れず、今はレフェリーという新たな道を歩んでいるという。32歳になった彼女に会いに行った。

◆桑井亜乃さんの撮り下ろしフォトギャラリー(写真27枚)はこちら>>

   ※   ※   ※   ※   ※

女子ラグビーで人気を博した桑井亜乃の今。もう一度オリンピック...の画像はこちら >>

ラグビー選手からレフェリーに転身した桑井亜乃さん

---- まずは桑井さんのラグビー人生から聞かせてください。大学まではラグビー競技ではなく、陸上競技をされていたんですよね?

「私はスピードスケートの高木菜那選手と美帆選手の姉妹、陸上の福島千里選手と同じ北海道・幕別町の出身で、3~4歳ぐらいからマラソン大会に出場したり、小学校3年生から高校3年生までアイスホッケーもやっていました。

 陸上競技は中学校3年で砲丸投げを、高校に入ってからは円盤投げを始めて、道内の大会では優勝、高校2年時では国体5位などの結果を出し、その縁で大学から誘われて愛知県の中京大学に進学しました。ハンマー投げオリンピック金メダリストの室伏広治さん(現・スポーツ庁長官)とも一緒に練習していましたね。

 当初は教員志望で体育学部に在籍していたのですが、大学1年の時に授業でラグビーがあったんです。その時から先生にラグビーへの転向を勧められていました。

ちょうど2年生の時、7人制ラグビーがオリンピックの正式競技に決まった時期でもあったんです。

 でも、陸上で大学に進学したこともあったので、まずは4年間陸上を続けて、卒業後に進路を決めたいと思っていました。だけど、ラグビーが楽しくなっている自分がいて、3年、4年は自主的に授業を履修して、どんどんラグビーの魅力にハマっていきました(笑)。ボールを持って自由に走っていいところに惹かれましたね」

---- 本格的にラグビーを始めたのは、大学卒業後ですか?

「はい。ラグビーに専念したのは卒業後の2012年からです。小さい頃から『オリンピックに出てみたい』という気持ちが強くあって、当時は女子ラグビーの強化が始まったばかりだったので、陸上から転向した私にも可能性があるならチャレンジしたいと思ったんです。

 大学卒業後は働きながら7人制女子ラグビーのチームにお世話になり、本格的に始めてから3カ月月で世界学生セブンズ大会(フランス)初公式戦に出場し、1年くらいで初めてサクラセブンズに呼んでもらいました。その後、立正大学の大学院に進学して立正大学ラグビー部に所属して、進学2年目の時に女子ラグビークラブ『アルカス熊谷』ができたので、それからずっとアルカスでプレーし、今でも所属しています」

---- 大学院終了後は、働きながらラグビーを続けていたんですね。

「アルカスの地元・熊谷にある八木橋百貨店で、2015年の4月から6年半働いていました。基本的な仕事は事務職でしたが、年末年始の時はおせち料理や福袋の準備をしたり、お餅を切って袋詰めしたりして、いろいろ楽しかったですね(笑)。

 でも、7人制ラグビーはオールシーズンなので、当時のサクラセブンズはほとんど休みがなく、職場の方に融通してもらいながら合宿や大会に参加していました。当時は千葉・勝浦で合宿することが多く、砂浜を走ったり、筋トレしたり、とにかくきつかったので、今でも思い出したくないくらい......。

レフェリーという立場になって勝浦に呼ばれても、行くのをためらってしまうほどです(笑)」

---- リオデジャネイロ五輪への出場が決まった時、女子ラグビーへの注目が一気に高まりましたが、当時はどんな思いでしたか?

「オリンピックに出られることが快挙、という感じでしたね。当時のサクラセブンズはアジアで5位からのスタートだったので、オリンピック出場は無理だろうって言われていました。ちょうどアジア予選の直前に2015年ラグビーワールドカップで男子15人制日本代表が活躍したこともあって、その勢いで女子も盛り上がりました。女子ラグビーが少しでも認知されたのはうれしかったですね!」

---- 幼い頃から出たかった「オリンピックの舞台」はいかがでしたか?

「私たちは、その時の自分たちの立ち位置をはっきりと自覚していました。世界を転戦する国際大会『ワールドシリーズ』では12位、11位、10位、9位という順位だったので、私たちに実績はなかった。ただ、オリンピックは何が起こるかわからない舞台なので、しっかりと準備は整えて臨みました。

しかし、試合では噛み合わないことも多くて、結局のところ10位。実力どおりの結果ではあったと思います」

---- 試合を終えたあと、どんな感情になりましたか?

「パフォーマンスのピークをオリンピックに合わせられていたかなと思います。その結果トライにもつながったし、やっぱりプレーしていて楽しかったので、大会が終わった瞬間にすぐ、母親にもメディアにも『次も目指す!』って言っていましたね。もちろん内容に満足したわけじゃないけど、小さい頃からの夢の舞台を、予選を勝ち抜いて自分たちの力で掴んだものだから、なおさら『頑張ってきてよかったな』って思えました。

 いろんな人に応援してもらえた大会で、どの大会よりも思い入れを持って臨んだからこそ、結果が出なかったことに対して、1カ月くらいは感情がコントロールできない部分もありました。でも、ラグビーは続けたいから、大会が終わったあとにすぐ、アジア勢との国際大会に出場したり、15人制の日本代表としてもプレーしました」

---- オリンピックでの悔しさはオリンピックで返したかった?

「本当にリオ五輪は悔しかったし、ラグビーが大好きだから、絶対にどこかで取り返さないといけないっていう思いがありました。

だから、大きい大会が続いても休まず、クラブチームの大会でも頑張り、それが終わると日本代表合宿......と常に全力でした。

 そしてやっと大会がない期間になった時、急に気持ちが切れたというか。リオ五輪の翌年の夏、実は1カ月くらい吐き気が止まらなくなったんです。今思えば、あの時に少しラグビーから離れて休めばよかったかもしれません」

---- 結局、東京五輪には出場できずに引退されました。

「2018年にセブンズ・ワールドカップの代表から落ちてしまい、その後アジア競技会大会で金メダルを獲得しましたが、それを最後にサクラセブンズから呼ばれなくなったんです。ですが私は、最後まで東京五輪を目指しました。食事に気をつけ、体にも気を遣い、後悔のないように、その時その時のベストを尽くしてやることはやっていたつもりです。

 2019年から2021年までサクラセブンズの予備軍としてプレーし、調子のいい時期もありましたが、その期間に手術を行なうケガもあって、もう一度サクラセブンズに呼ばれることはなく、東京五輪への出場は叶いませんでしたね。

 オリンピックという大きい目標がなくなった時 、選手としてラグビーを続ける気力は残っていなかったです。会社の方や周りの人ともいろいろ相談しながら、東京五輪が終わった直後、2021年8月末日で選手としての引退を宣言しました。

◆桑井亜乃@後編につづく>>「男子ラガーマンにナメられないように。五輪史上初の偉業を目指す」


【profile】
桑井亜乃(くわい・あの)
1989年10月20日生まれ、北海道幕別町出身。幼少時から陸上を始めて、帯広農業高校時代に円盤投げで国体5位入賞。中京大学卒業後の2012年にラグビー競技を本格的に始める。2013年に立正大学大学院に進み、クラブチーム「アルカス熊谷」に加入。2016年リオデジャネイロ五輪代表。昨年8月に現役引退してレフェリー転身した。7人制ラグビーの代表キャップ32。身長172cm。