野球人生を変えた名将の言動(7)

攝津正が語る秋山幸二 前編

 指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。ソフトバンクで5年連続開幕投手を務め、2012年には沢村賞など数々のタイトルを獲得した攝津正氏は、プロ入り時に指揮を執っていた秋山幸二監督との出会いが野球人生に好影響を与えたという。



 秋山監督時代のソフトバンクをエースとして牽引した攝津氏に、秋山監督にかけられた印象的な言葉、2012年の開幕投手に指名された時のエピソードを聞いた。

秋山幸二「わかってるな?」の問いに攝津正は「わかっています」...の画像はこちら >>

2011年6月の広島戦でプロ初完封勝利を挙げた攝津(左)と秋山監督

***

――秋山監督と初めて会った時の印象はいかがでしたか?

攝津正(以下:攝津) 入団した時の記者会見で初めてお会いしたのですが、野球を始めた幼い頃に見ていた選手なので、「すごい」というのが第一印象です。あまり感情を表に出さない物静かなイメージがありましたが、その通りの方でした。

――その時にどんな言葉をかけられましたか?

攝津 「1日は24時間で、与えられている時間はみんな平等。その時間をどう使うかは自分次第だ。使い方次第でどうにでもなるよ」という話をしていただきました。
「確かにそうだな」と身が引き締まりましたね。

――シーズン中にアドバイスされることはありましたか?

攝津 基本的に毎日ああだこうだと言うことはなく、「君たちはプロなんだから、個々に任せる。ベストのパフォーマンスを出せるように準備してくれ」というスタンスでした。「結果がすべてだからな」とも言われていたので、自分でどうにかしなきゃいけないという意識が強くなりました。

 個人的に覚えているのは、調子が悪くて何試合か打たれた時、僕は外野で毎日キャッチボールをしていたのですが......ある日、秋山監督に「おいっ」と呼ばれたんです。それで、「今の投げ方だと、球の出どころがバッターから見やすいから、ちょっと見直してみたら?」と。
本当に短い言葉なのですが、他の場面でもアドバイスをいただくことはありました。

――普段、口数が少ない秋山監督から言われる言葉には重みがある?

攝津 本当にそうなんです。それに、「あれだけすごい実績を残した方がそう言ってくれるなら、ちょっと注意してやってみよう。見直してみようかな」という気持ちになりました。

――褒めて選手を伸ばすのか、厳しいのか、タイプとしてはどちらのタイプの監督でしたか?

攝津 基本的に厳しいことはあまり言わず、もの静かに見守ってくれていました。でも、本当に悔しい時は、新聞などにその感情を吐露するような言葉が載っていたりして......。

直接ではなく、メディアを通じてそういうことを知ることはありましたね。

――攝津さんにとって、プロになって初めての監督が秋山監督ですが、選手としてやりやすかったですか?

攝津 とにかく「自分で考えてできるベストな状態を作ってくれ」というスタンスだったので、それができるのであれば各選手に自由を与えてくれます。その代わり、「責任ある行動をしてくれ」と。任せてもらえている実感がありましたし、すごくやりやすかったですね。

――攝津さんはプロ1年目のオープン戦で、満塁のピンチの場面でマウンドに上がり、見事に抑える場面があったと思います。その場面は秋山監督に試されていたんでしょうか?

攝津 今でも一緒にゴルフに行くことがありますが、たまにその試合を振り返ることもありますよ(笑)。
投げたのはおそらく、オープン戦の終盤でしたね。オープン戦が進むにつれて、結果が残せなかったピッチャーが徐々に一軍から減っていくのを目の当たりにしていたので、「1試合も打たれてはダメだ」と思っていました。

 その年のオープン戦は登板するタイミングが毎回違いましたし、いろいろな状況で試されていることは十分に理解していました。一軍に残るためには、どんな形でも打者を抑えなきゃいけない。プロ1年目で、積み上げてきたものがないわけですから必死でした。

 それまでの登板では順調に抑えることができていて、いろいろな課題をクリアしてきたからこそ、秋山監督はあの満塁の場面で"最終テスト"をしたんでしょう。
無事に抑えることができて安心しましたよ。

――攝津さんは当初は中継ぎで、勝ちパターンの一角として活躍(2年目まで72ホールド)。3年目から先発に転向して14勝8敗、4年目は開幕投手に指名されるなど、秋山監督からの信頼が厚かった印象があります。

攝津 たまに監督室で話もしていましたし、信頼いただいていることは感じていました。それこそ、4年目の2012年の開幕投手を任された時も監督室に呼ばれたんです。

――どんな話をしたんですか?

攝津 前年の2011年に、和田毅さんがMLBのボルチモア・オリオールズに、杉内俊哉さんと(D.J.)ホールトンが巨人に移籍して、主力が一気に抜けたんです。

これだけ一気に主力が抜けることってあまりないですよね。前の年に先発ローテーションで回っていた投手が僕だけになってしまったんです。

 それで2012年のキャンプの序盤で監督室に呼ばれて、「わかってるな?」と。僕がその意味を察して「わかってます」と答えると、秋山監督は続けて「お前に投げてもらうから、そこ(開幕戦)にしっかり合わせてくれ」と単純明快に言われたんです。

――先発と中継ぎの両方を経験されていますが、ご自身としてはどちらをやりたかった、もしくは、どちらが向いているという思いはありますか?

攝津 中継ぎの時は「先発もやりたいな」と思っていたので、先発に回してもらった時は嬉しかったですね。でも、両方やってみて、「性格的には中継ぎのほうが自分には向いているな」と思いました。

――その理由は?

攝津 僕はやられたら、すぐにやり返したいんですよ。先発だと次の登板まで何日か空きますからね。あと、ブルペンでも間隔を空けて投げるのがあまり好きじゃないので、そういう部分では中継ぎのほうが合っているのかなと。

――秋山監督にかけてもらって嬉しかった言葉、印象に残っている言葉などはありますか?

攝津 先ほどもお話しした、入団時の"時間の使い方"ですね。それまでも時間を無駄にしているつもりはありませんでしたが、秋山監督に言われてあらためて考え直しました。僕はプロ入りも遅いほうでしたし(JR東日本東北時代、26歳でソフトバンクから5位指名)、最初にそういう言葉をかけてもらえたのは大きかったです。現役時代はずっと、その言葉が頭の片隅にありました。

――時間の使い方で特に意識していたことは?

攝津 やはり監督が言っていたように、"すべてが自分の責任"ということですね。僕はチームの練習が終わったあとに個人的な練習をしていたのですが、試合前はあまり時間がない。なので試合前は、チーム練習が終わったらすぐに自分の練習をするようにしました。先発に転向してからは、登板がない日にいろいろな場所に行って体のケアに時間をかけたり。それが、パフォーマンスの向上につながったと思います。

(後編:「本当に嫌だった」日本シリーズの登板。秋山幸二監督に「鬼の采配」と感じた>>)

【プロフィール】
攝津正(せっつ・ただし)

1982年6月1日、秋田県秋田市出身。秋田経法大付高(現ノースアジア大明桜高)3年時に春のセンバツに出場。卒業後、社会人のJR東日本東北では7度(補強選手含む)の都市対抗野球大会に出場した。2008年にソフトバンクからドラフト5位指名を受け入団。抜群の制球力を武器に先発・中継ぎとして活躍し、沢村賞をはじめ、多数のタイトルを受賞した。2018年に現役引退後、解説者や子どもたちへ野球教室をするなどして活動。通算282試合に登板し、79勝49敗1セーブ73ホールド、防御率2.98。